「何事もなんとかなる」

2021年で弁松総本店は創業171年を迎えた。長きに渡り人々に愛されている伝統の味を守るが八代目の樋口純一氏だ。前編では日本最古の弁当屋・弁松総本店の歴史、26歳という若さで社長に就任した樋口氏の半生を紹介しよう。
日本最古の折詰弁当専門店
江戸幕府が徳川家康によって開かれた1603年、日本橋は五街道の起点となり、城下町として急成長を遂げた。全国から商人、職人が集まっただけでなく、水運にも恵まれたこの地にはさまざまな物質が集結・流通するようになる。
開府から200年以上が経過した現在でも日本橋は華やかだ。
うなぎ、寿司、そば、天ぷら、すき焼きなど、創業100年を越える老舗店が点在し、街に彩りをもたらしている。その中でも日本に現存する最古の折詰弁当専門店、弁松総本店は異彩を放つ。
弁松の前身となる樋口屋の創業は1810年。
越後生まれの樋口与一が、当時日本橋のたもとにあった魚河岸の場内に食事処を開いた。

弁松総本店近くにある三浦按針屋敷跡の史蹟
盛りのよさが評判を呼び、店は繁盛したが、得意客である魚河岸で働く人々は食事途中に席を立つことがしばしばあった。冷蔵庫も冷凍庫もない時代では、朝仕入れた魚を昼までに売り切る必要があり、のんびりと食事をする時間を取れなかったのだ。
そこで与一は残った料理を経木や竹の皮に包んで持ち帰ってもらった。これが好評を呼び、そのうち初めから持ち帰りを希望する客が増えたそうだ。
「弁松のルーツは魚河岸で働く人々への心遣いにあります。二代目の竹次郎もイートインとテイクアウトの両方を行っていましたが、三代目の松次郎の頃には弁当の方が売れていて、『弁当屋の松次郎』という愛称で親しまれていたそうです。そこで1850年(嘉永3年)に樋口屋を閉め、折詰弁当専門店として新たな一歩を踏み出します。店名は三代目の愛称を略して『弁松』となりました」
洋食文化が世間に広がった明治時代、関東大震災と東京大空襲で2度店が焼失した大正、昭和時代など、困難な場面は数多くあったが、弁松は171年もの長きに渡り、人々から愛され、戦後は現在と同じ場所(三浦按針屋敷跡)で暖簾を守ってきた。
旅から学んだこと
昭和40年代半ば、弁松で初めての婿養子として徹郎氏が七代目に就任。それからほどなくして、純一氏が生まれる。
幼いころ純一氏は門前仲町に住んでいたが、日本橋にある幼稚園、小学校に通っており、学校が終わると店へ行き、営業終了後に家族で自宅へ帰るという生活を送っていた。

1人旅について語る樋口純一氏
「親の仕事を毎日のように見ていたので、いつかは自分もここで働くのだろうと考えていました。初めて店の手伝いをしたのは中学生のときです。うちではおせち料理を販売しているのですが、年末の繁忙期に簡単な作業をして小遣い稼ぎをしていました」
高校は日大豊山に進学。他にも合格した学校はあったが、当時から日本大学は弁松の得意先の一つで、純一氏に馴染みがあったというのも決め手となったようだ。
「学校から近い池袋で友人と遊んだり、教室で漫画について盛り上がったり、たわいもない日常が楽しかったです。今でもふと当時を思い出すことがよくありますよ」
その後、本学法学部に進学した純一氏は多目的サークルに所属し、テニス、スキー、BBQに興じるなど、充実した大学生活を送った。バックパックで旅に出かけたのも大学時代のことだ。大学3年のときに一つ上の先輩の卒業旅行に誘われたのがきっかけだった。
「家族で海外旅行をしたことはありましたが、帰国する日と場所以外に何も決まっていない旅行に出かけたのは初めてのことでした。ガイドブックを頼りにヨーロッパを巡ったのですが、冒険をしているようでとても興奮しましたね」
大学4年の卒業旅行ではサークル仲間とアメリカを巡った。大学卒業後、2年間、修行として新潟県の栃尾にある親戚の料理屋に勤める。退職して弁松に入るまでの7カ月間、1人で旅行へ出かけた。
「そのときにはアメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカ、アジアを巡りました。この一人旅では言葉や食事など、いろいろと大変なことがありましたが、この旅を通じて『何事もなんとかなる』と考えるようになりました」
一人旅から帰国したのは年末のことで、翌年、純一氏は弁松に就職する。社長に就任したのは、それからわずか半年後のことだった。
若くして八代目に
純一氏が弁松に入ったとき、七代目であり父である徹郎氏の体調は優れなかった。
「父は酒とたばこのやり過ぎで、肝硬変から入退院を繰り返していて、最後は大量の血を吐いて亡くなりました。体が万全ではないと思っていましたが、まだ56歳でしたし、まさか亡くなるとは本人も家族も思っていませんでした」

弁松総本店のロゴ
こうして、当時26歳だった純一氏が八代目として社長に就任することになる。経験の浅い青年が社長に就任するとなると、さぞ不安が大きかったと考えてしまうが、本人も周囲の人間もあまり心配をしなかったようだ。
「財務状況、決算書の読み方、社員の能力の判断基準など、何もかもわからない状況でした。それでもベテランの職人さんが多くいましたし、祖母、母、叔母がいて経理も心配なかったので、『なんとかなる』と考えていました。もちろん代替わりしたときは、とにかく一生懸命に働きましたけど」
就業規則から弁当の詰め方まで、この20年ほどで大小さまざまな改革を施した。その中でも特に印象に残っているのは限定弁当の販売だ。
「社長に就任して数年後に今の日本橋が架橋88周年を迎え、デパートから依頼もあり、888円の限定弁当を出したんです。それがすぐに完売して、いつもと違うことをするとお客さんは喜んでくれると知りました」
季節やイベントごとに限定弁当は現在も販売されており、客からも好評だ。
それでも伝統を守り、変えていないことがある。それは弁松の味だ。
アクシデントからおもしろい出会いやアイデアが生まれる

26歳で日本最古の弁当屋・弁松総本店の八代目となった樋口純一氏。彼は伝統の味を守りつつ、SNSという新たな武器を手にし、挑戦を続けている。コロナ禍だからこそ、出会うことができた人々やアイデア、これからの展望について語ってもらった。
弁松の味
砂糖としょう油をたっぷり使った甘辛の濃ゆい味、それが弁松の味だ。
初めて弁松の弁当を口にした客から、「調味料の配分を間違えたのでは?」という問い合わせは、年に数える程だが現在でもあるそうだ。それだけ好き嫌いがはっきり分かれる味で、万人受けしないことは弁松自ら認めている。
「当たり障りのない味にすればもっと広く売れるかもしれませんが、それは弁松の味ではない。熱狂的なファンもアンチもいるから、長く続けて来られたのだと私たちは考えています」
味のこだわりは作業工程にも反映されている。 昨年から始めたTwitterで動画を流したところ、細かいところまで手作業で行っていることに反響があった。

弁松総本店の一番人気「並六」
「玉子焼は、焼いた後に木のすだれで巻き、半円型を作ります。この形は機械では作れません。もちろん機械化すれば効率はよくなりますし、衛生面など、昔ながらの工程を変えるべきこともあります。それでも無理に変えなくてもいいこともあって、その線引きは難しく、今も試行錯誤しています」
ある会社から弁松の弁当を機械生産し、冷凍販売したいとオファーがあった。かねてから純一氏も冷凍販売に興味を持っていたため、簡単に作業工程を説明したが、先方から「再現できない」と返答があったそうだ。
「似た味はできるけど、全く同じ味にするために、そこまで面倒なことはできないとのことでした。また煮物を作る棒、落し蓋は木を使用しています。OEMで作る場合は、木くずが入る可能性もあるため、それらは使用できないとも言われました」
弁松の工場で作られた弁当に木くずが入る可能性は低いが、リスクはもちろんある。それでも味、食感、見た目が変わってしまっては弁松が弁松ではなくなってしまうのだ。
SNSで逆境を打破
2020年に弁松は170周年を迎えた。
この記念すべき年に、毎月一つ何か新しいことをするという目標を純一氏は立てた。
1月は全従業員を江東区にある工場に集め、落語家の柳家三語楼氏に古典落語の「子別れ」を披露してもらった。子別れには弁松の赤飯が登場するのだ。
「全従業員が休みになるのは正月しかないので、1月にこのイベントを開催しました。落語の後には屋形船を貸し切りにして、芸者を呼び、この1日で従業員に和文化を体験してもらいたかったのです」
2月は何をすべきか考えていたときに、新型コロナウイルスの影響が出始めた。3月の卒業シーズンに合わせた注文のキャンセルが相次いだのだ。
そしてお客さんとの接点を作るべく、純一氏はSNSをスタートさせた。選んだのはTwitterだ。ご存じの方も多いだろうが、140文字以内のテキスト、画像、動画、URLを投稿できるSNSで、全世界のユーザーは3億人を超えている。
「アカウントを作って、次の日には150人ほどにフォローされていました。それからは懇意にしている日本橋の老舗や落語家さんをフォローして、フォローバックをもらうという感じでした。そしてある日、糸井重里さんが弁松のつぶやきをリツイートしてくださったのです」
元々弁松のファンというコピーライターの糸井重里氏の影響は大きく、その日のうちに1000人ほどだったフォロワーが5000人まで増加した。フォロワーが増えたことで、お客さんと接点ができ、新たな挑戦の話も舞い込んできた。
「ナショナルデパートの秀島康右さんという方からDMをいただき、うちの弁当を個別に配達するサービスをしたいと提案があったのです。次の日にお会いして、その次の日には専用サイトができ、さらに次の日には50個ほど販売を実行してくれました」
このできごとは糸井氏の「ほぼ日刊イトイ新聞」でも取り上げられるなど反響を呼んだ。現在はこの配達サービスを行っていないが、この新たな出会いは、純一氏にSNSの大きな可能性を実感させることとなった。

Twitterについて語る樋口氏
Twitterが弁松にもたらしたもの
弁松のTwitterアカウントのフォロワーは約1年で2万人以上に到達した。何気なく始めたSNSは弁松に新たな風を吹かせ、コロナ禍という非常事態を乗り切るために欠かせないツールとなった。
「170周年で制作した記念の手ぬぐいをツイートしたら、大きな反響をいただき、グッズを販売したら即完売しました。その流れでECサイトも立ち上げることができました。弁松を知らない方がグッズを気に入り、その後弁当も購入してくれるなど、新たなお客の獲得にも貢献してくれました」
またあるときには大口注文がキャンセルとなり、フォロワー向けに総菜セットを販売した。本来マイナスだったはずが、当初の注文を上回る売り上げを出す結果となった。

街のシンボル・日本橋
さらにTwitterは弁松に新たな出会いをもたらす。
日本橋の絵葉書収集が純一氏の趣味の一つなのだが、ある1枚の絵葉書をツイートしたところ、日に流れて橋に行く(集英社)と同じシーンだとコメントをもらったのだ。
それは明治44年に行われた、今の日本橋の開橋式のもので、当日は小雨が降り、行き交う人々はみんな傘をさしていた。漫画にもこのシーンが登場していたのだ。
「普段少女漫画は読まないのですが、とてもおもしろかった。そのうち、日に流れて橋に行くのイベントが近くであるというので、弁松の資料などを持参してうかがったのです」
その日、作者の日高ショーコ氏に会うことはできなかったが、後日、関係者を通じて交流することとなる。そして3月25日に5巻が発売された際に、弁松といくつかの日本橋の老舗店がスタンプラリーという形で漫画とコラボレーションをするに至った。6巻の発売にはさらに大きな形で街を盛り上げるイベントを開催する計画も出ているそうだ。
「じっとしていたら、昨年は本当に悲惨なことになっていたと思います。コロナの影響で人とふれあうことが難しい世の中ですが、SNSを始めたことで、さまざまな交流を持つことができました。コロナウイルスの影響は予想外でしたが、このようなアクシデントがあったから、おもしろい出会いやアイデアが生まれました。この感覚は私が好きな旅と少し似ているのかもしれません」
自身のことを楽天的な経営者と語る純一氏。
これまでも何か困難が訪れるタイミングで、そのときにできること、そのときにしかできないこと選択し、それが後々の糧となったそうだ。
『何事もなんとかなる』の精神で、コロナ禍の今をまるで冒険するかのように楽しむ彼の姿勢から学べることは多いのではないだろうか。
樋口 純一 (ひぐち・じゅんいち)
1971年12月22日生まれ。1994年法学部法律学科卒。東京都出身。日本に現存する最古の折詰弁当専門店、弁松総本店の長男として生まれる。97年に急死した父・徹郎氏の跡を継ぎ、26歳で八代目に就任。2011年には江東区永代に新工場、13年に新本社を建設。先代・先々代のような販路拡大路線ではなく、これからの時代に合った本店回帰を目指し、従業員と共に新たな弁当の可能性と弁松のこれからの在り方を模索している。