一歩ずつ前に進むと同時に一段ずつ上へ登っていきたい

ソユースタジアムのピッチにて
サッカー不毛の地と呼ばれる秋田県で、今注目されているサッカークラブがある。岩瀬浩介氏が代表取締役社長を務める、ブラウブリッツ秋田だ。岩瀬氏は前身のTDKサッカー部に選手として在籍し、その後クラブ化に向けたスタッフを兼任。引退後にフロント入りし、危機的な経営難であったクラブの社長に2012年に就任する。秋田で奮闘する岩瀬氏に、サッカーへの情熱、青春を捧げた大学時代などについて語ってもらった。
目標は残留・J2へ定着
2020年シーズン、28試合連続無敗を記録するなど圧倒的な強さを誇り、JリーグDivision3史上最速優勝を果たしたブラウブリッツ秋田。天皇杯では準決勝に進出し、J1王者・川崎フロンターレを相手に粘りのサッカーを展開させたことは記憶に新しい。
J2に初昇格を果たした今シーズンは、これまで(2021年4月30日現在)4勝3敗3分、8位に位置している。初昇格のチームとしてはまずまずの結果を残していると言えるだろう。
それでも岩瀬氏に慢心はない。

TDK時代の魂を受け継ぐエンブレムとともに
「序盤の結果によって、選手はJ2の舞台でも自信を持ってプレーをすることができるようになりましたし、不安を抱いていたサポーターにも安心していただけたと思います。ただ42試合中の10試合が終わっただけですし、プロの世界は結果が全てです。今後も気を緩めずに自分たちのサッカーを続け、J2で残留し、定着するという目標を果たしたいです」
昨シーズンの輝かしい結果を踏まえると、外野で見ている身としてはJ1昇格を期待してしまうが、岩瀬氏はしっかりと自らの足元を見つめている。
今シーズン、ブラウブリッツ秋田の年間予算は7.5億円。これはJ2に在籍する22チームの中で、下から数えた方が早い金額だ。まずはクラブの規模を大きくし、J2の平均である14億円に近づけるというのが、ブラウブリッツ秋田の経営プランになる。
もちろんJ1昇格は最高の結果だが、選手を経験している岩瀬氏は、その地へ到達することが、いかに困難であるかを熟知している。
「事業規模を拡大するためのウルトラCというカードはありません。J2に定着すればクラブを大きくすることができますし、我々は一歩ずつ前に進むと同時に一段ずつ上へ登っていきたいと考えています」
岩瀬氏が考えるチーム作りには、ロールモデルがある。それはJリーグで数々の栄光を手にしてきた鹿島アントラーズだ。
茨城県出身の岩瀬氏は子どもの頃から鹿島アントラーズとその街を見続けてきたのだ。
ジーコに憧れて
サッカーを始めたのは小学校2年生のことだ。隣に住んでいたお父さんが少年サッカーのコーチをしており、誘われたのがきっかけだ。
「うちの両親は私が物心つく前に離婚しているんです。だから1人で遊ぶ私を見て、不憫に思ったんでしょう。隣のお父さんがよく遊んでくれました。その延長線上で少年サッカーに誘われました。こうしてサッカーの世界で働けているのも隣のお父さんがいなければ今の私はないと思います」
岩瀬氏本人は幼少期の両親の離婚をポジティブに捉えているが、2人の男の子を抱える母子家庭は大変な状況だった。父の記憶がある兄は、母と衝突を繰り返し、家庭内ではケンカが絶えなかったそうだ。

幼少期について語る岩瀬氏
それを救ってくれたのがサッカーだった。
「自転車で40分ほどかけてアントラーズの練習を見学し、ジーコに憧れてJリーガーになるという夢を持ちました。サッカーをしているときは家のことも忘れられましたし、練習を終えて帰るときには、『今日もケンカを止めなくては』と使命感に駆られていました。幼いながらにそう思えたのは間違いなくサッカーがあったからで、スポーツの力は本当に凄いなと思います。また兄の存在も私にとっては非常に重要で、悪いことをすれば本気で叱ってくれるなど、いつでも私の父親代わりをしてくれました」
サッカーに魅せられた少年は着実に実力を伸ばし、鹿島高校へ進学する。当時の鹿島高校は全国高校サッカー選手権にも出場し始めていた。
1年生でレギュラーの座を掴んだ岩瀬氏は、2・3年時には全国高校サッカー選手権に出場するなど活躍。しかし、Jリーグのクラブからスカウトされることはなかった。
「うちにはお金がなかったので、大学進学は考えておらず、高卒でJリーガーになるというのが私の目標だったので、高校卒業後は就職をしました」
就職先は地元の大手企業だった。給料も高く、大きな不満はなかったが、一生をここで過ごすことを想像したときに、言いようのない不安が岩瀬氏を襲った。
サッカーに対する未練も残っていたため、その時点で初めて大学進学を意識する。そして高校時代の監督に相談したところ、当時興味を持っていた本学サッカー部が岩瀬氏の勧誘に動いたのだった。
必死で過ごした大学4年間
岩瀬氏は推薦入試を経て、文理学部社会学科に入学する。周囲の人間からは大学へ行くことを疑問視されたが、再びサッカーをできることが何よりうれしかった。
「学部や単位が何かもわかっていませんでしたし、お金がいくらかかるかもわかっていませんでした。1年で100万円ぐらい貯めていたので何とかなると思っていたのですが、入学金を払ったらほとんどなくなってしまって…。ですから1年生のときには2年生から特待生になるために、レギュラーになることが目標でした」
大学1年を思い返すと『必死』という言葉がぴったりと当てはまる。それはサッカーだけではない。恋愛、遊び、高校時代に苦手だった勉強にも全力で取り組んだ。
その努力は実を結び、大学2年以降は特待生となることができた。4年生になるとサッカー部では主将を務め、関東一部昇格に貢献した。
「大学の4年間は社会に出るための猶予期間だと思うんです。そこでさまざまなことに全力で取り組み、たくましく成長することができました。そしてサッカー部で共に汗を流した友人、先輩、後輩は私の財産になりました」
今年からブラウブリッツ秋田でコーチを務める臼井弘貴氏(2003年文理学部卒、松本山雅U-18監督など)は大学時代の先輩だ。フットサル、バサジィ大分に所属する後輩の荒牧太郎選手(2007年文理学部卒)とは、いつか一緒に秋田で仕事をしたいと考えている。サッカー部の戦友に今なお絶大な信頼を寄せている証だろう。
勝利の先には想像を超えた未来が待っています

TDKの選手として2006年に秋田の地に降り立った岩瀬浩介氏。その後選手兼スタッフとしてクラブに尽力し、12年には社長に就任した。さまざまな逆境を跳ね返し、自身が思い描く未来へ突き進む岩瀬氏に、秋田への想い、サッカーの力、ブラウブリッツ秋田の描くビジョンなどをうかがった。
秋田で夢を叶える
大学卒業後、岩瀬浩介氏はJFL所属の佐川急便東京へ進む。サッカー選手としての新たな一歩を踏み出すのだが、このチームでは試合に出場することができなかった。契約から3日後に脛骨の疲労骨折が見つかったのだ。
「結局1年間、サッカーをできませんでした。佐川急便東京のグラウンドはテニスの人工芝のような状態で、復帰してもこれでは脛骨が耐えられないと悩んでときにTDKから声を掛けていただいたのです」
当時のTDKは2007年に開催された秋田わか杉国体のためにチーム強化を図っており、その強化指定選手として岩瀬氏に白羽の矢が立った。天然芝2面のグラウンドを備えるなど練習環境も整っており、脛骨に不安を抱える彼には魅力的なオファーだった。

TDK時代について語る岩瀬氏
「佐川東京よりもカテゴリーは下がりますが、環境も含めて、自分が活躍するということを考えれば理想的なクラブでした。心機一転、秋田で全力を尽くすと誓いました」
センターバックとしてその実力を存分に発揮し、TDKのJFL昇格に大きく貢献する。サッカーに真摯に打ち込む岩瀬氏の姿はTDKサポーターの心を打った。
「国体までは県の協会と契約をしていて、終了後はお役御免ということでしたが、結果を出したことで、サポーターズクラブの方たちが『この縁を大事にしたい』と仰ってくださり後援会を立ち上げてくれました。そしてその後援会でお金を集め、選手を雇ってくれるということになり、私もその1人に選んでいただいたのです」
後援会から初めての給料を受け取ったとき、それまでに感じたことのない重みを感じた。サインをした子どもから、お礼の手紙をもらったこともあった。
「手紙をもらったときに思い出されたのはジーコで、その子とサッカーを始めたばかりの自分が重なりました。秋田に来て初めて、幼いころから思い描いていた夢を与えるプロサッカー選手になれたのだと実感しました」
彼らの期待にしっかりと応えなければならない、選手としてだけでなく、チームのためにやれることは全てやりたい、自然とそう思うようになった。そして選手兼チームスタッフとして活動を開始することになる。
チームスタッフとして働き始めてから、思い出されたのは故郷の風景だった。
「アントラーズの力、サッカーの力でインフラが整備される、治安がよくなるなど、鹿島という地域は次第その姿を変えていきました。それだけでなく、住民の皆さんが故郷に誇りを持つようにもなった。鹿島と秋田を重ねて考えることは当時からよくあって、故郷と同じように、より住みやすく、心の豊かさを大切にする街にしたいという使命に駆られて、日々を過ごしていました」
2010年に現役を退いた岩瀬氏はフロント入り。そして12年に社長へ就任する。
岩瀬氏に課せられた使命はクラブの経営再建だった。
サッカーが持つ力
岩瀬氏は社長になりたいと考えたことはなく、引退をしたときには現在の自分自身の姿を全く想像していなかった。
当時のクラブ財政は悲惨を極めており、後任社長に手を挙げる者はいない。つまり誰もが避けて通るポジションに岩瀬氏は就いたことになる。31歳のことだった。
「経営の“け”の字も知らなかったですが、秋田に恩返しをしたい一心でがむしゃらになって働きました。昔からいくつもの困難を経験してきましたが、逆境になると燃えるし、振り返れば、どこか楽しんでいたように思います」

勝利することの意味、その効果について語る岩瀬氏
岩瀬氏は慣れない仕事に戸惑いながらも、この経営危機を見事に乗り越えてみせた。そして就任から5年目の17年にはJ3優勝を果たす。
本来ならこの時点でJ2に昇格となるはずだった。しかし昇格に必要なJ2ライセンスを取得することができず、18年シーズンもブラウブリッツ秋田はJ3で戦うことになってしまう。
「スタジアムがライセンスの基準を満たしていなかったんです。自分の手腕が至らなかったということでしょう。当時のスタッフや選手には申し訳ない気持ちがありますが、新スタジアム建設を求める18万人分の署名が集まり、その後優勝したことで、その機運が高まっていきました」
J3優勝によって行政もそれに応えるスピーディな動きを見せた。ホームスタジアムとして使用するソユースタジアムに大型ビジョンと照明が付いたのだ。それからほどなく、秋田駅前で1人の女子中学生に声を掛けられた。
「彼女は陸上部に所属していたようで、それまでは大型ビジョンがないため、必死に走った記録も観客の見えないところで10分後にホワイトボードで知ることになっていたそうです。でも設備が整ったことで、すぐに記録が会場中に伝わる。大会記録更新をすれば、自分たちを応援していない人も喜んでくれ、会場が一体となって盛り上がる。それが可能になったことがうれしいと伝えてくれたのです」
彼女から感謝の言葉をもらったことは忘れることができない。違う競技であっても、ブラウブリッツ秋田が勝ち、環境が整備されることで、想像を超えた効果を生むということを改めて思い知った。
「女子高生の他にも、元受刑者の男性、ご主人を亡くされて76歳から我々を応援してくださった女性など、私が知る限りでもブラウブリッツ秋田にまつわる、素晴らしいストーリーがこの街にいくつも生まれています。目には見えなくても、私たちは多くの期待を背負っています。だからこそ勝たねばならないのです」
ブラウブリッツ秋田が掲げるビジョン
2019年9月に岩瀬氏は新スタジアム整備を25年までに実現させると宣言。このとき予算や建設地など、新スタジアム建設にはクリアするべき課題が山積しており、見通しは全く立っていなかった。しかしこの宣言をクラブは独断で行い、サポーターのみならず、行政やスポンサーにも衝撃を与えた。
「大型ビジョンに完成図を映し出して、大きな反響を呼びました。もちろん行政からは『勝手なことをするな』と叱られました。それでも宣言したことに後悔はしていません。多くのみなさまへ視覚的に訴えたことで、スタジアム建設をより具体的に想像していただけました。大型映像装置に映しだした時の盛り上がりこそが、後のスタジアム建設に向けた力になると思っているので、価値ある一歩を踏み出せたと考えています」
2021年4月現在、新スタジアム建設の話は着実に進行している。そのなかで岩瀬氏がこだわっているのがコンコースだ。
「秋田の12~3月というのはものすごい量の雪が降ります。高齢の方はなかなか家から出られず、マラソンなどをされる方は雪の上を走っていて非常に危ない。秋田における自殺率、がん死亡率、うつ病などの原因の一つは運動不足にあるとされています。ですから、誰もが気軽に体を動かすことができ、雨風をしのげるインナーのコンコースを新スタジアムに作りたいのです。それがこの地域の社会課題の克服につながると考えています」
スタジアムの議論になるとどうしても「ブラウブリッツ秋田に対して」といったイメージを持たれることが多い。具体化されてきたとはいえ、この地に住む人々に新スタジアム建設の意義をこれからも広く伝えていかなければならないと岩瀬氏は考える。
「今以上に多くの県民の理解を得るためには、まずはクラブで働くスタッフが情熱を持ち、熱源とならなければいけません。我々が掲げるビジョン、Jリーグやサッカーの持つ力を全てのスタッフがしっかりと理解し、伝え続けていけるように、クラブスタッフとのコミュニケーションは大切にしています」

このピッチから秋田の輝かしい未来を創る
スタジアム建設の他にも、ブラウブリッツ秋田は総合型スポーツクラブを傘下に設立にするという構想がある。サッカーだけでなく、体操、バレーボール、野球、グランドゴルフなど、子どもたちだけでなく高齢者に対しても広くスポーツへの門戸を開くというものだ。
「日本の子どもは一つスポーツを始めると、それ以外のスポーツをやってはいけないような環境になっていますが、月曜日にサッカー、火曜日に体操、水曜日にバレーボール、木曜日に野球をしてもいいと思うのです。子どもたちがさまざまな競技に触れる機会を増やし、自分自身で競技を選択できる環境があれば可能性はもっと広がる。結果的に秋田にスポーツ文化を根付かせることができると考えています」
岩瀬氏の言葉は秋田の人々にとっては、まだ夢物語に聞こえるかもしれない。しかし、鹿島で起こったさまざまな変化を目の当たりにした彼には確信がある。
「一つのサッカークラブが勝利を積み上げ、その意味を信じ、理解した先には想像を超えた輝かしい未来が待っています。故郷を知るからこそ、私も自信を持ってこの仕事ができているのです」
ブラウブリッツ秋田には大きな可能性が秘められている。岩瀬氏が作り出す未来がどのようなものになるか、是非注目していただきたい。
岩瀬浩介 (いわせ・こうすけ)
1981年4月8日生まれ。2005年文理学部社会学科卒。茨城県出身。 小学校2年生でサッカーを始める。鹿島アントラーズに所属していたサッカーの神様・ジーコに憧れ、Jリーガーになることを夢見る。茨城県立鹿島高等学校に進学し、1年生からレギュラーの座を掴み、高校2、3年では全国高校サッカー選手権に出場。1年のブランクを経て本学文理学部に進み、4年時にはキャプテンとしてサッカー部を牽引した。 卒業後は06年に佐川急便東京からブラウブリッツ秋田の前身、TDKサッカー部へ移籍。守備陣の中心選手としてJFL昇格に貢献するだけでなく、09年からはチームスタッフとして主に広報を担当。10年に現役を退き、フロント入り。12年に代表取締役社長へ就任した。