北の地で受け継がれる歴史と品格のDNA
新たな時代を切り開くレイクヴィラファームの10年

“蝦夷富士“と呼ばれ親しまれる羊蹄山を背にレイクヴィラファーム代表・岩崎伸道氏

日本競馬史で指折り名馬「メジロ」の冠を輩出した北海道・洞爺湖町にある「メジロ牧場」。しかし、成績不振などを理由に2011年5月に閉鎖となった。

史上初の牝馬三冠馬・メジロラモーヌ、そして記録よりも記憶の残り、1991年の宝塚記念を制したメジロライアン。そのファンを魅了したメジロの意志を継ぎ、「レイクヴィラファーム」として再出発したのが岩崎伸道氏だ。

新たな形でターフに帰ってきたメジロ、もといレイクヴィラファームの10年とこれからを追う。

一時代の終焉に託された思い

2011年4月27日、競馬界を震撼させたニュースが駆け巡った。
「メジロ」の名で数々のレースを制したメジロ牧場の閉鎖が発表。同年5月20日に閉鎖。

閉鎖の背景には、メジロ牧場を興した北野豊吉氏(1984年没)の妻・ミヤさん(2004年没)が、当時専務だった岩崎氏に「アナタの仕事」と託した思いがあった。

「牧場は倒産する前に、誰にも負担をかけずに閉鎖できるときに閉鎖しなさい」

当時のメジロ牧場は、オーナーブリーダーと呼ばれる自家生産馬を競走馬に育て、獲得賞金で経営を回していた。

「逆算すると、内部留保・貯金が3億を切ったらイエローゾーン(黄色信号)、2億円を切ったらレッドゾーン(赤信号)と自分で決めていました」

そのイエローゾーンに入ったタイミングで東日本大震災があり、競馬が2、3週間中止になった。

賞金で運営しているオーナーブリーダーには痛手となり、閉鎖を決意した。

メジロからレイクヴィラファームへ

閉鎖を決め牧場を整理していた5月のこと。
牧場を閉めることの報告と、所有している馬を買ってくれないかの相談に、ノーザンファーム(競走馬の生産・育成・調教を行う国内トップの総合牧場)の吉田勝己社長のもとを訪れた。

吉田社長とは高校からの知り合い。日大櫻丘高で馬術に出会った岩崎氏、同学年で慶応高校馬術部だったのが吉田社長。互いに大学まで競技を続けた二人は旧知の友だった。

「なんで閉めるんだ」

吉田社長の言葉が返ってきたが、岩崎氏の理由を聞くと「分かった、出来るだけのことはする。一晩考えさせてくれ」と言った。

翌日、吉田社長からの返事は意外なものだった。
「岩崎、助けてやるから自分で牧場やりなよ。あれだけの基盤があるならもったいない」

吉田社長の後押しに、それも一つの方法だなと思った岩崎氏。
息子の岩崎義久氏にも相談すると「そういう話があるならやりましょう」とさらに背中を押された。

そして吉田社長の援助のもと牧場を買い、2011年5月20日にメジロ牧場からレイクヴィラファームに全ての名義変更を1日で済ませた。
「調教師さんは、関東も関西も預託料請求が20日締め。日割り計算が大変だから書類も土地も全て20日に変更した」

こうして2011年5月21日、レイクヴィラファームとして新たな一歩を踏み出した。ミヤさんが思いを託したように、誰にも迷惑を掛けないようにした気遣いはメジロ牧場で培った。

レイクヴィラファームと名付けたのは吉田社長。
「洞爺湖が近い、レイク。レイクヴィラがいいよ。それでいこう」と言うと、周りの反応もよく、すぐに決まった。

オーナーブリーダーからマーケットブリーダーに

レイクヴィラファームとして一歩を踏み出した岩崎氏。

これまでのオーナーブリーダーから「競りで生産馬を売る」マーケットブリーダーへと舵を切った。
マーケットブリーダーとは自家で生産した馬を馬齢2歳になるまでに競りで売ることで経営を回す形態のことだ。

別に、庭先(取引)と呼ばれ、生産馬を繋がりのある調教師や馬主と競り以外で取引する方法もある。
しかし、もともとオーナーブリーダーだったレイクヴィラファームはそういったしがらみがなく、純粋に競りだけで生産馬を送り出す。

「そろそろ丸10年、赤字は一度もありません」

メジロ牧場時代から北海道に渡り半世紀。
先代から馬の育成だけではなく、経理もこなしていた岩崎氏は、経営でも勝ちを続けている。

馬との出会い

東京生まれ東京育ちの岩崎氏。馬との出会いは高校時代にさかのぼる。
高校の受験を控え、日大櫻丘高を訪れた際に馬場を見つけた。
もともと動物が好きだったこともあり、櫻丘高の馬術部に入ることに憧れた。
そして見事、櫻丘高に進むと馬術部へ入部したが、あったはずの馬場がグラウンドに変わっていた。
ちょうど入学時に馬場は、現在本学馬術部のある小田急線・六会日大前駅へ移転していた。

平日は週2日、参宮橋にあった東京乗馬クラブ、土日は六会で馬に乗る生活を3年間送った。
時を同じくして本学馬術部に後藤監督が就任。「おっかない監督だと思った」

「大学に来るんだろ」と声を掛けられ「はい、お世話になります」と二つ返事。
自身も他の選択肢は考えておらず、大学でも競技を続けた。

馬術部で過ごした日々を「いい仲間と馬術を続けられたのは、ともに目的をもってやる。それが楽しかった」と振り返る。いまでも大学の垣根を超えて付き合いがある同期という財産を得た4年間だった。

恩師とメジロ牧場

岩崎氏がメジロ牧場へ初めて行くきっかけになったのが当時の本学馬術部・後藤博志監督だった。メジロ牧場のオーナーの次男・北野雄二氏(立教大学馬術部)と同級生だった後藤監督。その繋がりで、メジロ牧場から引退した競走馬の寄贈を受けていた。

 その内、現在の洞爺の牧場をつくるにあたり人手が必要で、アルバイトの打ち合わせに行くように後藤監督に言われ、そこで初めてメジロ牧場に行った。

後藤監督の指導は、社会人になってから響いたものが多かった

そして、夏休みになると馬術部員が牧草の整理や馬の世話を交代で行き、交流が始まった。

「北海道って良いな。一生過ごせたらいいな」と思うようになった。

「自分が今日、牧場で馬に携われて、牧場を継ぐことができたのは監督のおかげです」 きっかけをつくってくれた後藤監督に対しての感謝は厚い。

とても厳しかった後藤監督。人前でも怒られたが、絶対に暴力は認めなかったという。

「話して分からない奴が殴ってわかるか」

社会人としての生き方を教わった。

後編では北海道の地へ移ってから、そこでの思いを伺う。

一頭一頭への思い出 感謝とこれから

東京生まれ東京育ち、馬との出会いも東京の岩崎氏。馬とのつながり、北の地に根を張った感謝の半世紀を伺う。

サラリーマン、そして北の地へ

大学卒業後、東京で営業職のサラリーマンをしていた。 しかし、「つまらなく1年で辞めました。そこで北海道にいこうと決めました」

 その頃の競馬はまだマイナーで、競馬新聞を電車内で読めない時代。

 我慢してサラリーマンをやったが面白くない日々で芽生えた「北海道に行って馬に乗りたい」という強い思い。 親兄弟、周囲の反対を押し切り、大学卒業後の翌年にあたる1972年の夏に北海道の地を踏んだ。

 メジロ牧場はその時、伊達町(現在の伊達市)の牧場が完成し、洞爺の牧場をつくり始めたころだった。

「毎日が楽しかった。午前中は馬に乗り、午後は土方、夜は事務仕事して温泉へ飲みにいき充実していました」

4月中旬でも残雪がある洞爺湖町。例年、積雪は1mを超す


北海道へ移り半世紀。
「一度として後悔はない。北海道の雄大さ、そこで馬に乗る爽やかさ、東京では味わえません」と岩崎氏は言い切る。

本学馬術部とメジロ牧場の橋渡しから始まり、サラリーマンを経験。牧場で働く日々は転職ではなく天職となった。

「本当の強さは、誰も知らない」

岩崎氏は思い出が深い馬を二頭挙げた。

メジロライアン

メジロラモーヌ

記録よりも記憶に残る名馬・メジロライアン。

1990年クラシック3冠レースは、皐月賞は2番人気で3着、ダービーは1番人気で2着、菊花賞も1番人気で3着。続く12月の有馬記念でも2着となり有力視されながら、あと一歩という戦いが続いた。

そして迎えた1991年6月の宝塚記念、ついに歓喜の瞬間が訪れる。

 同胞・メジロマックイーンに次ぐ2番人気。第3コーナーを抜けると一気にペースを上げて直線入り口で先頭に。そのままゴールまで駆け抜け、追い上げてきたメジロマックイーンに1馬身半差を付けて勝利した。

 念願のGⅠ制覇を果たした。

 「(メジロ)ライアンは自分たちの生産馬で愛着がありました。ことごとく悔しい思いをしたから、宝塚記念でやっと勝った時には本当にうれしかった」

 華麗な馬体と期待されながら惜敗が続いた走りに、女性ファンが多いライアン。宝塚記念を境に故障に悩み1992年に引退となった。

 日本中央競馬会(JRA)が制作するポスターを飾ったライアンのキャッチフレーズは「本当の強さは誰も知らない」だった。

一番献花が多いメジロライアン。写真、馬具とともに飾られている


もう一頭は、メジロ牧場にはじめてのクラッシックをもたらしたメジロラモーヌ。1986年の桜花賞、単勝オッズ1.6倍の本命で見事1着で駆け抜けた。

「一番人気の馬が勝つのは大変なことです。勝った瞬間の嬉しさは、これがクラシックかと勝つ重みが違いました」

 それだけではなく、メジロラモーヌはトライアル(主要レースの予選競争)、本番(桜花賞、オークス、エリザベス女王杯)で6連勝。“完全三冠馬”と呼ばれ、いまだ破られていない偉業を達成した。

2冠目となった東京優駿(オークス)


功労馬への労い

牧場の一角に功労馬のお墓がある。一時代を築いた馬たちに対する感謝の証だ。

メジロ牧場を閉めると決まった時に、お墓をどうするかを一番悩んだ。
荒れ放題になると、ファンの方も落胆するだろうと、近くに住んでお墓を守ろうと思っていた岩崎氏。
お世話になった北野豊吉氏、ミヤさんへの恩返しとして最後まで守り抜くのが仕事だと思っていた。
結果的に、レイクヴィラファームとして再出発することで、恩を返す日々を送る。

「有難いことに(牧場を)続けられて、感謝しています」

お世話になった人だけではなく、牧場を支えた功労馬への感謝も忘れない。

目標と馬を通して得たもの

レイクヴィラファームとして10年。

 次に目指すのは「未勝利馬を減らすことが一番大事。買っていただいた馬が新馬戦でも一つ勝つ」ことだ。

 マーケットブリーダーは、生産馬を買ってくれる馬主さんに支持されて成り立つ。未勝利馬を一頭でも減らし、生産した馬が一回は全頭勝つことを目標にしている。

 最後に、馬との出会いで得たものを「人とのつながり」と表す岩崎氏。

「馬を通すと人間関係がとても広がります。競走馬一頭が走るだけで、知り合いが増える、人と人を繋げる役目を持っている感じます」

岩崎氏が音を鳴らすと馬たちが親しげに寄ってくる

高校大学で明け暮れた馬術部での日々が人間関係を広げ、恩師のもとで人として大きくなり、一頭の競走馬を通して色んな出会いに恵まれた。

「馬は人と人を繋ぐものすごい力があります。馬の持っている力は無限にあると思います」

常に周囲の人、そして馬への感謝の言葉を口にする岩崎氏。
オーナーからマーケットにシフトしたレイクヴィラファームは、本当の強さを馬主に委ね、巣立った我が子が全国のターフを駆ける姿を見守り続ける。

岩崎伸道(いわさき・のぶみち)

1948年11月4日、東京都生まれの72歳。経済学部産業経営学科卒。
日大櫻丘高で馬術競技に出会い、大学でも競技を続ける。東京で就職したが、1年で北海道に渡りメジロ牧場で働く。
現在は85haの敷地を有するレイクヴィラファームを経営し、生産馬がレースに出る週末は競馬場で馬主さんと声援を送る。