航空研究会だから熱い気持ちで青春を燃やすことができた

宇都宮市内にある宇都宮ブリッツェンの事務所で
2020年11月4日。(公財)日本自転車競技連盟は東京五輪のロードレース代表を発表した中に、増田成幸の名があった。新型コロナウイルスの影響により、代表選考で崖っぷちに立たされながら、最後のチャンスで見事に代表権の座を勝ち取ったのだ。前編では『不死鳥』と称される彼と自転車との出合い、人力飛行機のパイロットとして活躍した大学時代を紹介しよう。
ロードレースとの出合い
取材を終えてすぐ、『波乱万丈』『ドラマチック』といった言葉が筆者の頭に浮かんだ。「増田成幸の自転車人生には人々を魅了するストーリーが詰まっている」と断言しても、異論を唱える者は少ないのではないだろうか。
彼とロードレースとの出合いはテレビ番組だった。
「ツール・ド・フランス総集編を観て、アルプスの山々やピレネー山脈などを自転車で越えるレースがあることを知りました。おそらく高校1年のときだったと思います。当時は自転車競技というと競輪ぐらいしか思いつかなかったのですが、自分もやってみたいと胸を熱くしました」

高校時代を振り返る増田選手
高校2年の春に初めてロードバイクを購入し、所属していた軟式テニス部を退部。しかし、彼の通う東北学院高には自転車競技部はなかった。部の設立を学校に訴えたが、その願いは叶わず、サイクルショップのチームで増田の自転車人生はスタートした。
そこで出会ったのが佐藤正博氏だ。
「仙台に自転車部のある高校は少なかったのですが、サイクルショップで当時仙台商業高の自転車部の顧問を務めていた佐藤先生と出会うことができました。『1人でやっているならうちに来てもいいよ』と仰ってくださって、夏休みの練習に参加したり、機材を貸してもらったり、同世代の選手とともにレースに連れて行ってもらう機会を得ることができました」
練習を重ねるごとに増田の心にはインターハイに出場したいという思いが募っていった。自分の力を発揮したい、同年代の選手たちと勝負をしたいと考えるのは当然の願いだが、彼の通う高校に自転車部はない。
そこで増田は自らの出場を認めてもらえるよう、高体連へ電話を掛ける。そしてインターハイ予選となる県大会の出場権を勝ち取った。
「最後の周に落車に巻き込まれ、車輪が外れる転倒をしたのですが、自分で車輪をはめ直して、なんとかゴールしました。結果は8位で、東北大会に進める順位だったのですが、仮に好成績を収めても次の東北大会には進めないという条件で出場許可をいただいていたので、これが高校で最初で最後の大会でした」
こうして高校での自転車競技は幕を閉じた。
しかし目標だった大会出場を果たしたことで、自転車競技への思いは成仏したと増田は当時を振り返る。
そして翌年、エンジニアになるという新たな夢を抱き、本学理工学部へ進学する。上京する際、彼が情熱を注いだロードバイクは実家に置いたままだった。
人力飛行機に捧げた青春
大学進学に際して、増田は一つの目標を掲げた。それは何か熱中できるものを勉強以外で見つけるということだ。結果、航空研究会でその思いを遂げることとなる。
鳥人間コンテストに出場する航空研究会は学部内外で有名なサークルだ。増田もその存在を入学前から知っていたが、入会の決め手となったのは人力飛行機と懸命に向き合う先輩たちの姿だった。卒業までに半数以上が辞めてしまう理工学部で一番厳しいサークルというのも増田には好印象だったようだ。
「情熱を注ぐには最適だと考えました。実際に活動は大変で、夜遅くまで機体を制作するのは日常茶飯事でしたし、学業との両立は難しかったですが、本当に充実した時間を過ごすことができました」
大学3年の鳥人間コンテストの出場に向けて、1年の冬にパイロットが決定する。体力に自信のある増田は立候補し、見事パイロットに選ばれた。そして実家で眠る愛車が再び彼の元に置かれることになる。
「パイロットのトレーニングはロードワーク、部室にある人力飛行機用のリカンベントのエアロバイクが主でした。平日はトレーニング終了後に機体の制作をし、学校が休みのときには先輩パイロットや後輩パイロットとロードレースの大会にも出場しました」
2年生の夏に一つ上の学年が引退し、そこから自分たちの代の人力飛行機制作に突入する。1年という制作期間を経て鳥人間コンテストに挑むのだが、増田が3年生の大会は台風の影響で中止になってしまった。
青春の全てを捧げた人力飛行機が日の目を見ずに無傷の状態で戻ってきたのだ。その無念さは容易に想像することができる。
そこで当時の顧問は彼らに新たな挑戦の機会を作った。それが駿河湾での人力航空機日本記録への挑戦だ。

日本記録達成を報じる当時の日大新聞
航空研究会で得た一生の宝
2005年8月6日。日本記録に挑戦したのは増田が大学4年のことだ。
彼の体に合わせて作られた日大式NM・03型メーヴェ21号は海上を突き進む。蒸し風呂と化した過酷なコックピットで増田は懸命にペダルを漕ぎ続けた。
1時間48分12秒に及んだ飛行時間、直線距離で49.172kmに達するビッグフライトは、今なお破られることのない日本記録となった。

成せば成るのサイン色紙とともに
「記録を達成したときは、航空研究会の全員が『これで死んでもいい! 成仏できる!』という気持ちで一つになりました。あれだけ熱い気持ちで青春を燃やすことができたのは、日大理工学部で航空研究会に入ったからです。大学時代に学んだことはたくさんありますが、苦楽を共にできた友だちと巡り会わせてもらったことに本当に感謝しています。たくさんの困難を一緒に乗り越えてくれたサークルの仲間は僕の一生の宝です」
真剣に取り組むことの大切さ、あきらめない心を学んだ航空研究会での経験は、その後の競技人生にも大きく生きている。不死鳥と称される増田の不屈の精神は大学時代に養われたと言っても過言ではない。
そして一度成仏したはずのプロロードレーサーへの思いがパイロットの経験を経て再燃するのだが、それは後編で語ることにしよう。
あきらめずに続けられたのは、やはり自転車が好きだからです

チーム名のブリッツェンはドイツ語で「稲妻」を意味する
自転車競技部のない高校でロードレーサー人生をスタートさせた増田成幸。そして本学で航空研究会のパイロットとして人力飛行機の日本記録更新に尽力した。後編ではプロロードレーサーとなった彼の競技人生に焦点を当てていこう。
プロロードレーサーの道へ
人力航空機の日本記録を達成した夏から2カ月後、増田の姿は宇都宮にあった。ジャパンカップというロードレースに参加するためだ。
「大学時代のパイロットのトレーニングが、自転車が本当に好きだということを再確認させてくれました。次第に高校時代に成仏したはずのロードレースへの思いが再燃し、僕の夢はエンジニアから自転車選手になることに変わっていったのです」
鳥人間コンテストに向けた大学時代のトレーニングは知らず知らずのうちにロードレースで戦う力を増田に養わせていた。ジャパンカップのアマチュアの部はプロへの登竜門と呼ばれる厳しい大会だ。そのレースで準優勝という好成績を収めることができたのは、大学時代のトレーニングの賜物だろう。
そしてチームミヤタから声が掛かった。
「あまり大きな声では言えないのですが、その時点で大学を留年することが決まっていて、その旨をお伝えしても欲しいと言っていただけたので、お世話になることにしました。夢見ていたプロロードレーサーになることができたのです」
チームミヤタの活動は国内が中心。レースの多くは土日に開催されるため、大学生活との両立もできたようだ。ミヤタには2年間在籍し、研鑽を積んだ。
そして増田は新たなチームへステップアップする。移籍先のエキップアサダは日本初の独立プロチームで、ツール・ド・フランスに出場することを目標としていた。つまり増田の主戦場は日本から本場ヨーロッパへと移ったのだ。
「ヨーロッパのトップカテゴリーは想像以上で、選手の質、レース展開など全てのレベルが違いました。本場のレースを肌で感じたことで、自分自身をアップデートさせるために何が必要か、自然と考えるようになりました」
現在、増田は国内を主戦場とする宇都宮ブリッツェンに在籍している。国内レースでは何度も優勝を果たしているが、一度も満足をしたことはないそうだ。今なお向上心を持って競技に取り組めているのは、ヨーロッパのレースを経験したからに他ならない。

2019年の全日本選手権個人タイムトライアルで念願の優勝を果たす
ケガ、病気を乗り越えて
増田の競技人生を語る上で避けて通ることができないのが度重なるケガで、骨折は鎖骨、骨盤、背骨など、数え切れない。さらに2017年に患ったバセドウ病は、不屈の精神を持つ増田が引退を考えるほどの大病だった。
しかし彼は幾度となく困難に打ち克った。しかもその度に心も体も強くなり、優勝を重ねたのだ。その姿から『不死鳥』の異名が付いた。

東京五輪への思いを語る増田選手
「東京にある国立スポーツ科学センターでリハビリを何度もしました。ひどいときには3カ月ほど泊まり込むこともありましたが、普段できないトレーニングをすることで以前より強くなることができました。他競技の選手と一緒になってリハビリに励んだのは、いい思い出ですし、オリンピックを目指すきっかけにもなりました」
プロ生活をスタートさせた頃、増田が目標としていたのはツール・ド・フランスや世界選手権だった。ロードレースの世界ではオリンピックよりもこの二つの大会が花形で、多くの選手が増田と同じ目標を持つ。
リハビリを共にしたのは柔道、ウエイトリフティング、サッカー、バレーボール、陸上などの選手で、その多くはオリンピアンだった。彼らから話を聞くうちに、増田のオリンピックへの思いが高まっていった。そして東京五輪の開催が決まったのだ。
「2020年は37歳で、選手人生の集大成として東京五輪以上の舞台はないと思いました。リオが終わった瞬間に、東京に向けて何ができるか、何をすべきかをよく考えていましたね」
東京五輪の代表選考は2019年に始まった。ロードレース日本代表は2枠で、選出されるには国内外で開催される国際自転車競技連合(UCI)公認レースに出場し、ポイントを積み上げなければならない。
バセドウ病を克服した増田の調子は上向き、2019年シーズン終了後の順位は1位。2020年3月には2位に順位を落としたものの、五輪代表は射程圏内にあった。しかし、そこで増田を新たな試練が襲う。
新型コロナウイルスの影響で世界中の自転車レースが中止になったのだ。
コロナとの戦い
当初代表選考は2020年5月末までの予定だった、しかし新型コロナウイルスの影響で東京五輪は延期となり、代表選考も10月17日まで期間が延長された。
ヨーロッパでは8月1日にUCIレースが再開し、毎週のように開催されるようになる。一方、日本ではUCIポイントを獲得できるレースが一つもない。
8月1日時点で3位の中根英登選手はヨーロッパを主戦場としており、増田を上回るのは時間の問題だった。
「僕の所属する宇都宮プリッツェンは国内を主戦場にしていますし、簡単に海外へ行くことができない状況でした。これは明らかに不公平だと思い、日本スポーツ裁判機構に選考基準の取り消しを求めたのですが、棄却されてしまいました」
昨夏を思い出してもらいたい。日本だけでなく多くの国が海外からの渡航者の受け入れに慎重になっていた。もちろん国際便の本数も激減。仮に海外へ行けても入国後2週間という隔離措置を取る国が多いことは、日本のニュースでも盛んに報じられていた。
この2週間という隔離措置は増田にとって高い壁となった。
考えてみて欲しい。彼はビジネスや旅行で海外に渡るのではない。アスリートとしてレースに参加するために渡航するのだ。仮にホテルに2週間缶詰めにされるようなことがあれば、コンディションを維持することは難しいだろう。実際にタイの大会へ出場することも検討したが、さまざまな理由から断念せざるを得なかったそうだ。
「代表に選ばれても落ちても、戦わずして終わるのだけは避けたいとずっと考えていました。そして多くの方が僕の思いを汲んでくださり、力になってくれました。ですからスペインの大会に出場が決まったときには本当にうれしかったです」
不死鳥の大逆転劇
スペイン・バスク地方でプルエバ・ビリャフランカ・オルディジアコ・クラシカが開催されたのは2020年10月12日。雨が降り、気温は10℃を下回るという厳しい環境だった。
この日のスタート時点で増田は3位。ライバルの2位中根選手も同レースに出場し、最後の戦いがスタートした。
アップダウンの激しい1周30km超を5周するコースで、最後の2周はさらに大きな上りが追加される。そんな厳しいコースだが、レースは序盤からペースの速い展開となった。
「最初の上りで3分の1はちぎれましたね。ただ序盤から速いレースは僕には向いているので、チャンスはあると思いました」
残り20kmまで先頭集団に食らいついた増田は20位でフィニッシュ。中根選手が未完走で終えたこともあり、増田が再度2位に浮上した。その差はわずか1.8ポイント。不死鳥の名にふさわしい大逆転劇だった。
「持っている力を全てぶつけることができたので、ゴールした瞬間は、高校や大学時代と同じように『これで成仏できる』と思いました。また最後の最後でレースに参加できたことは、僕にとっては奇跡だったので、僕を支えてくださった方々への感謝の気持ちも沸いてきました」

東京五輪に向け、トレーニングに励む増田選手
自転車競技部のない高校から始まった増田の自転車人生は、スペインのコースのように平坦なものではなかった。大学時代こそ乗り物は違うが、あきらめることなくペダルを踏み続けたことが、彼の競技人生の集大成となる東京五輪の舞台を作ったのだ。
「ここまであきらめずに続けられたのは、やはり自転車が好きだからです。風を切る感覚、スピード感、ランニングでは難しい遠い場所へ行けるなど、自転車の魅力は無限に広がっているんですよね」
東京五輪でメダルを獲ると公言できるほど、ロードレースの世界は甘くはない。それでも増田は一つでも上の順位を目指し、あきらめることなく走ることを約束してくれた。
東京五輪では、不屈の精神でゴールを目指す不死鳥の姿に是非注目していただきたい。
増田成幸 (ますだ・なりゆき)
1983年10月23日生まれ。2008年理工学部航空宇宙工学科卒。宮城県出身。
自転車競技部のない東北学院高で自転車競技を始める。本学在学中は航空研究会に所属し、人力飛行機のパイロットとして日本記録樹立に貢献した。
在学中の06年よりチームミヤタでプロロードレーサーとしてのキャリアをスタート。度重なるケガや17年に発症したバセドウ病に悩まされるが、その度に不屈の精神で復帰し、数々のタイトルを獲得したことから不死鳥と称される。
現在は宇都宮ブリッツェンでキャプテンとして活躍。21年に開催される東京五輪代表に選出された。