
学生時代、一緒に旅行に行って撮った写真を友人にあげたら喜んでくれた。それが中西裕人氏が写真家を目指すきっかけだった。プロとなった今もその原点を忘れず、被写体となる人や一緒に物を作る編集者ら、関わったすべての人に喜んでもらえる写真を撮りたいという気持ちでシャッターを切る。
2015年にそれまで勤務していた出版社を辞めフリーの写真家として独立した中西氏は、父・裕一氏が研究してきたギリシャ正教の聖地・アトス山をテーマとして選んだ。そこで生きる修道士たちにも、同じ気持ちでカメラを向けている。

ギリシャ正教の聖地・アトス山(写真は、シモノスペトラ修道院とアトス山)。2014年以来、中西氏はしばしば足を運び、その風景やそこで暮らす修道士たちの姿を取り続けている(中西氏提供)
学生時代の旅行で撮った写真がきっかけで
本学文理学部史学科在学中、中西氏は友人たちと4人でカンボジアなどを旅した。35ミリの一眼レフカメラを携えていって、訪ねた先々の風景や、旅先での友人たちの表情をフィルムに焼き付けた。当時はまだデジタルカメラではない。
「今見るとブレていたり飛んでいたり、ひどい写真ばかりなのですが、撮るのが楽しかったんです。そして、たまにちゃんと撮れている写真があるとプリントして友人にあげた。そうすると喜んでもらえるのが嬉しくて、漠然と写真家になりたいと思いました」

学生時代のカンボジアの卒業旅行の写真(左から2人目)。一眼レフを携え数千枚の写真を撮った(中西氏提供)
史学科では着物の文様について研究し書いた論文が指導教員に評価されて、学会で発表しないかと声をかけられた。しかし「卒業旅行に行って写真を撮りたいから」と言って断ってしまったそうだ。卒業後も「写真家になるという変な自信があって」、1年近く就職せずにその道を模索していた。
やがて知人から撮影スタジオというものがあることを聞き、入社することに。そこで働く全ての人が写真家志望だが、撮影する写真家の助手のさらに助手のような仕事だった。掃除や炊事、洗濯などの雑用もこなし、時間も不規則、入社した5人のうち3人は辞めてしまうようなスタジオだったという。
「でも、そこで先輩たちから仕事に対する姿勢や、物事の優先順位を叩き込まれたことが、一番の基礎になりました。最初は僕も辞めようかと思いましたが、よくしてくれる先輩もいて徐々に人間関係もよくなってきました。何と言っても現場が見られるのが楽しかったです。女優さんが来てこういうライティングをしたら、こんなふうに仕上がるんだな、というのも見られるし、雑誌に載っているこの商品の靴はオレが磨いたなとか……(笑)」
そこで2年ほど働くうちにチャンスが訪れた。スタジオの利用者で、雑誌『いきいき』を出版する会社の社長に、「ウチで働かないか」と誘われる。そして入社したのが2005年、25歳のときだった。『いきいき』はシニアの女性向けの雑誌で、ともに文化勲章を受章した日野原重明さんや森光子さんといった著名人の写真から、ファッション関係や料理、通販用の商品の写真まで、ありとあらゆる撮影をこなした。
「社員のカメラマンは僕だけだったので、本当にいろいろな経験をさせてもらいましたし、どんな状況でも考えれば解決する方法はあるということを学びました。25歳で入社してとにかく現場経験を積むことができたのは、運が良かったといえるかもしれません」
2015年に独立するまで丸10年社員として働いた。その間には写真はフィルムからデジタルへと移行する。それもいい経験になったと中西氏は言う。雑誌名が『ハルメク』と変わった現在も、フリーとしてその仕事を続けている。
父が追い求めてきたギリシャ正教の聖地へ
父に同行してギリシャを訪れたのは、2014年のことだった。
「いつかは独立したいと考えていましたし、会社に入ってもうすぐ10年だなと思いながら、何か一生追いかけられるテーマを探していました。それで一度父親と一緒にギリシャに行ってみるか、と思いました」
中西氏の父・裕一氏は本学哲学科でギリシャ哲学を学び、大学院に進んで博士課程を満期退学、ギリシャ語も習得した。非常勤講師などを経て35歳で生産工学部の専任講師となり、2016年に退職するまで教授を務めている。研究活動でギリシャのアテネ大学に1年間滞在したとき、ギリシャ正教の祈りに参加する機会があり、興味を持った。
ギリシャ正教はキリスト教の教派の一つで、ギリシャやロシアなどの東欧を中心に多くの信者を持つ。正式な名称は「正教会」で、信者は「正教徒」と呼ばれ、ギリシャ人の95%以上が正教徒と言われている。その聖地がギリシャ北東部、標高2033mのアトス山。1046年以来女人禁制で、20ほどの大きな修道院と単身から数人で住む修道小屋(ケリ)などに分かれ、2000人ほどの修道士たちが祈りの生活を送っている。

アトス山のメギスティス・ラヴラ修道院で司祭としての職務を務める父・裕一氏(2014年撮影)(中西氏撮影・提供)
洗礼を受けて正教徒となった裕一氏は、以後年に数回ずつアトス山を訪れギリシャ正教の研究に専念した。2012年にはパウエル中西裕一として司祭となり、20年間アトスに通い続けるうちに最古の修道院であるメギスティス・ラヴラ修道院を訪れた際は、司祭を任されるまでになった。大学を退職した現在は日本の御茶ノ水にある東京復活大聖堂(ニコライ堂)で司祭として務めている。
その父がコンパクトカメラで撮ってくるアトス山の写真は見たこともない風景で、中西氏はかねがね興味を惹かれていた。
観光客の入山は1日10人程度までと制限されているが、正教徒になって手続きを踏めば自由に入れる。中西氏も洗礼を受け、父の知り合いの修道士が尽力して撮影許可を取ってくれた。
「一番最初に訪れた時の感想は、ここは果たして現実なのか、ということでした。それは中世から変わらない生活なんです」
聖地で祈りの生活を送る修道士たちの姿に大きく心を動かされた中西氏は、翌年、独立してフリーの写真家となると、コロナ禍で中断するまで毎年アトス山に足を運んだ。
写真を通して伝えたいこととは
『いきいき』で働いていた頃から、とくに人物写真が好きで、会社側もそれを理解してくれ、人物撮影の仕事を多く回してくれたという。アトス山の写真でも、世界遺産にも登録されているという自然や修道院などの風景もさることながら、そこで活動する父、そして修道士たちの姿や表情をとらえた写真がとても印象的だ。
それらの写真を通して伝えたいことを、中西氏はこう話す。
「彼らは僕が行った瞬間から家族のように接してくれるんです。そういう態度や考え方はどこから来ているのか、そして彼らが継承し続けている祈りとは何なのかと調べていくと、ギリシャ正教の根幹には家族への愛や人に対する思いがあり、祈りは自分のためではなく人への祈りであることがだんだん分かってきました。ただ行って写真を撮ってきたというのではなく、彼らがなぜこういうところで暮らして、生涯をここで閉じる覚悟をしたのか、それを知りたいし、それを伝えられるような写真を撮らなければいけないと思っています」
自分の写真が人に喜んでもらえたのをきっかけに写真家を志した中西氏。今、プロとして心がけていることを尋ねると、その原点からまったく変わらない言葉が返ってきた。
「雑誌や広告などの撮影は、一人では当然できないので編集者やライターと一緒に働き協力し合って撮影をするわけですが、一番いいのは編集者なら編集者の気持ちが僕に乗り移ったような絵が撮れることだと思っています。女優さんなどから直接お仕事をいただくこともありますが、そういう時もとにかくそこに関わった人たちみんなに喜んでもらえる仕事ができればいいなと思っています。アトス山の写真でも修道士さんたちが協力してくれているので、それは同じです」

中西氏が撮影した聖山アトスの修道士たち。一様に表情が明るいのが印象的だ(前回、6月末から7月にかけて東京・御茶ノ水で開いた写真展にて)

ともに本学を卒業した両親に、自分の好きな道を探せと言われ、自由に育てられたという中西裕人氏。大人になりプロの写真家となって、改めて父・裕一氏が追い求めてきたことに興味を抱いた。生涯をかけて研究してきたギリシャ正教の聖地に中西氏が同行して撮った写真を、父も喜んでくれている。
父が単行本『ギリシャ正教と聖山アトス』(幻冬舎)を刊行したのとタイミングを合わせ、今年7月末から「死は、通り道」と題する写真展を開いた。

写真展「死は、通り道」のパンフレットにも使われた、アトス山の道を行く裕一氏の姿(2014年撮影)(中西氏撮影・提供)
両親と3人兄弟、家族全員が付属校から本学へ
中西氏は男ばかりの3人兄弟。両親は日本大学櫻丘高校・本学文理学部の同級生で、子供は3人とも日本大学鶴ヶ丘高校から本学に進んだという、絵に描いたような日大一家である。両親は特に付属校や本学への進学を勧めたわけではなく、好きなことをやれと言っていたそうだ。そして中西氏は文理学部史学科、兄の崇人氏は文理学部ドイツ文学科、弟の宣人氏は芸術学部音楽学科に進んだ。
両親に話を聞くとこんな言葉が返ってきた。
「主人は毎年ギリシャに3か月行ったり半年行ったり。夏休みはだいたい行っていてほとんど留守でした。父親が自由人なので、これをしろといっても説得力がないから(笑)、好きなことを早く見つけてそちらに進みなさい、という方針でした」(母・庸子氏)
「日大はいろいろな道に行けますからね、息子それぞれが選んで好きな道を進んでいると思っています」(父・裕一氏)

両親と兄弟との家族写真。それぞれが父と同じように自分の好きな道を選んだ(中西氏提供)
兄の崇人氏は一般企業の営業マンになっている。一方弟の宣人氏は好きな音楽の道に進み、東京大学大学院で博士課程(学際情報学)を修了、楽器デザイナー、サウンドデザイナーとして活動し、「B.O.M.B」「POWDER BOX」など独自のデジタル楽器をいくつも開発、それらを用いた演奏活動を国内外で行うなど多角的に活躍している。
「とくに父には何をしろと言われたことはないです。論文の発表を断った時だけは『そんなチャンスはないからやった方がいいぞ』と言われましたが、それ以外は勉強しろとも言われないし、『好きなことをやればいい、ただし自分の責任だぞ』という姿勢でした。父が自分の好きなことをずっとやってきたので、私もそれを見て同じことをしているのかなと思います」
と中西氏は笑う。母・庸子氏は文理学部体育学科を卒業後銀行に勤めたが、長男を産んでからは専業主婦として3人の子を育ててきた。
「母は父がしばしばギリシャに行くことについても、『好きにすれば』『自由に行ってらっしゃい』という感じでした。あの母じゃなかったら父も自由に行けなかったと思います(笑)」
カメラデビューのきっかけも父だった
父とアトス山に足を運ぶようになって、改めて父の凄さを理解できるようになったと話す中西氏。今回の写真展「死は、通り道」では、父がなぜアトス山に通い続けたのかを表現できるような写真を選んだという。
「父がやってきたことを伝えたいという、使命感のようなものもありますね」
一方、父・裕一氏はこう話す。

両親と。飾られているのはギリシャ正教の宗教画であるイコンで、母・庸子氏が描いたもの
「裕人は最初にギリシャに行ったとき、こんなことをしているのかと驚いていました。それからだんだん自分なりにその世界の深さに触れていったんだと思います。私としては今までは言葉で示すか書くしかなかった。あんな写真撮れないですからね。私が関わっている世界をアピールするにはすごく助かっています。彼にとってもこれまで以上に注目してもらえるような写真を撮ることができて、とても良かったと思いますね。写真によって女房もより理解できるようになったし(笑)」
中西氏の写真は、家族をも喜ばせることができた。
家族の話をするうちに、中西氏はこんな思い出を語った。小学校6年生のとき、父が再び1年間ギリシャに滞在した。高校アメフト部の部活動が忙しい兄以外の家族で夏休みを長く取ってギリシャを訪れ、父の運転する車でヨーロッパ各国を旅して回った。
その旅行中は父が新しく買ったビデオカメラでの撮影を担当したため、中西氏はカメラを任された。
「今話していて思い出したのですが、帰ってきてから、神殿を逆光で撮った写真をいとこが見て、きれいだから欲しいというのでプリントしてあげたんです。考えてみればあれがカメラデビューですね」
自分の写真を人が喜んでくれた最初の経験は、実は小学生の時だったことになる。そして偶然かも知れないが、カメラに目を開かせてくれたのも父だったということに。
ギリシャの人々にも喜んでもらえた写真
初めてアトス山を訪れた翌年の2015年からは、何度か写真展を開いてきた。そして「撮った写真をギリシャにも返したい」と思っていた中西氏に、絶好の機会が訪れたのは2019年のこと。世界各国で日本の文化を紹介するジャパンウィークという催しがアテネで開かれ、茶道や華道、武道などに混じってやや異色だったが、中西氏のアトス山の写真も展示されることになった。大きなホールに1日何千人もが訪れた。
そこではギリシャの人たちにも喜ばれた。女性に「私たちは一生行けないところを撮ってきてくれてありがとう」と涙ながらに感謝されたり、毎日通ってきた学生に最終日に写真をあげたら喜ばれ、お返しに聖書をもらったりした。その機会に両親もアテネを訪れ、何十年かぶりの夫婦旅行にもなった。今後は定期的にギリシャで写真展ができる方法を探したいと中西氏は考えている。
2017年に写真集『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』(新潮社)を出版した。飛び込みでいろいろな出版社に電話をした中で、新潮社の編集者に会うことができた。最初は「今は写真集が売れないので難しいと思うが、一度作品を見せて欲しい」ということだったが、「こういう写真が足りない」というようなアドバイスをもらい、それからは何度か足を運んで新しく撮った写真を見せてきた。当時、展覧会に訪れたライターを通して依頼され、キリスト教のニュースサイトに連載していたアトス山についてのコラムが決め手になった。

2017年に刊行された初めての写真集『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』
「編集の方に何度目かに会った時に、『あのコラム見たよ。あの体験談と写真を合わせればいけるかもしれない』と言っていただき、実現することになりました。名刺代わりにもなるので、写真集を出せたことは大きかったですね」
アテネで行なった写真展を最後に、コロナ禍のためギリシャには行けなくなっているが、収束したらまた年に数回は足を運んで撮り続ける予定だ。
「今後は、修道士たちが祈りの場以外の場所でどんなことをしているのか、どんな表情をしているのかも撮りたいです。修道院に泊めてもらうと、そこでは作業姿だったりするのですが、でもこういう姿は撮ってはいけないのかなと思っていました。本当は撮りたいけど、まだそこまで自分も入り込めていなかった。だから今後長く通い続けて、人間関係を築きながら撮っていくということがテーマになると思います」
中西裕人(なかにし・ひろひと)
1979年6月14日生まれ。東京都出身。2003年文理学部史学科卒業。
2003年から2005年まで外苑スタジオ勤務。2005年より雑誌『いきいき』(現『ハルメク』専属フォトグラファーとして、文化人、芸能人、ファッション、料理、商品など撮影全般に従事。2015年に独立し、中西裕人写真事務所設立。
現在、雑誌、書籍、広告、Web、動画の各分野で活躍中。