日本発「キャビア」づくり
愛する地元・香川県引田町から世界へ

「キャビア」と聞いて、産地を日本と答える人はまだ少ないだろう。カスピ海原産、銀色の缶や瓶に入り、結婚式の食事など限られた場面で口にする世界三大珍味。歴史を遡ると紀元前や中世ヨーロッパ、カスピ海発祥といれ、かつてはすぐに腐ってしまうキャビアは漁業を営んでいる漁師の食べ物だったという。人々の味覚を虜にするキャビアは保存方法の発達ともに、貴族の間に広まり上流階級の間に貴重で高価なものになっていった。

歴史と格式あるキャビアを日本でメジャーに、そして先を行く世界と対等、いやそれ以上にすべく奮闘している人がいる。株式会社CAVIC・代表取締役社長の板坂直樹氏だ。

校長室は社長室、家庭科室は加工場に。

高松駅からJR高徳線・特急うずしおに揺られること45分。瀬戸内海を望む四国の東端、徳島との県境に近い引田町(現=東かがわ市)に、板坂氏の母校で現在は廃校になった旧引田中学校が物語の舞台。

引田の町は、世界で初めてハマチ養殖に成功した地で、その技術は後に「近大マグロ」に通ずる。また、和三盆(砂糖の一種)の発祥地と知られ、もともとは「三盆糖」と呼ばれていた。「三盆」の由来は諸説あるが、出荷港が香川の三本松であったからという説もある。

そこに第三の特産として旗を揚げた「瀬戸内キャビア」。

学校の特性を生かした施設で、キャビアづくりは行われている。

父・信定さんから継いだ内装業を主とする大協建工株式会社の二代目に36歳で就いた。
本社は高松だが、人口6,500人ほどの地元・引田出身者として、廃校となった母校を活用できないかと話しを持ちかけられたのが2012年だった。

記念館でも建てるか、倉庫として使うかと言われたが、
「商売人が生産性のないものつくったらアカン」
と、断固として首を縦に振らなかった。

当初は乗り気ではなく、すぐに頭に浮かんだ広い校庭に太陽光発電を設置するに留まった。

しかし、ある日、板坂氏いわく「(天から)降ってきた」のが、自身が少年時代に水泳部で泳ぎ明け暮れたプールを活用した養殖。
しかも、引田の特産であるハマチの養殖ではなく「チョウザメ」。キャビアに目を付けた。

突然のひらめきだった。

こうして、内装業を手掛ける大協建工株式会社はキャビアづくりの新事業に着手する。

チョウザメ(蝶鮫)はサメとついているが、サメではない。 チョウザメ目チョウザメ科の回遊魚で、外観がサメに似ていて背中のウロコが蝶の羽に似ていることから名付けられたとされている。 2億5千年前から生息し、海と淡水の両方で棲むことができる。産卵時は河川を遡上する習性がある。 香川県は他県と比べると雨量が少なくカラッとした気候で、学校の側を流れる小海川が枯れたのを子供のころから見たことがない。自分の経験がひらめきにつながった瞬間だった。

そこで試しに地下水を掘ってみると、ミネラル分豊富な天然水が湧いて出た。
その源泉を掛け流しで1,000tの水をプールに汲み、キャビアの養殖がスタート。

しかし、問題が起こる。
立ち上げ当初のある日、協力を得ていたハマチ養殖のノウハウがある地元の漁師さんから、連絡が入った。

「遮光幕を張ってくれ」

それもそのはず、遮るものがない屋外の50mプール。
裏手にある翼山もせいぜい250mほど、日陰は全くなかった。

水温の上昇による飼育水の異変にいち早く気が付いた漁師さんに対して、温度上昇を防ぐ、遮光幕を張らなければならない。建築業の仕事柄、ネットを張るために、支柱の強度計算が重要だと気付いた。

「ちょっと待ってくれ」強度計算が先だ。
支柱の強度計算をして50mを覆える遮光幕、容易なことではないとすぐに計算できた。

そう答えた翌日には、すでに遅かった。水温上昇で植物性プランクトンによる赤潮が発生した。水面は赤い、青ざめた。

急いで本業の高松本社から職人さんを呼び、隣の体育館にチョウザメを移動。幸い一匹も死なずに済んだ。
失敗から少しずつ学んでいった。

こうして、「水泳」「プール」「養殖」というストーリー設定は書き換えられ、屋根はある、鳥害に遭わない、戸締りができる利点のある「体育館」の床一面に水槽を置き、キャビアづくりの第二幕が始まった。

卵嫌いが奏功した自慢の品質

廃校再利用の相談を受けてから1年後の2013年。本格的に体育館にてチョウザメの養殖がスタートしたものの、チョウザメはキャビアとなる魚卵を抱卵するまで7年かかるとされていた。 「さすがにリードタイムが長すぎる」 そこで生育途中の個体、すでに抱卵している個体も買い付け、1年目から採卵、生産を開始しブランディングを図った。

加工を行うのは家庭科室。学校設備がキャビアづくりにマッチしていた。

キャビアと聞いて塩辛さをイメージされる方もいるかもしれない。

塩辛さは保存と物流の問題で、本来の原産地で食べられていたキャビアはそこまで塩味が強くない。
また、塩の浸透圧の関係で、缶の中で魚卵がつぶれて液体(ドリップ)が出ると生臭くなる。

初期の頃、展示会に出展した際にロシア人から「本当のキャビアは塩味がここまで強くない。それと、プチっとした固い食感は品質が低い」と聞いた。
目から鱗だった。

良いキャビアは口に運ぶととろける。

確かに自分も魚卵が苦手で、その理由はドリップの生臭さと固い食感だった。
良い魚卵はプチプチしてはいけないのだ。

そこから、キャビアづくりは研究となり、必ず板坂氏が味見をし、出荷の合否を判断する。
試食の数が1日150個体分になることもあった。
苦手な魚卵をそれだけの数を食べることは大変だが、判断基準を曖昧にしないためにも、今も味見は一人でしている。

採卵のタイミング、チョウザメの扱い方、水温、水槽の掃除まで些細なことまでこだわった。

そして6年後の2019年、予定よりも少し早く稚魚から育てたチョウザメが抱卵。

今では徳島県・鳴門市にも第二養殖場を構え、合わせて1万3千尾近くのチョウザメを飼育するまでになった。

5回断った謎の電話。「ゴ・エ・ミヨ」とは

ある時、会社に電話が入った。
「ゴ・エ・ミヨです」
板坂氏に取り次ぐように言われるが、何のことか分からず、銀座に出店したキャビアを扱うレストラン「17℃」のことだと思い、店に取り次いだ。
そこに、店長から板坂氏に電話が入る。
「社長、店ではなくキャビアです。キャビアが受賞しました」
ゴ・エ・ミヨとは、ミシュランと並ぶ強い影響力を持つフランス発祥のガイドブックだった。
その『ゴ・エ・ミヨ 2020』の日本版で、テロワール賞を受賞した「瀬戸内キャビア」。
テロワール賞は、その年に日本中のありとあらゆる食材の中から2社だけ受賞できる。優れた食材であることと食材を通して、生産地の風土や文化を、信念を持って伝える生産者に授与される、誉れ高い賞だった。
料理人界隈では、ミシュランよりゴ・エ・ミヨに選ばれることを名誉とするという。
板坂氏自らの地道な研究、営業が結実し手にした日本の食材の頂点。
世界に認められた「瀬戸内キャビア」が、次のステージへ上がる朗報だった。

1969年に創刊したレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ」の受賞式


日本人の味覚で育て、世界一美味しいキャビアへ

そもそも日本の食材、食文化としては無かったキャビアだが、同じように海外から入ってきた食文化が、日本人の味覚で磨き、日本発で世界に羽ばたいていった食材がある。
牛肉、黒毛和牛だ。
「今では海外に輸出して、現地の牛肉の5倍の値段で売られているそうです」
同じように日本人の味覚で育て、日本発で世界に評価される“キャビア”にするのが、板坂氏の次なる目標だ。
「ヨーロッパの真似をしていてはどうしても二番にしかならない。だから、日本人の味覚で育てるキャビアを世界一美味しいキャビアにしたい」

個体ごとに魚卵の色が違うキャビア。その世界は奥が深い

実際に世界一のキャビア商社が、「瀬戸内キャビア」を美しい水の美しい味がする、と褒めてくれたことがあった。

世界のグルメ家たちが、板坂氏がこだわった「瀬戸内キャビア」の一粒一粒に舌鼓を打つ日も近い。

地域の社会見学にも利用されるため、体育館のバスケットゴール等はあえて残している

本学水泳部で経験した人生一番の挫折
Bチームの星が挑んだ1年目のインカレ

引田中学校、香川県立三本松高校と香川で過ごし、本学水泳部のある東京で新たな生活がスタートする。高校時代は水泳で四国では負けなしの板坂氏。大学水泳界で日本一厳しい環境に、自ら選び身を置くことで得られたものがあった。ここでは板坂氏を作り上げた人生のターニングポイントをクローズアップする。人の温かさ、人の想い、鮮明に覚えている人生一番の挫折とは―。

水泳のルーツは小学2年生、転機は高校3年の夏

中学校では珍しく50mプールを有している引田の街は、伝統的に水泳が盛んだった。練習する環境は整備されていた。
「親父も水泳をやっていて、高校時代まで続けていたようです」
瀬戸内海を望む港町にあって、泳ぎが達者な人が多かったという。
三本松高校水泳部の卒業生が引田スイミングをつくり、父に「水泳やってみるか」と言われたが、意外にも「嫌や」と最初は断ったが、少し経つと気持ちが変わり、スイミングクラブに入った。

旧引田中学校、現在は廃校を利用した「つばさキャビアセンター」

かくして、板坂氏の“ひとかきひとけり”が始まった。

小・中・高・大学1年までは400m、1500m自由形、大学2年から50、100mに取り組んだ。

高校時代は四国チャンピオン。七つの大学から誘いがあったが、高3の夏に転機を迎える。

本学水泳部OBで三本松高校の先輩でもある浜口喜博氏(1952年ヘルシンキオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト)の目に留まり、「こいつはオリンピックにいける」という言葉を愚直に信じた。

当時の水泳部・石井宏監督(1960年ローマオリンピック競泳男子800m自由形リレー銀メダリスト)の耳にも情報が入る。

監督と電話で話す機会があり「君は推薦じゃないからね。勉強で入ってね」と言われて、初めて声を掛けてもらったが推薦ではないと分かった。それでもめげずに、一般受験で合格して日大へ進学。

水泳部の同級生24人。そのうちの一人に飛込の金戸恵太氏(高飛込でソウル、バルセロナ、アトランタオリンピックに出場)もいた。励みになった。

「(日大は)当時から水泳で日本一の大学でした。だから日大の中でも一番、二番にもなれないのは分かっていて、厳しい環境の中に自分を置いてみたいという思いもありました。Bチームになると分かっていながら、より上を目指す環境に行ってみたかった」

こうして板坂氏は、名門・日大水泳部に入部した。

そこで“人生で一番”の出来事が起きた。

今も一番記憶に残る大学1年のインカレ

大学での種目は1500m自由形。当初の予想通りBチームだった。
日本記録を持っている選手、日本高校記録を持っている選手たちと競い、4番目。

しかし、入学して最初の試合となった中央大との対抗戦・日中戦のタイムが良く、怪我人が出たこともありインカレ出場枠の3人に入った。

「俺は4年間Bチームだった。お前にはBチームからAチームに昇格した、Bチームの想いを一身に背負って頑張ってほしい」

当時、部屋長だった先輩・渡辺英樹さんに背中を押された。

「その言葉を聞いて必然、頑張らなければならないと思った。」

人の温かさや優しさ、想いに触れた瞬間だった。

体育会の水泳部は縦社会。6人部屋の1年生たちには、当然、炊事、洗濯、電話番などの仕事がある。しかし、練習時間を確保するために、4年生の先輩自ら「(板坂は)仕事はあんまりしなくていい、自分の洗濯物は自分でやる、2年生に手伝わせる、だからお前は頑張ってくれ」と言ってくれた。
「マネージャーや部屋長、先輩のご助力によりインカレに挑むことができたけど、そこでいい記録を出せなかった」

インタビューは校長室を利用した社長室で行った

思っていたより、いや狙っていたより、タイムは出なかった。高校時代のタイムすら出せなかった。結果はときに非情である。

「いくら想いが強くても、うまくいかないこともある」

そのときは、自らの不甲斐なさに強くショックを受けたが、いま振り返るとあの経験から得られたもの、受け取ったものの大きさが理解できる。

水泳は個人競技だが、記録を出すまでに自分に協力してくれる人、助けてくれる人がとても多い競技。先日まで行われていた“東京オリンピック2020”を観ていて、改めて実感したという。

「当時の自分にとっては、Bチームの星として頑張らなければならないという気持ちが強い中で、いい記録が出なかったら、そりゃへこむし、トラウマになる」

競技が終わった直後から、何回泣いたか分からないほど泣いた。自分を買ってくれ、送り出してくれた先輩・仲間たち、部屋長にも申し訳なくて、観客席には上がれなかった。

コーチ、先輩が「よく頑張ったな」と声を掛けてくれた。
ようやく観客席に上がれて1学年先輩の小谷実可子さん(アーティティックスイミング、ソウルオリンピック銅メダリスト)も「ここ空いてるから座り」と隣へ座らせてくれた。「よくがんばったよね」と言われる。

「頑張ってへんのに」

さらに申し訳なさがこみ上げる。その度、涙が止まらなかった。
人生で一番の挫折。

「こんなに期待を背負いながら、Bチームの星として、結果を残せないこんな競技なんて」

短距離の50m、100mに転向した。
その後、『スイミングマガジン』(ベースボール・マガジン社)の短距離20傑に載った。
器用だからできたと板坂氏は言うが、決して立ち直ったわけではなかったと回顧する。

それでもスポーツをやっていてよかったと思う。

「頑張ったら頑張っただけの成果が出ます。手を抜いたら抜いたなりの結果しか出ない。仕事も同じです」

結果が悪いと、どこかで手を抜いたと自分を顧みる。成果が出れば努力した結果だと思う。だから頑張ることは大事、と板坂氏は言う。

挫折、転向を経験し、日本一の水泳部での4年間は終わった。
そこからどのようにして現在の道を歩むに至ったのか。

「人は宝。磨いて宝石にしてみせます」
600人の前で誓った決意と信条

大学時代を東京で過ごした板坂氏は、社会人生活のスタートを大阪で切り11年を過ごし、33歳で香川に戻る。香川に戻ってから20年余り、思い出の詰まった学び舎を廃校のままにせず活用したことは、周囲に感謝されるという。知っている先輩、同級生はもちろん。その親世代や知らない人からも「あなた板坂さんでしょう。学校を買って桜並木守ってくれてありがとう」とよく声を掛けられる。「離れているときほど、地元を想う」周囲の声にさらに応えるべく、地元で雇用を創り、昼食は周辺のお弁当屋を利用するなど、出来るだけ引田の町に還元している。大阪での修行、そして地元に戻り社長になるまでを聞いた。

社長への憧れ、大阪での修行時代

父・信定さんが興した大協建工株式会社。小さい頃から漠然と「社長」への憧れがあったという。
いずれは父の跡を継ぐと、大学4年生となって建築業界の就職試験を受けて、大阪の同業者で1部上場の大建工業株式会社に入社した。

大学を出たばかりの若者が職人さんを使うようになる。年上に指示をするため、当然摩擦が多かった。大手ゼネコンの下請けとして、“番頭”と呼ばれる管理者の役割を11年間、勉強して修行を積んだ。

そんな中、3年目に結婚。しかし、まったく貯金がない。
夏に結婚したものの、冬場になるとコタツもストーブもなかった。一緒に働いていた職人さんにそうぼやくと、お金を出し合いストーブやコタツを買ってくれた。

「本当によく職人さんに育ててもらった。人付き合い、人間関係、コミュニケーションが得意な方だったのがよかった」

人付き合いが上手くなったのは、水泳と寮生活のおかげかもしれない。
水泳は個人競技とはいえ、スイミングクラブは学校外でのコミュニケーションの場。大学では寮生活で、絶えず誰かがいる。鍛えられ必然的に人付き合いがうまくなった。

「親も商売を始めた人ですから、人と人の関係を大切にするし、大事。ここさえしっかり確立できていれば、少々のミスは人間関係でカバーできる」

水泳同様、真っ直ぐ愚直に向き合った先に築けたものが、板坂氏を成していた。

「人は宝。人を磨いて宝石にします」

周囲の勧めもあり、大阪で11年を過ごし地元に帰ったのが33歳。
“番頭”としての自信はついた。
ある程度できると思っていたが、しかし、会社の経営、社長の仕事は全然違った。
3年間は営業本部長として父の跡を継ぐための勉強をした。
いつの間にか父がお客さんやメーカーさんに「そろそろ社長代わるから」と言っているのに気が付いた。
「え、俺代わるの」
周りからも「代わるんだってな」と声を掛けられるようになった。まだ先のこと、と思っていただけに驚いた。
父からは直接的な話は一切なく、36歳で社長就任を迎えることになる。

普段は来客を上座に案内するが、この日はかつて校長の座った上座でインタビューに答えた

強いて言えば、就任の2カ月ほど前、代替わりのパーティーをするからと段取りの話が出た。嫌だった。
父は、高松で600人を招待した盛大な社長就任パーティーをした。
「あれがなければ、ハガキを送り、各所に訪問して挨拶。ものすごい時間、費用がかかる。それが一回で済んだ。すごく理にかなっていた」
実際にパーティーで喋る番になると、緊張で頭が真っ白になった。
「各地からお集まりいただき、今日はここがさながら首都のようです」
用意してした3行ほどの言葉は覚えていたが、600人を見回すと言葉が頭から飛んだ。
なんとか言葉を繋げないと、と思うと、常に口にしている言葉しか出てこなくなった。
結果、それが大成功だった。

笑顔と人を惹きつける話のテンポが魅力の板坂氏

人は宝だ。
「じんざい」とはいろんな意味がある 
「人災、人罪」は組織に災いを
「人在」はただ存在しているだけ
「人財」は宝  

「親父から引き継いだ今いるスタッフを磨き倒して宝石にします。その作業を私はこれからやっていきます。宝にしてみせます、人を磨いてみせます。ここでお約束しましょう」

参加者の胸に新社長の言葉が響いた。

「夢現力」と「試行力」

「日大生の最もいいところは行動すること。失敗しても行動する。しぶとさが日大生の最も得意なところだと思います」

経済用語でスクラップ アンド ビルド、という言葉があるが、一方でしぶとく続けることも大事と板坂氏は言う。

「いまだに全社員に言い続けています。夢を持て。夢を実現させるには『力』が必要」

その「力」には二つある。

まずは「夢現力」。夢を現実にする力。
次に「試行力」。行動する、トライする。

思うだけではダメで、頭でっかちにリスクばかり考えては何も起きない。
行動してみることが肝要だと説く。

インタビューを通して、今の学生に言いたいことが挙がった。
「若いうちはナンボでも修正きくから、やりたいことやれ、夢を持てと言いたい。子どもの頃の夢はみんな絶対にあるから、無理矢理にでも紐づけていい、そうすれば人生に満足できる」
大協建工株式会社の高松支店にコックになりたかった職人さんがいた。
その職人さんは、夢と全然違うことをしていると板坂氏に言った。
そこで板坂氏が伝えた。
「モノをつくるという意味では一緒。何かをつくって買っていただいて満足してもらう、モノを作るとはそういうことではないか」
強引にでも結び付け、叶えるために頑張る。
だから、夢を持った後、目的をビジョン化して行動する。行動するのが最も得意なのが日大生のいいところ。
だから「夢現力」と「試行力」が重要と熱がこもった。
「失敗しても失敗しても失敗しても、しぶとく、最後に成功すれば失敗ではない」

かつて立たされた母校の廊下でブランドロゴと板坂氏

板坂氏に座右の絵がある。
「洞窟と頼朝」という日本画家の前田青邨氏(1885〜1977)の作品だ。

若い頃、戦に負け続けた源頼朝が、家臣含め7人となって洞窟に逃げ込んだという物語を絵にしている。

窮地にありながらも決して諦めていない、源頼朝の眼光に感銘を受けた。
たった7人になった時期もありながら、のちに征夷大将軍、つまり日本のトップになった。

しぶとくはとても大事。諦めることは簡単だけど、続けること、成功するまでやり続けるのは最も難しいかもわからない。

「私も失敗している、失敗もちゃんとある」

最後は柔らかい笑顔で、学生に伝えたい言葉を締めくくった。

キャビアは人を集める魔力がある

キャビアづくりで人と関わることが増えた板坂氏。

「キャビアは人を集める魔力がある」

以前は魅力と言っていたが、魅力では収まらない力を感じ、魔力という言葉を使うようになった。

廃校の再利用にスポットライトが当たるが、板坂氏の人柄、経験が織りなす懐の深さが随所に表れていた。

戯曲でも悲劇でも喜劇でもない、現実でしぶとく成功へ向け「夢現力」と「試行力」を実行し続けた板坂氏の結晶が、「瀬戸内キャビア」に込められている。

日本一の環境を求めて本学水泳部の門をたたいたように、キャビア発祥のヨーロッパ、世界を相手に挑み、羽ばたく「瀬戸内キャビア」から目が離せない。

板坂直樹(いたさか・なおき)

1968年生。香川県引田町(現:東かがわ市)生まれ。1990年文理学部卒。
本学卒業後、大阪の大建工業株式会社で管理者=番頭の仕事を学び、36歳で父が興した内装業の大協建工株式会社の代表取締役社長に就任。2012年から廃校になった母校・引田中学校の再利用としてチョウザメの養殖を始め、キャビアづくりを手掛ける。
「瀬戸内キャビア」の商品はフランスのレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ」のテノワール賞を受賞。銀座にキャビア・バー「17℃(ディセットゥ・ドゥグレ)」を構える。
座右の絵は「洞窟と頼朝」(作・前田青邨)。