気仙沼発全国へ
復興の狼煙を上げた「かに物語」

東京駅から新幹線とJR大船渡線を乗り継いで丸5時間。マグロの遠洋漁業や水産加工で栄える宮城県気仙沼市南気仙沼。
太平洋に面し、リアス式海岸の特徴たる入り組んだ岬と丘陵が織りなす港町に気仙沼漁港がある。海に向き合い海とともに暮らしてきたこの町が、海を怖れることになった。

2011年3月11日14時46分―。

あの日、震度6弱の地震と観測地点によっては12mまで及んだ津波によって全てが流された気仙沼。
震災後、新たな雇用を創造するものを仕掛けてみないかという話があり、手を挙げて新たなブランド「かに物語」を立ち上げたのが、熊谷公男氏だ。

「復興の成功事例になれば」
その思いで、気仙沼そして東京を経由して全国へ展開される「かに物語」の誕生と、生みの親である熊谷氏にお話しを伺った。

和をもって接し、誠をもって奉仕する

熊谷氏は気仙沼にある株式会社カネダイに勤め26年目になる。
カネダイは昭和17年創業し、船舶石油販売業や、廻船問屋業、漁業、石油・ガス販売業、水産加工業を展開する会社だ。

そのカネダイには「和心誠心」という社是がある。

「社員を大事にするのがまず最初に来ていますので、真面目にやっていることに関して応援してくれる度量のある会社です」

気仙沼は立地から「陸の孤島」と呼ばれることもある。しかし、遠洋船でハワイやグアムまで漁に行くところから、チャレンジ精神の土壌が気仙沼にあると熊谷氏は言う。

後述する「かに物語」を新規事業として立ち上げた熊谷氏。その背景には、カネダイの社風と気仙沼の土地柄があった。

ネット社会と「かに物語」誕生の足音

「国内で扱っているのは、我々カネダイともう1社だけです」

カネダイの独自色が強いのが「まるずわいがに」だった。日本で流通している蟹は、本ズワイガニ、タラバガニが主流。安価で食べられる蟹として売られているのがまるずわいがにだった。

熊谷氏は考えた。競合が少ないのだから、チャンスがあるのではと。

そこで背中を押したのは、2011年の少し前から加速し始めた「ネットショッピング」だった。

その頃、経営企画を担っていた熊谷氏。

「地方にいて、本ズワイガニ、タラバガニを卸で売っている世界=BtoBから、BtoCに変わってくる」

とインターネット社会への移り変わりを読み、販売するにはどうしたらいいかと社内でも話しが上がっていたところに、まるずわいがにが組み合わさった。

共生してきた海に全てが流されたあの日

震災時は、今も本社機能と工場がある川口町にいました。工場で地震に遭い、通常の揺れとは違うものを感じ、会社にいる全員を集めて、只事ではないから逃げようと避難しました。弊社はこれまでも避難訓練を年1回実施しており、伝達網もうまくいき、中国からの研修生も全員集めて一気に逃げました。
足の速い人は遠くまでなど3か所に避難しました。中央公民館に逃げた人たちは3日間くらい取り残されてしまいましたが、全員無事に助かりました。
山の上に逃げた人は自由がききました。
着の身着のままで逃げて、戻ってこられると思っていました。
津波が実際に来た15時半。

42、43歳で被災しましたので、一番働けるときにこの10年間があったと思っています。

「かに物語」誕生と“まるずわいがに”

まるずわいがには、南大西洋に面し、アフリカ大陸の南西に位置するナミビアの沖合で獲れる。

 マグロの遠洋船が中心だった昭和40、50年代頃に、新たな物資をという考えがあり、以前はナミビアより南の南アフリカ共和国でロブスターを獲っていた。しかし、ロブスターの漁獲が減ってきたため、次に見てくれは悪いが美味しいかにがあると言われていたのが「まるずわいがに」だった。

 特長は大きく二つある。

(1)弾力性
(2)味=旨味
と熊谷氏は店先で説明する。

熊谷氏は、まるずわいがにを地域に愛されている特産品にすべく奔走した

「タラバガニの弾力性があります」
「味は毛ガニに似ています」
「つまり、かにの良いとこ取りです」

科学的にも甘味成分であるアミノ酸の含有量が、本ズワイガニ(越前ガニや松葉ガニ)より高いという。

そのまるずわいがにを、カネダイでは獲って1時間以内に船の上でボイルして冷凍。

鮮度が良い状態を保ち一度も解凍しないまま気仙沼の工場まで届け、手作業で身を剥く。

つまり、南大西洋上で冷凍されたものが、購入者の口に運ばれるときに初めて解凍されるのだ。

「味よし、食感よし、鮮度よし。ここまでのカニはない」

加えて、蟹の原料としての単価は高い順から
タラバガニ
本ズワイガニ
まるずわいがに
ベニズワイガニ

まるずわいがには殻の色が黒っぽく、
「別名=Deep Sea Red Club=生まれた時は赤い」
と言うだけあり、大きくなると少し黒くなり見栄えが悪くなるだけで評価が低かった。

そこで、もしかすると、まるずわいがには条件を並べればタラバガニの上に行くのでは、それを打ち出していけばいいと勝機を見出した。

当時でもネットでは値下げ合戦。とくに一般的に流通している蟹は当たり外れがあった。
しかし、カネダイは現地で冷凍し日本に運びむき身にしているため、鮮度が落ちることがない。

普通の蟹は、漁師が獲ってきたものをインポーター(輸入業者)が日本へ運び、それをメーカーが加工して販売する。
つまり六次産業化。カネダイは自社で六次産業化が出来ていた。

「かに物語」はこうして産声を上げた。

後編では、事業を立ち上げる熊谷氏のマインドと、「かに物語」のこれからについて伺う。

父の背中と縁が広げた「かに物語」の和

ロゴ、デザインにもこだわった店舗。試食の香りで足が止まる

2011年に「かに物語」をスタートさせた熊谷氏。困難な状況の中で立ち上がる強さの源流には、父の背中と自身のマインドがあった。

高校、そして大学卒業後からカネダイ入社まで遡り紐解く。

自ら立ち上げる原点は「父」、そして高校時代から

気仙沼高校に進学するもゴルフがなかった。
そこで「私一人でゴルフ部をつくり、東北ジュニア大会に申し込んでいました」

当時から誰もやっていないことに挑戦し、前進していた。その原点は父・明さんの影響だった。

「事業を興す、の根本はカネダイの役員をしていた父です」
父・明さんは、カネダイに残る事業を一つ確立。気仙沼魚市場でカネダイの看板で問屋業を事業化した。

「気仙沼がカツオの水揚げ日本一のなっているうちの6割はカネダイが問屋をしています。それを誘致したのが父でした」

「廻来船問屋」と呼ばれ、全国の船を気仙沼に誘致して気仙沼魚市場で水揚げされた金額の二分五厘(2.5%)を取る。さらに水揚げのお手伝いや、出航の間に燃料や食事の提供、病院の手配をして二分もらい、気仙沼魚市場を盛り上げた。

日大の「憧れ」「縁」「財産」

本学を志した理由の一つは、「日本大学ゴルフ部」への憧れだった。

「川岸良兼さんが私の1学年上で、二つ下に丸山茂樹さんがいる、そんな時代でした」

気仙沼の同世代では珍しく幼い頃からゴルフをしていた熊谷氏。気仙沼高校を卒業すると本学法学部経営学科に進んだ。結果的には法学部のゴルフ部に入って、競技を続けた。

学校の友人、そして部活では他大学にも知り合いができた。
いまも交流があり、震災時も励ましの連絡や応援をもらう。東京に出てくると店先で購入やSNSで発信して応援してくれる。

「大学に入って良かったのはいろんな人と交流でき、ご縁ができたことです」

縁に恵まれた。
震災直後の2011年11月に出来た気仙沼復興屋台村。その立ち上げをした一般社団法人復興支援機構の代表理事で日大ラグビー部出身の石川敏氏もその一人。

「気仙沼高校のOBですので先輩でもあり、東京でいろんなところを紹介してくださいました」

復興屋台村には宮城県、全国、世界からいろんな人が支援に訪れた。
普段は会えないような人と交流し、ブランディングや商品について一晩中飲み明かした。

「縁は財産ですね。私もそういったご縁で入ってきている中で、カネダイの中でモノをつくりたいという思いはあった」

「かに物語」は人と人を繋ぎ、ストーリーを生んだ。

東京で修行、そして気仙沼へ

小さい頃から会社の経営に興味があり、
「いつか、自分で会社を興して盛り立てていこう」と、自分で物事を立ち上げたい、という気持ちがあった熊谷氏。

「父もカネダイにいましたので、今の社長と話して、東京のアパレルベンチャー企業で3年、東都水産で2年間修業して、1995年に気仙沼に戻ってカネダイ入りました」

アパレルにいた頃は主に百貨店を回っていた。伊勢丹・三越を営業で回っていた経験が今に活きる。

カネダイに入社後はずっと営業。震災の3年ほど前から経営企画の部署で経営のサポートを学び、「かに物語」の直販事業を立ち上げた。

「かに物語」の商品。干し蟹(左)と人気のビスク(右)

販売ターゲットの試行錯誤

熊谷氏が「かに物語」を立ち上げた際に、他の蟹との差別化と日本人に定着させるためにはどうしたらいいのかを考えた。

日本では、かに酢で食べる蟹、お正月や旅行先で食べる蟹が一般的。
海外では溶かしバターで蟹を食べる文化があった。

「日本のかに文化は音楽で言うと『演歌』、溶かしバターで食べる海外は『POP』のイメージ。明るく食べてもらいたいと商品を考えました」

若い方たちが気軽に食べてもらえるような値段設定を考え、商品も洋テイストに持っていった。

「一番、食に興味があり、金銭的に余裕があり情報の発信力があるのはどの年齢層かと考えた結果、F2層と呼ばれる40代前後の女性をターゲットに持っていき商品開発をしていこうと決めました」

実際販売していく中で、日本人の蟹好きな傾向から、むき身は単価が高いのでターゲットイメージより上の60代女性に多く購入。スープなどはターゲット通りの層が購入してくれることが分かった。

立ち上げ当初は復興屋台村で販売し、設定したターゲット通りの購入者も多かったが、何年か経つと足が遠のいた。
震災復興で少しの間だけフューチャーさればいい、とは思っていなかった熊谷氏。
東京の百貨店へ進出していった。

百貨店の催事は短期間で大勢の人の声を聞けるメリットがあった。
銀座三越、日本橋三越、新宿伊勢丹の三つを限定して回り、店先や百貨店のバイヤーの方々の意見を聞いて商品を改良していく。

百貨店の催事で「かに物語」のパンフレットを配り、そこにはネットへ誘導できる入り口を設け、無地だった包装も改良。
Ready to Eat を意識して、湯煎だけではなく凍った状態でレンジでの解凍に対応して、3分で食べられるような工夫もした。

自身も百貨店の店先に立ち「かに物語」の前で滞留してもらえるよう「紙芝居」で説明した。

「まず、かにの身を食べていただきます。そしてかにの説明をします。(1~2分)
次に一番の人気商品であるビスクを飲んでもらいますと、美味しさに驚いていただけます。
最後に干し蟹を食べていただき出汁の説明をします。
すると、説明を嫌がらなければ6、7分留まることで人だかりになります」

直接消費者と向き合う試食の大事さを痛感した。

まだまだ道半ば、と言う熊谷氏。
催事の担当者ができ、自身は催事を大きくするマネジメントに力をいれる。

今後は、売上規模が3倍くらいにはなると考えている。
そのために「かに物語」のブランドをさらにブラッシュアップしていくのが一つ、と先を見据えている。

加えて、「かに物語」ではない次の六次化できる原材料を「かに物語」で培った仕組みを活用していきたいと構想を膨らませている。

「第二の『かに物語』をつくれたら面白いと考えています」

人の縁、父の背中、自身の試行錯誤で紡がれた物語。
決して短編では終わらない、新たなページが気仙沼から始まっている。

熊谷公男 (くまがい・きみお)

1967年5月9日、宮城県気仙沼市生まれ。1990年法学部経営学科卒。
本学卒業後、アパレル、ベンチャー企業に3年間勤め、その後2年間の築地・荷受け会社での修行を経て95年にカネダイ入社。
営業、経営企画の部署を経て「かに物語」のブランドを立ち上げる。現在は事業長。
気仙沼高校ではゴルフ部を立ち上げ、大学では法学部のゴルフ部に所属した。