東京パラリンピックでは、本学文理学部卒業生から4人のメダリストが誕生した。
4回目のパラリンピック出場となった競泳の木村敬一選手は、100mバタフライ(S11)で念願の金メダル、100m平泳ぎ(SB11)では銀メダルを獲得した。
同じく競泳の富田宇宙選手は初めてのパラリンピックだったが、100mバタフライ(S11)で木村選手に次いで銀、400m自由形(S11)でも銀、200m個人メドレー(SM11)では銅と、3個のメダルを獲得した。
トライアスロン(PTVI1)の米岡聡選手は、やはり初出場ながら銅メダルを獲得した。
ゴールボールでは天摩由貴選手がキャプテンを務め、銅メダル獲得に貢献した。
文理学部にメダル獲得の報告に訪れた米岡選手、富田選手、木村選手の3人に、大学時代を含め今回のパラリンピックでの快挙に至るまでの道のりを聞いた。

米岡聡選手
在学中に走り始めて、27歳でトライアスロンに挑戦

米岡選手は神奈川県生まれ。10歳で網膜剥離を発症し、筑波大学附属視覚支援学校から本学文理学部心理学科に進学する。視力を落としたくなければ運動はしない方がいいと医者に言われ避けていたが、在学中の20歳の時、新宿駅でたまたま介助してくれた女性が障害者マラソンの伴走者で、話をするうちに「あなたのような若い人は何か運動をしなくちゃダメ!」と言われ、その人が主催する練習会に参加するようになった。 「将来は心理カウンセラーのような仕事をしたいと思って、心理学科を選択して入学しました。20歳で走り始めてからも、大学生のうちは週2回走るぐらいのレベルだったので、本当に趣味というか、レクリエーションの一環でやってたという感じです。学生時代は仲間と楽しく、大学生らしいイベントをいろいろ楽しんでいたなと思います」

トライアスロン(PTVI1) 米岡聡選手

2008年に卒業した米岡選手は、趣味の一環としてマラソンを続けていたが、大会で入賞したり練習会にも誘われるうちに、競技として取り組むことを周囲から勧められるようになった。走り始めて5年、25歳の時に近所にトレーニングジムができ、一緒に走ってくれそうな伴走者との出会いもあって、挑戦してみることを決意。それからは生活ががらりと変わって、走る回数はそれまでの週に2、3回から、最低でも週5回に増えた。2012年、27歳で目標としていたマラソンでの3時間切りを果たし、それをきっかけにトライアスロンにチャレンジする。それからは二つの競技で好成績を収め、3年後の2015年にパラアスリートとして三井住友海上火災保険(株)に入社した。

「マラソンで目標としていたタイムを2012年にクリアして、次はどんなことをやろうかなと思った時に、パラでもトライアスロンがあるという情報をいただいて、マラソンの伴走者でトライアスロンもされている方に、『トライアスロンにも興味があるんです』と話したら、翌週には用具を揃えてくださったんです。(マラソンもトライアスロンも)やればやるだけしっかり記録は伸びてきていたので、ちゃんと努力をすれば成果が出るということは感じていました。パラリンピックを意識するようになったのも、マラソンで目標をクリアした2012年ぐらいからです。トライアスロンにしっかり軸足を移して取り組むようになったのは2018年なのですが、そのタイミングからずっとパラリンピックのメダルを意識してやっていました。(メダルを取れた要因は)しっかりと準備をして臨めたことでしょうか。準備をして、本番もしっかりその想定通りにレースを運べたこと。自分もそうですけど、伴走者とのコンビネーションの部分もすごく大きかったかなと思います。(伴走者が)ずっとトップでやってきた選手(椿浩平選手)だったので、練習の仕方、取り組む姿勢、レースの状況判断といった部分でいっぱい引き出しを持っていて、すごく頼りになり、心強い味方だったなと思います」

富田宇宙選手
在学中は競技ダンスに没頭し、主将を務めた

富田選手は熊本県生まれ。3歳から水泳を始め、県高校総体6位、九州大会出場などの実績を残している。高校2年から目が悪くなり始めるが、スクリーンリーダーを使ってパソコンを操作できることを知り、システムエンジニアを目指して文理学部情報システム解析学科(現・情報科学科)に入学。在学中は水泳からは離れており、競技ダンス部に所属し主将を務めた。パラ水泳に取り組むようになったのは卒業して社会人になった頃だった。 「入学した時は最初に演劇サークルに入部してお芝居をしていたのですが、それと並行して漫画研究会でイラストを描いたりオタクな活動もしていました。最後にダンス部に入って、最終的には4年間続けました。僕が入った頃ダンス部はまだサークルですごく弱く、関東で33校中30位だったんです。それをサークルから部に変えて僕が主将になり、たくさんの仲間に支えてもらって、卒業する年には10位まで上がってはじめて団体で全国大会に行けました。それはもう本当にうれしかったです。4年間はダンスがすべてだったと思います。僕は入学する時はまだ障害者手帳を持っていませんでした。入学してから手帳を申請、取得したので、全然ご理解いただけなくて配慮も受けづらかったです。勉強しづらいのに加えて自分も勉強しなかったので、進級がすごく苦しかったですね。また、視覚障害の訓練施設にも通っていて、とてつもなく忙しかったです」

競泳 富田宇宙選手

2012年に卒業後、キャノンソフトウェア(株)にシステムエンジニアとして入社。それと前後して知人の紹介で障害者水泳クラブに入会し、水泳を再開した。2015年にパラアスリートとして競技に専念するためEYアドバイザリー株式会社(現在はEYJapan)に転職、日本選手権において2種目でアジア記録を出すなどの活躍を果たす。

しかし翌年のリオデジャネイロパラリンピック代表選考戦では、派遣標準記録を突破できなかった。2017年には日本体育大大学院博士前期課程に入学、同年に障害のクラスが変更となり、一転して世界トップクラスとなる。2018年のパンパシフィックパラ水泳選手権大会で3種目優勝、翌年の世界パラ水泳選手権大会では2種目で準優勝などの結果を残していた。その間ブラインドダンスの大会にも出場している。

「(水泳を再開したのは)6年ぶりぐらいでした。しんどかったです。大学時代にしていたダンスはシルエットが非常に重要なので、肩や背中の筋肉が余計だったんです。それを必死に落として体重も今より10kgぐらい軽かった。そこから水泳を始めたので最初は全然泳げませんでした。ブラインドダンスの大会に出場した頃は水泳が忙しくてダンスの練習はやっていませんでした。頼まれたら出るという感じで、普段練習していたわけではないです。2013年に東京パラリンピックの招致が決定して、そこで(パラリンピックを)少し意識するようになりましたけれど、真剣に目指そうと思ったのは、2015年にシステムエンジニアをやめて、パラアスリートとして就職した時からですね。今大会はすべての種目で自己ベストを出して、メダルを獲得するということを目標に臨みました。1年前の2020年までは、パラリンピックの機運醸成がまだまだ足りていないなと僕は感じていました。延期になって皆さんがさらに大変な状況の中で過ごしている中で、1年延びたことに負けずにチャレンジするパラアスリートの姿を、皆さんにお伝えすることができたと思います。延期になった1年は、パラリンピックの機運醸成にさらに有効に使える1年だととらえて努力してきました」

木村敬一選手
4度目のパラリンピック出場で念願の金メダル

木村選手は滋賀県出身。先天性疾患による網膜剥離で2歳の時に全盲になり、母の勧めで10歳の時に水泳を始める。小学校卒業と同時に上京し筑波大学附属視覚特別支援学校に入学、同校水泳部で頭角を現し高等部在学中に北京パラリンピックに出場した。 「日大に進んだのは、もともと教員志望だったので教育学科を受験して受け入れていただいたという経緯です。水泳も続けたかったのでいろいろご相談させていただいて、野口智博先生(体育学科教授)にお話ししたら、競技部の水泳部で練習するのは難しいけれど、ということで文理学部の水泳サークルをご紹介いただき、入会して練習させてもらっていました。僕はずっと特別支援学校で育ってきたので、健常者の人たちと一緒に何かをしたという経験がなく、水泳も一緒に練習するのは初めてだったのですが、4年生の時にロンドンのパラリンピックがあり、同級生、先輩、後輩の有志が自分たちでアルバイト代を貯めてロンドンまで応援に来てくれました。水泳サークルの仲間たちとの思い出が一番多い、というか、ほとんどですね」

2012年にロンドンパラリンピックに出場した木村選手は、銀メダル1個、銅メダル1個を獲得。翌年大学院に進んでからは野口教授の指導をマンツーマンで受けるようになる。この2013年からはパラアスリートとして東京ガス(株)に所属。2015年に修士課程を終え、翌年のリオデジャネイロパラリンピックでは銀メダル2個、銅メダル2個を獲得した。目標とする金メダルには一歩及ばず、さらなるレベルアップを目指して2018年には単身アメリカに渡りトレーニングを積んできた。

「金メダルを取りたいと思ったのはロンドンのパラリンピックで初めてメダルを取った後からでしたが、その後のリオデジャネイロパラリンピックで、充分金メダルを取るための準備は積んできていたのですが、叶わなかった。そこから延期もあってさらに5年、金メダルを取りたいと思ってから9年かかったなと感じています。アメリカに行って、言葉もしゃべれなかったですし、思い通りに行かないことが大半の中で生活したことで、精神的な強さを得ることができたのかなと思っています。リオのパラリンピックを迎えるまでにもトレーニングは沢山していましたし、戦う体は充分にでき上がっていたと思いますが、それに上乗せする形で心が強くなったことで、今回は金メダルまで届いたのかなと思います」

富田選手(写真左)、木村選手(写真真ん中)、米岡選手(写真右)

東京パラリンピックでメダルを獲得した3人の本学文理学部卒業生。
同じキャンパスで青春時代を過ごした3人のメダリストが、東京でパラリンピックの舞台で感じたことや、互いの関係、今後の目標について語り合う。

木村選手と富田選手のライバル関係、木村選手と米岡選手の意外な接点

高校時代にパラリンピックに初出場した木村選手、在学中に趣味程度に走り始めた米岡選手、卒業するとほぼ同時に水泳を再開した富田選手。三者三様の大学時代を過ごしてきた。

東京パラリンピック100mバタフライでは金メダルの木村選手に続いて銀メダルを取った富田選手は試合直後「木村君が金でうれしい」とコメントした。2人が知り合ったのは本学卒業後であるが、ライバルでありながら練習パートナーだった時期もあり、そんな関係から出てきた言葉だろう。一方、少し年齢が離れている米岡選手だが、在学中から木村選手とのつながりがあった。

米岡 富田さんとは今日が初対面なんです。

富田 はじめまして(笑)。

米岡 木村君は実は……。

木村 高校の教育実習で担当してもらっていました。

米岡 その時大学4年生で、頼りない先生だったんですが。木村君は元気のいい子だなと思いました(笑)。

木村 僕が一番やんちゃでした。教室にいられると困る生徒でしたね(笑)。お二人の話を聞くと大学時代ずっと競技をやっていた僕だけがマイノリティみたいになっていて、なんか奇妙な感じです(笑)。

富田 木村選手と始めて会ったのは関東地区の普及合宿ですね。木村選手は大学院生だった。

木村 私たちはまだまだパラ競技の普及もしていかなければいけないので、日本代表レベルだけではなく、障害のある選手が多く集まる機会となる合宿を年に1回か2回しています。そこで富田選手と初めて会いました。2013年だったかな。

富田 木村選手が、大学院を卒業してから野口先生(野口智弘教授/400メートル自由形元日本記録保持者、本学文理学部教授)にマンツーマンで指導を受け始めたんだよね。

木村敬一選手

木村 いや、野口先生には大学院生になってから指導を受けていたんですけれども……。

富田 野口先生が学外で行なっておられる一般の社会人向けの練習会があって、2015年頃に僕がそこに参加させていただいたのがきっかけで、木村選手と野口先生の個人的な練習に徐々に参加させていただくようになり、リオデジャネイロパラリンピックの前の1年間ぐらいは木村選手と一緒に練習させていただくことが多かったです。

木村 僕は金メダルを取りたい、つまり世界中の誰にも負けたくないと思っていて、そのためには常に高いパフォーマンスでトレーニングを続けなければいけなかったですし、どんな時でもさらに上を見て鍛え続けなければいけない状況でもありました。そういう中で、世界のトップレベルで戦える相手が、国際大会に行かずしても日本国内でもいてくれたというのは、僕にずっとプレッシャーをかけ続けてきてくれたということであり、すごく僕にとって負荷だったと思います。でもそのプレッシャーがあったからこそ、東京パラリンピックの決勝の舞台はすごく緊張しましたけれど、それに押しつぶされることなく勝ちきれた。パラリンピックの水泳、とくに僕らの障害の重いクラスは、競争率はオリンピックに比べれば低いですし、世界選手権やパラリンピックぐらいの大きな大会にならないと、本当に負けるかも知れないという戦いにはなかなかならないものでしたが、国内でも負けるかも知れないという戦いをつねにしてきたことが、最終的な成果につながったと思うんです。なので、富田選手の存在は、僕をパラリンピックチャンピオンに押し上げてくれるための、うーん……。

富田 土台? はしご?(笑)

木村 (笑)相手だったと思います。

富田 (「木村君が金メダルを取ってくれてよかった」とコメントしたことについて)もともと一緒に練習していた時は、僕は木村選手とは違う障害クラスで、ライバルですらなかったんです。単なるチームメイトであり練習パートナーだった。その時間を一緒に過ごして、木村選手がリオで金メダルを取りに行くのを、僕は代表に入れなかったので日本から応援していたのですが、取れなかったことはチームメイトとしてとても残念でした。その後木村選手がもう一度東京でそれを目指すという決断をしてからも、普通にチームメイトとしてその木村選手を心から応援していました。その後で2017年に僕のクラスが変更になり、木村選手と同じクラスになって、そこからライバルになりました。だから自分はもちろん東京大会で、最もいい記録、最もいい結果を目指していましたが、それまでの木村君の努力を応援してきた自分も同時に存在していて、彼が金メダルを取ったことをうれしく思いました。そこに自分がどういう結果だったかは関係のないことなので。

米岡 選手村にいる間はあまり情報が入ってこない環境でもあったので(他の競技のことは)分からなかったのですが、離村した後は一日中テレビの前で、他の競技も見ていました。

木村 選手村はテレビがないので分からないんですよね。

富田宇宙選手

東京の舞台に立って感じたこと、そしてこれから目指すもの

3人は結果を残すことができた東京パラリンピックを、改めて振り返ってどう感じているだろうか。そして目標を達成した今、パリパラリンピックに向けてどういう目標を設定しているだろうか。まだ3年後を考えるには早いかも知れないが、3人の内2人はすでに決めていることがあるようだ。

米岡 本当に現実離れしたというか、夢のような舞台だったなと感じています。試合があったのが(取材時点で)2週間ちょっと前でしたが、もっともっと前のことのような気がしています。それと今大会は本当に特別な状況下で開いていただけたということに、すごく感謝の気持ちがありますし、地元でやれたというのはすごく大きな意味を持っていたと思っています。無観客ということでしたが、オンライン上で友人や知人が応援してくれ、皆さんにすごく力をもらった大会だったなと思います。そういった場所でしっかり自分のパフォーマンスを出して、少しでもそういう応援に報いることができたのなら、よかったという気持ちです。

木村 本当に自分の中で長い間目標にしてきたことでした。自分が今まで生きてきた中でこれほどの大きな目標を立てたことはなくて、それを達成できたので、本当によかったなあ、という感想しか出てきません。お2人の話を聞いていて、自分は本当にまっすぐ生きてきたんだな、これしか自分は持ってなかったんだなって改めて思いましたし、そうやって頑張ってこられたこともすごい財産だなと思います。

富田 先ほど米岡さんからもお話がありましたが、僕にとっても初めてのパラリンピックで、たくさんの方に応援をいただき、皆さんに見ていただいて、競技をさせてもらう時間をいただけたことを、とても幸せに感じています。

米岡聡選手

木村 東京で大会ができたことはいろいろな意味で特別だったなと思っています。金メダルを取るという自分の一番の目標を、自分の生まれた国で達成できたことが何よりの幸せですし、そもそもこの特殊な環境下の中でのオリンピック・パラリンピックは、おそらく日本でしかできなかったのではないかなと思うんです。私たちは事前から毎日PCR検査を受け続け、選手や関係者の中から極力感染者を出さないようにして、大会を実施することによる感染の拡大だけはさせてはいけなかった。それを徹底することができたのは日本だったからだと思いますし、日本が世界に対して誇っていいことだと思うんです。

米岡(今後の目標について)今いろいろ各所と相談中のこともあるので、どうしようかな。考えははっきり決まっているんですけれど……。

木村 言えばいいじゃないですか(笑)。

富田 そんなすごいこと言うんですか(笑)?

米岡 いや、大したことじゃないんですけれど、ずっとマラソンもやってきたので、トライアスロンにはいったん区切りをつけて、マラソンでもう一回チャレンジしてみようかなと思っています。

木村 僕は何も決まっていないんですが、金メダルというのが自分にとって大きすぎる目標だったので、今はしっかりと新しい目標を見つけることが目標。そして、さらに強い人間に成長できるようにしていくことが目標ですね。

富田 米岡さんがマラソンに専念すると今聞いたので、僕はトライアスロンにチャレンジしようかなと今思いました(笑)。

木村 一枠空いたので(笑)。

富田 何らかの形でパリを目指していきたいなとは思っています。これまで競泳で8年間やってきましたが、今度はまた別の環境でさらにステップアップできるように、海外に行って競技に取り組みたいなと思っているんです。コロナもあるのですぐに行けるかどうかは調整中ですが。それから今回東京パラリンピックで本当に多くの方に興味を持っていただいたので、この波をさらに大きくできるように、今は一人でも多くの人に、パラリンピックの魅力や、僕らを通して感じていただける多様性の価値とか共生社会の重要性を伝える活動にも、全力を傾けていきたいなと思っています。

プロフィール

米岡聡(よねおか・さとる)
1985年9月6日生まれ。神奈川県愛甲郡清川村出身。10歳で網膜剥離を発症する。筑波大学附属視覚特別支援学校を卒業後、本学文理学部心理学科に入学、在学中に知り合った伴走者の勧めで練習会に参加するようになる。25歳から本格的に競技に取り組み、2012年に3時間を切ったのをきっかけにトライアスロンにも挑戦。2015年に世界トライアスロンシリーズ横浜大会で4位となり、以後世界レベルの大会で上位入賞を重ねる。トライアスロンと並行してマラソンも続けてきており、1500m、5000mのレースにも出場している。
パラリンピックは今回が初出場、トライアスロンで銅メダルに輝く。大会直前の世界ランキングは9位だった。三井住友海上火災保険(株)所属。


富田宇宙(とみた・うちゅう)
1989年2月28日生まれ。熊本県熊本市出身。3歳から水泳を始め、済々黌高時代には県高校総体6位、九州大会出場などの記録を残す。高校2年の時に網膜色素変性症を発症し、徐々に視力が低下。システムエンジニアになることを目標に、本学文理学部情報システム解析学科(現・情報科学科)に進学した。卒業後キヤノンソフトウェア(株)に入社、同時期に障害者水泳クラブ「東京ラッコ」に入会。2015年にパラスポーツに専念するためEYアドバイザリー(株)に入社、2種目でアジア新記録を作るなどS13クラスのスイマーとして好成績を重ねる。2016年のリオデジャネイロパラリンピックは派遣標準記録に満たず出場を逃すが、翌年に障害のクラスが変更され、S11クラスでは世界トップクラスとなる。
東京パラリンピックでは400m自由形、100mバタフライで銀メダル、200m個人メドレーで銅メダルを獲得した。EYJapan(株)所属。


木村敬一(きむら・けいいち)
1990年9月11日生まれ。滋賀県栗東市出身。先天性疾患による網膜剥離で2歳の時に全盲になり、母の勧めで10歳の時に水泳を始める。小学校卒業と同時に上京し筑波大学附属視覚特別支援学校に入学、高等部在学中に北京パラリンピックに出場する。本学文理学部教育学科に進学し健常者の水泳サークルに所属。在学中の2012年に行なわれたロンドンパラリンピックでは旗手を務め、銀メダル1個と銅メダル1個を獲得した。大学院文学研究科教育学専攻博士課程に進学し、野口智博コーチにマンツーマンで指導を受ける。2016年のリオデジャネイロパラリンピックでは銀メダル2個、銅メダル2個を獲得。その後単身アメリカに渡りトレーニングを続ける。
東京パラリンピックでは100mバタフライで金メダル、100m平泳ぎでは銀メダルを獲得した。東京ガス(株)所属。