これからの時代はクリエイティブな人材を育てなきゃいけない

松井氏がトータルデザインを手掛けたシェアオフィス・コワーキングスペース「axle御茶ノ水」にて
新進気鋭のロボットデザイナーとして名高い松井龍哉氏。これまでに手掛けた作品でGood Design賞、ACCブロンズ賞、iFデザイン賞、Red Dot Design賞を受賞するなど、国内外で高い評価を得ている。さらに第6回日藝賞を受賞し、本学芸術学部客員教授に就任。他にも成安造形大、早稲田大、東京理科大で教壇に立ち、航空会社「スターフライヤー」やシェアオフィス・コワーキングスペース「axle御茶ノ水」ではトータルデザインを手掛けるなど、幅広く活躍している。前編では平等院奉納プロジェクトの『œuf ho-oh(鳳凰の卵)』、幼少期から高校時代までについて語ってもらった。
『œuf ho-oh(鳳凰の卵)』に込めた想い
京都府宇治市にある世界遺産 平等院。
時の関白・藤原頼通が父である道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、創建したのは1052年。翌1053年に建立されたのが池の中島にある阿弥陀堂で、まるで極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、水面に美しい姿を映している。
華やかな藤原摂関時代をしのぶことができる貴重な御堂が「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは江戸時代初期のことで、正面から見た姿が翼を広げた鳥のように見えること、屋根上に一対の鳳凰が据えられていることが由来と言われる。
その平等院に新型コロナウイルス感染症終息を祈念して実施される奉納プロジェクトの申し出があった。奉納されるのは本藍染ガラスアート作品「œuf ho-oh(鳳凰の卵)」で、そのデザインとコンセプトは松井龍哉氏によるものだ。
松井氏は平等院の上空を1000年飛んでいる鳳凰が池に卵を落としたというストーリーを想像した。『œuf ho-oh(鳳凰の卵)』はその瞬間をガラスの中に収めた作品である。
「鳳凰の卵はコロナ禍の世を鎮め、次の世を担う為に平等院の鳳凰が産み、2052年に開創1000年を迎えるまでの30年間で孵化するというイメージです。これまでの1000年とこれからの1000年をつなぐのが現在のコロナ禍であると僕は捉えていて、この作品は、今日の闇から次に向かう意思を示した歴史の証であり、僕たちが懸命に生きている現在を未来につなぐ碑でもあります」
平等院を映す水面は日本の伝統色である「藍」で表現した。国選定の阿波藍製造技術無形文化財保持者・佐藤昭人氏による「蒅藍(すくもあい)」を用い、本藍染雅織工房の藍染師・中西秀典氏が製作した本藍染布を使用。それを高透明ガラスと光学ガラスを使用した組ガラスで挟んだ。

œuf ho-oh(鳳凰の卵)のイメージ図
「ガラスの中に2方向からレーザー光線を当てると光が重なった箇所に微小なヒビ(クラック)発生するので、それを利用してガラスの中に3Dで卵を形作りました。ですから最高級の素材と最先端の技術で作られた彫刻作品になります」
『œuf ho-oh(鳳凰の卵)』は2021年7月5日から3カ月間、平等院ミュージアム凰翔館で展示される予定だ。歴史に残るこの素晴らしい作品を是非多くの方に見ていただきたい。
そして、この作品を生み出した松井氏のこれまでの歩みについて、本記事で紹介させていただきたい。
デザイナーになるために
松井氏は1969年に東京都で生まれた。
幼少期から物を作ることが好きで、将来は何か物を作る仕事に就きたいと考えていた。小学校1年から中学3年まで絵画教室に通い、絵を描くことも好きだった。
「僕が幼い頃は、ロボットが登場する漫画やアニメが多かったのですが、ロボットを操縦するヒーローよりも、それを作る博士に憧れるという少年でした。作風も悪と戦い地球を守る『マジンガーZ』も良いのですが、実際の家庭の中に溶け込んだ『がんばれロボコン』にある妙なリアリティが好きでした。しかし9歳の時に「スターウォーズ」を観てからはR2D2に恋焦がれましたね。クオリティの高いリアリティに魅せられました」
建設会社に勤めていた父からは、平等院、奈良の大仏、法隆寺など、いろいろな建築に触れる機会を与えてもらった。その中でも印象に残っているのは、フランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルが移築された明治村と赤坂プリンスホテルだ。
「赤坂プリンスホテルで、エーロ・サーリネンという建築家の椅子を初めて見たんです。『カッコいい!』と思わず声に出してしまった椅子は、それが初めてでした。それからほどなくして自分で椅子を作りましたね」
小学生の時に自宅改修のためにいつも大工が家にいて、家の建て方や図面の読み方などを教えてもらった。中学に入り椅子の作り方を習い自作した。次第に凝った椅子を作るようになる。父の靴磨き用に作った椅子は足を置くための台が出てくる展開椅子で、自画自賛の出来だった。
「他にも当時使用していた学習机が恰好悪くて好きじゃなかったので、机も作りましたし、6畳の自室も作らせてもらいました。6畳の感覚というのは今でも自分の空間認識の基本になっていますし、椅子にはデザインに大切な要素が全て詰まっていると思いますね。デザイナーという仕事があるのを知ったのもこの頃だったと思います」

愛用する椅子はル・コルビュジエの代表作「LC7」
デザインに興味を持ったまま中学に進学した松井氏は、進路を考えていたときに、日藝の美術学科にデザイン科があることを知る。近所に住む大学生が日藝生だったこともあり、大学は日藝へ行くことしか考えられなくなった。
「日藝に行くために高校は付属校に入った方がいいと考えました。当時、鶴ヶ丘高には美術科がありましたし、鶴高卒の生徒は日藝へ進む人が多かったので、進路は自ずと決まりましたね」
本物を見る・知る
日大鶴ヶ丘高へ進学を果たした松井氏は、ここからデザイン漬けの高校生活を送ることになる。
印象に残っているのは毎日1匹のにぼしをデッサンするという課題だ。テレビや映画のような甘酸っぱい青春というよりはやりたいことが明確だったので芸術を基礎から学ぶ充実した高校時代だったそうだ。
そして何より自由な美術科にはいい思い出がたくさんある。
「普通科の生徒が修学旅行で沖縄へ行くなか、僕らは京都、広島へ行きました。美術科の先生はユニークな方が多く、『人生は短い、自由に生きろ』みたいなことを言われて、泊まる場所だけ決まっていて、自由に行きたいところを見て回るなどルールに縛られない方針が性に合っていた。学校帰りはのちに皆デザイナーになる美術科の友人達と渋谷や下北沢に行き、映画や海外のデザインの本を読むなどとても楽しかったですよ」
高校時代のアイドルはアンディ・ウォーホールだった。文化祭で映画を製作したりPOP ARTに興味を持つなど、彼が松井氏に与えた影響は大きい。
「将来はMoMA(ニューヨーク近代美術館)で展覧会を行い、ウォーホールに肖像画を描いてもらうというのが当時の大きな目標でした。ですから高校卒業間際に死んでしまったのはショックでしたし、うちのクラスにとっては大事件でしたね」

鶴ヶ丘高時代について語る松井氏
デザイナー松井龍哉にとって、その基礎を作り、感性が磨かれた高校時代はかけがえのないものだ。現在、鶴ヶ丘高に美術科はなくなってしまったが、松井氏はその復活を望んでいる。
「これからの時代はクリエイティブな人材を育てなきゃいけないと僕は考えていて、その意味で高校3年までの時間に本物を見る・知るということは、創造的に生きる全ての人に、とても大切なことです。ですから、日大には小学校や幼稚園もあるのでその頃から美術の教育にもっと力を入れてもらいたいですし、全ての付属校にデザインの授業を入れて欲しい。これまでのような”ルールを厳守する人材教育”では劇的に変化する世界にあっという間に飲み込まれてしまう。自らがルールを作り出せるような能力はやはり芸術やデザインを学ぶことでしっかり身についていきます。具体的には高校卒業時にクリエイティブな表現ツールとしてAdobeのソフトのフォトショップとイラストレーターが使えて、プログラミングができるようになれば、将来絶対に役立ちますよ。英語が喋れなくても海外で自活だって出来ます。」
デザインには別世界を見せる力がある

トータルデザインを担当したシェアオフィス・コワーキングスペース「axle御茶ノ水」の屋上にて
デザイナー/美術家として幅広いフィールドで活躍する松井龍哉氏。多くの人を魅了する彼の作品には、自身の人生で学んださまざまな想いが詰め込まれている。後編では大学時代から現在までの彼の人生にスポットを当てていこう。
パリの熱気
鶴ヶ丘高を卒業した松井氏は、念願の芸術学部デザイン学科に入学した。
大きな期待を胸に江古田校舎の門をくぐったが、大学生活は松井氏の想像したものとは全く違ったようだ。
「鶴高の美術科で3年間、日藝に入るために特訓を受けていたので、大学に入ったとたんに次の目標がやっぱり必要になったんですよね。他学科や他の美大に行った友人達とも交友は広げたが、創作していくための関心は横の繋がりだけでは足りない。そして自分の本当の関心がどこにあるかも入学後に大体わかってきた。」
そして海外の学校で勝負をしたいと考えるようになった。ただ、すぐに留学をしようというのではない。デザイン学科の課題をこなしながら、自分が行くべき場所を探すことにした。
アルバイトでお金を貯め、何度か海外へ足を運んだ。その中でも日藝の海外研修で行ったヨーロッパ研修は忘れることができない旅行になった。
「僕にとって初めての海外旅行だったのですが、初日に大勢の学生が食中毒にかかって、1週間ロンドンで足止めになったんです。幸い僕は元気だったから、1人でリバプールに行き、ストロベリーフィールズ、ペニーレインを巡りました。ジョンレノンの実家にも行って、興奮してつい勝手に家へ入ろうとしたら、中にいる人に慣れた感じで簡単に追い払われちゃいました。ホテルに帰って、食中毒の治らない友人達にリバプールの様子など説明したら、皆面白がって聞いてました(笑)」

大学時代について語る松井氏
研修が再開し、その後はベルリン、スイスのアルプス、ローマ、フィレンツェ、などを巡ったが、パリは特別だったという。フランス革命から200年という記念すべき年で、7月14日のパリ祭(革命記念日)に向け世界中の才能が結集したかの如くパリの街が目に見える形で大変革を起こしていた。
「当時のミッテラン大統領がパリでサミットを開き都市の大改革をして世界に示しました。ルーヴル美術館にガラスのピラミッドができ、オペラ座や凱旋門を新たな解釈で設計した建築が生まれるなど、パリはデザインと建築で生まれ変わった。初めてみたエッフェル塔は建設からちょうど100年経っていたが光り輝いていた。その熱気を目の当たりにして、将来はここに来なきゃアーティストになれないと本気で思いました」
その後、高校時代から憧れていたニューヨークを訪れるなど、大学時代から何度か海外旅行へ出かけたが、パリの印象は強烈で、その思いは日増しに強くなった。
「就職はせず、卒業後はパリへ行こうと企んでいましたが、美術系の大学院や専門コースの外国人はプロフェッショナルのキャリアがないとちょっと難しいのでは?と大使館でアドバイスを受けるなどどうするべきか思案して、一旦、国内にあるデザインの事務所で海外プロジェクトに携われるとこがないかなど模索していました。そして丹下健三・都市・建築設計研究所の門を叩くことになりました。」
メタとフィジカルの繋がり
1991年、松井氏の姿は日本を代表する世界的な建築家、丹下健三氏の設計事務所にあった。
入所からほどなく、イタリアの高名な出版社エレクタ社から丹下氏の作品集を作ることになり、その担当者に任命されたのだ。
「1946~96年の丹下先生設計活動50年を総括した400ページの大作品集です。それについては特に上司もいなくルールもなくイタリア出版社と直でやるという自分の性格的に合ってると思い「やります!」と始まりました。まずはこちらで作るべき本を計画してみました。年表を作り時間的な経緯を調査していきました。そこには日本の近代建築の歴史そのものがありました。定期的にまとめたものを丹下先生に見ていただき、細かくご指導いただくなど作業を繰り返しているうちに徐々に近代建築や丹下建築さらには日本の近代のダイナミズムの本質が見えてきて面白くなりのめり込みましたよ。世界史 日本史 個人史と繋げながら文脈を構成していくことで、作品集を作りながら近代建築史の中の丹下作品について実際に丹下先生にご指導いただく機会というのは今思うと本当に貴重な経験でした。そして次第に先生の講演資料や原稿作成も任されるようになり。もちろん新人がやるべき仕事もしていたので、大げさではなく、当時は世界で一番働いてる人間だと思っていました。あそこで10年分ぐらいの経験を積むことができたと思います」
プレゼンテーションのノウハウはもちろん、物事の本質をどう捉えどう扱うか、そして時間と空間に関する壮大なスケール感を学び、今でも基本になっている視座をいくつも得た。なにより直接丹下健三氏の薫陶を受けたことが、松井氏の人生の得難い宝になった。
渡仏したのは、5年後。パリの大学院ではインタラクションデザインを研究対象とした。
「丹下先生にこれからの若い人はコンピューターやネットワークを勉強しなさいという教えを受けていました。先生はそれらをメタと呼び、目には見えなくとも社会を構成してる概念であるメタ環境と建築や都市という目に見えるフィジカルの世界は繋がっているので、双方を理解することがこれからの建築家やデザイナーには求められると仰っていました。とても感銘を受けた考え方です。しかし建築もインタラクションデザインもそれを将来の仕事にするつもりはなく、自分が”21世紀にデザインしたい対象とは”既にあるものではない”と思っていたので、まずは情報ネットワーク社会などについて研究しておこうと考えていたのです」
研究に没頭しコンピューター言語を学び、パリにある多くの日本の大手企業のホームページを作成するアルバイト、ウェブ制作会社を起業したフランス人の友人と共に仕事をするなど、充実した時間を過ごした。高校、大学、そして丹下氏の元で学び基本のデザインができていたので、パリでも複数のデザイン仕事を依頼されなんとか生活はできていた。

「axle御茶ノ水」内にあるラウンジ”Mies”に掛かる松井氏の抽象絵画作品「 oeuf 45° 」と 「Mies」は芸術学部が取り入れたドイツのデザイン教育機関「バウハウス」の校長で建築家のミース・ファン・デル・ローエから命名 ミース・ファン・デル・ローエの名言 「神は細部に宿る」「Less is More」をモットーにしている空間
「それからインターンに行くのですが、これは必修でした。フランス企業を片っ端から受けましたが、全く受からず、次第にアメリカの企業を受けるようになり、IBMに採用してもらいました」
当時のIBMはソフトウェア企業のロータス社を買収し、フランスに支社を作っている最中だった。そのメンバーの一員となり、そのままフランスロータス社にデザイナーとして勤務することになる。
給料など待遇は悪くなかったが、松井氏はその仕事にやりがいを見つけることができなかった。
「ITの世界というのは非常にフラットで思ったほど僕には向いていなかった。世界を変えていくのだろうが、合理的なシステムを見つければ理論的に解決できる仕事です。丹下先生のプロジェクトでは200メートル級の建築の現場など、生きた心地のしない壮絶さが動いていたり、やはりリアルは断然おもしろかった。そう考えていたときに、たまたまロボットについて調べることになりました。ロボットは人間のリアルな環境の中で動くけど、行動規範はネットワークで作られる。もしかしたら丹下先生の言う、メタとフィジカルの繋がりというのは、まだ社会に存在していないロボットにその可能性があるのでは?と21世紀に入る少し前に探していたテーマがようやく見つかったように感じました」
いろいろと調べを進め、ロボット先進国が日本であることを知ると、すぐに帰国。
国立研究開発法人 科学技術振興事業団ERATO北野共生システムプロジェクトの研究員となり、日本で最高峰の人工知能研究者である北野宏明氏の下で、ロボットデザインの研究をスタートさせた。
松井氏が30歳のときだった。
自分の力を信じる
科学技術振興事業団ではヒューマノイドロボット「PINO」などのデザインに携り、念願だったMoMAでの展示を勝ち取った。
「長年の夢が叶い、感動という言葉の本当の意味を体感しました。しかしロボットPINOはアクリルケースの中に入れられ剥製のように展示されました。ロボットはこれから生まれて、動いているところが一番美しいのです。ケースを取るようにお願いしましたが、聞き入れられず、僕が目標にしていた美術館というのは物の墓場なんだと感じました。そこでまた目標が変わりましたね」
ニューヨークから戻ってすぐの2001年にフラワー・ロボティクス社を設立した。
機能的であるのと同時に花の美しさ、生物的な環境共生型人工物、人間に与える精神的な豊かさを自身が作るロボットで表現したいと考えたのが社名の由来だ。
フラワー・ロボティクスでは、工業デザインをベースに、さまざまなロボットをデザイン。これまでにヒューマノイドロボット「Posy」「Palette」や自律移動型家庭用ロボット「Patin」などのオリジナルロボットやKDDI社のロボット「Polaris」などをデザインした。
その功績が認められ、Good Design賞など、数々の賞を受賞。ロボットデザイナーとしてその名を世界へ轟かせる。

「axle御茶ノ水」のエントランスにある卵をモチーフにした松井氏の作品『oeuf 45°』。この場所から多くのスタートアップ企業が孵化し羽ばたいてもらいたいという願いが込められている
ロボットの他には「航空会社スターフライヤー社」などのCI計画からトータルデザインまで幅広いデザインを手がけ、クライアントワークを展開。
2020年からは現代美術作品の制作に着手。前編で紹介した「œuf ho-oh(鳳凰の卵)」は作品の一つだ。
「扉を開けたら全くの別世界を見せてくれるという力がデザインにはあります。ただ僕のデザインはその空間において、異質にならないものを心掛けてもいます。時代に寄り添い、はっきりとしたメッセージを発しているけども、しっかりその場に馴染むのが、ロボットにもアート作品にも重要なことだと考えているんです」
松井氏は自身が作る現代美術作品を『動かないロボット』と呼んでいる。つまりは何を作るにおいても同じ想いを込めて作品を世に送り出しているということだ。
今の自分があるのは学生時代から変わらずに己の力を信じた結果だと松井氏は語る。
そして松井氏は学生に向かいこれから”大変革を迎える世界”で生きていくために伝えたい言葉があると。
「Faith in oneself is the best and safest course.(自分を信じることが、最善で安全な道である。)
ルネッサンスの巨匠、ミケランジェロのこの言葉は自分の生き方そのものでとても腑に落ちます」
コロナウイルスというパンデミックを経て、世界は大きく変わっていくだろう。
その中で彼がどのような作品をデザインし、どのようなメッセージを発していくのか、大いに注目していきたい。
松井龍哉(まつい・たつや)
1969年1月2日 東京都生まれ。1991年芸術学部デザイン学科卒。
本学卒業後に丹下健三・都市・建築設計研究所を経て渡仏。帰国後に科学技術振興事業団ERATO北野共生システム研究員。2001年にフラワー・ロボティクス社を設立。自社ロボットの研究開発からトータルデザインまで幅広く手掛けている。
ニューヨーク近代美術館、ベネチアビエンナーレ、ルーヴル美術館内パリ装飾美術館 ヴィトラデザインミュージアム等でオリジナルロボットの展示を実施。また近年は美術家として現代美術作品を制作/発表し収集されている。2006年 個展:松井龍哉展(水戸芸術館) 2011年 個展:花鳥間(POLA MUSEUM ANNEX)