人がいて初めて成立するのが会社である

大多喜駅構内にて

千葉県いすみ市と大多喜町をまたぐ、全長26.8kmのいすみ鉄道。大原駅から上総中野駅までの14駅で構成され、小湊鉄道と接続することで、房総半島を横断することが可能だ。現在、いすみ鉄道の代表取締役を務めるのが本学出身の古竹孝一氏である。香川県高松市で若くして社長に就任した古竹氏に、その波乱万丈な経営者人生を語ってもらった。

運命を感じた社長公募

「菜の花鉄道」「国鉄時代の車両を活かしたキハレストラン列車」として、多くの鉄道ファンや近隣住民から親しまれている、いすみ鉄道株式会社。

その歴史は古く、大原駅から大多喜駅間が開通したのは大正元年のことで、国鉄、JR東日本時代を経て、昭和63年3月24日より、いすみ鉄道が運営を開始した。

 県や沿線自治体が出資する第三セクターのいすみ鉄道は、これまでに三度の社長公募をしており、その三代目社長として就任したのが古竹孝一氏になる。

 彼が社長公募を知ったのは平成30年7月27日。この日は古竹氏の誕生日で、いすみ鉄道に運命的なものを感じたそうだ。

社長公募について語る古竹氏

「当時はタクシー会社の会長職に就いていて、時間もあり、その年の春に子どもが大学進学で家を出ていたので、何か新しいチャレンジをしたいと考えていました。そうしたらかつて勉強をしていた千葉県にある鉄道会社の社長公募でしょ? しかも僕は大学・大学院で交通を学んでいて、それを知ったのが誕生日ですよ。絶対に適任だと思いました」

一次選考通過後、大学時代の仲間の計らいもあり、多摩モノレールで鉄道について学ぶ機会を得た。鉄道会社とタクシー会社の経営に大きな違いを感じたが、鉄道会社に勤める大学時代の仲間が多いことも後押しとなり、自信を持って最終面談を受けることができた。

「千葉県のそうそうたる方々が面接官を務める前で『僕を採った方がいいですよ』と言い切りましたよ。鉄道の知識がほとんどないのに、生意気ですよね(笑)」

いすみ鉄道の社長に就任してから2年半。今になってやっと「スタートラインに立てた」と古竹氏は語る。この短い期間に、台風や豪雨災害、コロナウイルスなど、さまざまな困難が降りかかるのだが、古竹氏のいすみ鉄道での奮闘については後編で語ることにしよう。

父の母校へ進学

古竹氏は四国初のタクシー会社として設立された日新タクシー株式会社の三代目として香川県高松市に生まれた。幼い頃から野球が好きだったが、その才能には恵まれず、高校時代は応援部に入部した。

 「応援団長を務めていたのですが、この経験から人の頑張るところを応援するのが好きな性格になっていきました」

 大学受験の際に将来について考え、真っ先に思いついたのが「道」で、道路を気持ちよく走ることができれば、きっと素晴らしい社会になると考えた。この考えに至ったのはタクシー会社の息子ということが影響しているのだろう。

いすみ鉄道本社のある大多喜駅

「高校は母の母校、高松第一高に進学したので、大学は父の母校である日本大学に行きたいと考えました。大きな大学に行きたいとも思っていたので、その意味でも日大は理想的でしたね」

そして、一年の浪人を経て本学の理工学部交通土木工学科(現・交通システム工学科)に合格する。

「大学時代はシェアハウスをするなど、楽しい思い出がたくさんあります。父から『交通博士になれ』と言われて、大学院も日大にお世話になりました。先生や職員さんにもかわいがっていただき、充実した時間を過ごせましたね」

結局、大学院で博士号を取得することはなかったが、父と話し合った結果、関東で就職することを決意する。しかし、ある企業の面接前日に父から帰郷命令が下った。

「ついこの間まで関東で頑張れと言っていたのに、突然『帰って来い』ですからね。僕もすっかりその気になっていたので、悔しくて大泣きしましたよ。あのときに関東で就職できなかったショックも、社長公募に応募した動機の一つです」

それでも心機一転、与えられた環境で頑張ることを誓った古竹氏だったが、高松に帰って驚愕の事実を知る。父の経営する会社は借金まみれだったのだ。

首切りカッターマン

26歳で故郷へ戻った古竹氏が、最初に行った仕事は個人保証の紙に判を押すことだった。

「銀行が持ってきた紙に『限度額7億円』『無期限』と書かされましたよ。これはどうにかしなければいけないと焦りましたね」

個人保証とは、会社が金融機関から融資を受ける際に、経営者や株主だけでなく、その家族なども含めた個人が会社の融資保証をすることだ。人が会社の債務弁済を保証するため、別名「人的担保」と呼ばれる。

いきなり追い詰められた古竹氏は、そこから大量のリストラを敢行。しばらくすると「首切りカッターマン」というあだ名が付けられていた。

「目が合ったらクビ宣告をしていました。ドライバーも中間管理職も見境なかったですね。人を駒のように扱っていましたし、当時はそれで間違っていないと考えていたのです」

日大出身者の助けが僕の力になる

大多喜駅に隣接する車両基地にて

新たなステージを欲していた日新グループの会長・古竹孝一氏は、いすみ鉄道の社長公募に応募し、2018年に代表取締役に就任した。かつて青春時代を過ごした千葉県で、経営者として新たな一歩を歩み始めるのだが、その先には台風、豪雨災害、コロナウイルスなど、さまざまな困難が待ち構えているのだった。

地域の街づくり

40歳になった古竹孝一氏は、代表取締役会長になった。若くて有望な人材に社長業を身につけさせるために両代表制度を採用したのだ。

「田舎の会社社長は平均年齢が高く、60代の方が多いのですが、その原因のほとんどは引き継ぐタイミングを逸しているんです。幸運にも僕は若くして社長になり、いいことも悪いことも経験できたことが財産になった。だから、みんな社長をやればいいと思ったのです」

両代表制度ではまず、権限を新米社長に渡した。古竹氏はサポート役に徹し、新社長がやりたいことをやりたいようにやらせたそうだ。

次第にサポートは必要なくなり、時間に余裕ができた古竹氏は、地域の街づくりイベントを積極的に企画し、開催していった。

「うどんと音楽を掛け合わせた『UDON楽』ではジルベスターコンサートを行いました。他にも香川に三つの路線を持つ、ことでん(高松琴平電気鉄道)ともイベントをしましたし、街づくりイベントをきっかけに、歌手のさだまさし氏が設立した、公益財団法人風に立つライオン基金の四国支部も任されました」

ことでんの社長をきっかけにいすみ鉄道の社長公募を知るなど、街づくりイベントに参画したことは、いすみ鉄道の社長になる上でも好影響を与えてくれた。なお、風に立つライオン基金で現在は理事長を務め、災害に苦しむ人への支援、ささやかで偉大な活動を行う人の応援など、「いのち」や「平和」のための活動を行っている。

大原駅行きの「いすみ300形」

日大卒が財産に

若くして社長に就任したことで得た経験、街づくりイベントで得たアイデアを形にする実行力が買われ、2018年11月に古竹孝一氏はいすみ鉄道の社長に就任した。

 しかし、その船出は順風満帆とは言えなかった。

「パートさんが責任者だったり、BCPがなかったり、そもそもそのようなスキームがなかった。組織図にできない状態ですから、これは会社とは呼べません。第三セクターというのは不思議な世界で、足りなければもらえればいいという考えが染みついている。もちろん社員は仕事を頑張ってはいましたが、『このままではいけない』という危機感を持った人は少なかったです」

人気の高い、国鉄型ディーゼルカー「キハ52」にて

1円でも足りなければ会社存続の危機となる民間会社とは異質の空間がそこにはあった。そのような状況から奮闘することになった古竹氏に手を差し伸べてくれたのは、日大出身者たちだった。

古竹氏が始めた事業の一つに「い鉄ブックス」がある。

いすみ鉄道に寄付された本をオンライン上で販売し、その収益の一部をいすみ鉄道支援のために活用するというプロジェクトで、現在まで6000冊を超える本が集まっている。

「い鉄ブックス」事業を始める段階で問題となったのが、本の保管場所だ。その倉庫を日大卒業生が貸してくれることになった。

「支店長制度という事業では、理工学部の研究室にも協力していただきました。他にも千葉県の交通計画課の方、大多喜町の商工会会長、上総中野にある建設会社の社長など、日大出身者の方々が助けてくれました。校友会にも講演する機会をいただきましたし、千葉に来てから日大出身でよかったと思うことがたくさんありました。これは僕の財産ですよ」

大きな鉄道会社では大金を使って大きな事業を起こすことができる。しかし、赤字続きのいすみ鉄道には、金銭的な余裕がない。だからこそ小さな事業をコツコツと積み上げることが大切で、その際には近隣住民や支援者の協力が欠かせないのだ。

「共通点が一つでもあると、その人に親近感を持てますし、うれしいですよね。日大出身者というのは本当にたくさんいて、四国に比べて関東は多い。『応援してるよ』という声だけでもいい。それが僕の力になります。在校生でも卒業生でも、いすみ鉄道と何かしたい、協力したい、してほしいという方がいれば、是非ご連絡をいただきたいですね」

チーム千葉を目指して

周囲の協力もあって、少しずつではあるが、着実に古竹氏といすみ鉄道は前進していくのだが、この2年半で直面した困難は数え切れない。

台風、豪雨、コロナウイルスと3年連続でいすみ鉄道は大きな被害に見舞われた。

特にコロナ禍での2020年の緊急事態宣言では乗客が全くいなくなり、絶望的な状況だった。そして古竹氏はその光景を、神様からのお告げと捉えた。

「誰も乗車していない車両を見て、何もしなかったら10年後にはこうなると教えてもらえた気がしたのです。だから先にこの光景を見ることができたのはチャンスで、何とかこの逆境を跳ね返さなければいけないと思いました」

古竹氏が常に考えを巡らせているのは、千葉県のために何ができるかということだ。

いすみ鉄道と言えば、菜の花や観光列車としてのイメージを持つ方が多いことだろう。もちろん観光客や鉄道ファンの需要は大事にしていかなければならないが、それと平行して沿線住民の増加にも貢献したいと古竹氏は言う。

「この地域の人口は約8000人で、過疎化が止まらない状況です。今はリモートワークが推奨されていますが、その意味ではいすみ市や大多喜町はとても良い環境だと考えます。大多喜町は都心に出るのも車なら1時間ほどですし、房総半島のほぼ中心にあるので、勝浦、大原、木更津や鴨川も30分ほどで行くことができる。ですから我々が千葉県のハブとなれるように、地域の街づくりを頑張りたいのです」

街づくりのアイデアの一つとして、国吉駅近くにあるシャッター商店街をブックロードにするという案を練っている。

い鉄ブックスの所有する本を商店街に広く置き、商店街を本で埋め尽くす。そして読み聞かせや批評会などのイベントを行い、地域活性化に役立てたいというのだ。

チーム千葉の一員になりたいと語る古竹氏

「僕は一流の社長ではないですし、小さなことしかできません。ただ、その小さな一つ一つを積み上げて、その中で地域と地域を繋げる役割を担えたらと考えています。就任の際にチーム千葉、チームいすみ鉄道を目指すと言いましたが、その思いは今も変わりません」

古竹氏のこれまでの経営者人生は波乱万丈だった。だからこそ多くを学び、さまざまな場面で喜怒哀楽を感じ、糧とすることができたのだ。

インタビューの最後に将来は再び本学で学び、後輩のために教壇に立ちたいと語った古竹氏。有言実行の男だ。きっとこの目標も達成させるに違いない。

そしてその日までに、新たに何かおもしろいことをいすみ鉄道でやってのけてくれるはずだ。

古竹孝一(ふるたけ・こういち)

1971年7月27日生まれ。1997年、日本大学大学院理工学研究科交通土木工学専攻(現・交通システム工学専攻)修士課程修了。香川県出身。
大学院修了後に香川へ戻り、高松市の日新グループのために尽力。さまざまな経験を経て、人を辞めさせない会社づくりをモットーに、35歳で日新グループ全体の社長に就任。40歳で取締役会長。
2018年11月に社長公募により、いすみ鉄道株式会社の代表取締役に就任。