ギルディングを一目見て、和紙との融合に大きな可能性を感じました。

愛媛県喜多郡内子町にある五十崎社中
2006年、愛媛県にある内子町の手漉き和紙が「JAPANブランド」育成支援事業に採用され、伝統工芸の担い手となったのは神奈川県出身の齋藤宏之だった。それまで和紙と全く縁のない道を歩んできた齋藤の人生、彼とギルディングとの出合いについて語ってもらった。
内子町の大洲和紙
愛媛県喜多郡内子町は南予地方に位置し、小田川、中山川、麓川に沿って開けた山間の町で、江戸時代から明治時代にかけて手漉き和紙と木蝋の生産で栄えた。その富の蓄積から内子には質の高い建造物が連なり、1982年には四国で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、現在でも歴史・風土に培われた美しい街並みを見ることができる。
この内子町に世界中の人々を魅了する和紙を発信する、株式会社五十崎社中がある。
2008年に齋藤宏之により設立された五十崎社中は国内外の展示会に数多く出展し、その名を広める。そして2018年には三井ゴールデン匠賞を受賞するに至るのだが、まずは原点となる大洲和紙を紹介したい。
この土地で生まれた手漉き和紙は大洲和紙と呼ばれ、延喜式という書物に登場していることから、平安時代には既に作られていたと考えられている。現在のような大洲和紙になったのは江戸時代中期のことで、最盛期の明治後期には小田川沿いに製紙工場が立ち並び、400人を越える職人がいたそうだ。
大洲和紙の主な原料は楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)で、書道半紙、障子紙、凧紙、色和紙など、さまざまな形で利用されている。その中でも書道半紙は「薄くて漉きムラが少ないため、使いやすい」と多くの書道家に愛される逸品だ。
そんな大洲和紙だが、時代の流れと共に職人が激減し、存続が危ぶまれる事態へと陥った。そしてこの伝統産業を守るための担い手として白羽の矢を立てられたのが齋藤だったのだ。

紙漉きの様子
龍馬の志に惚れ込んで
齋藤は神奈川県の海老名市で生まれた。日本大学中学に進学し、その後大学まで本学で学ぶこととなる。理系科目が得意なこともあり、理工学部物理学科に進学。大学入学時に将来のビジョンは定まっていなかったが、理系の中でもベースとなる物理ならば幅広い分野に対応できると考えての学科選択だった。
沢木耕太郎氏の「深夜特急」に影響を受け、バックパックを背負って海外旅行にも数多く出かけた。
「ヨーロッパやアフリカも素敵でしたが、エネルギーに溢れているアジアが好きですね。大学時代にはタイ、インド、ベトナム、マレーシア、中国、台湾などに行きました」
大学時代、深夜特急の他にも影響された本がある。司馬遼太郎氏の長編歴史小説の傑作「竜馬がゆく」だ。五十崎社中という社名の由来は坂本龍馬が作った日本初の株式会社「亀山社中」にちなんでいる。齋藤が龍馬の志に惚れ込んでいる証だ。龍馬のように世界を相手に仕事をしたいという思いが生まれたのも大学時代のことだった。
卒業後は通信系IT企業に就職。システムエンジニアとして10年、企画・営業として3年間勤務をした。
「とても恵まれた会社で、お給料も福利厚生も申し分ありませんでした。ただ仕事のプロジェクトが大きすぎて、自分の仕事がどのように貢献できているのかがよくわからなかった。そんな思いを抱いてIT系の起業を計画していたときに、義父から手漉き和紙に関する相談を受けたのです。僕もものづくりには興味がありましたし、和紙ならば『世界を相手に仕事ができるのでは?』とも考えました」

学生時代を振り返る齋藤氏
ガボー・ウルヴィツキとの出会い
齋藤の妻の実家は300年続く老舗の造り酒屋『千代の亀酒造』を内子町で経営している。そして内子町商工会の一員でもあり、伝統産業の保護に尽力していた義父が中心となり「JAPANブランド」育成支援事業に応募し、見事採用された。
「日本の伝統的な技を活用した上で商品開発されたモノを国内外に広く販売する中小企業を助成するという事業で、このときには手漉き和紙が選ばれたのです。助成金をいただいたのですが、地元の商工会メンバーは他に職を持っているし、人手も足りないということで僕が手を上げたのです」
助成金を使用し、パリのインテリア見本市に出展したのは2006年のことだ。そこで齋藤はガボー・ウルヴィツキという壁紙デザイナーと運命的な出会いを果たす。
「ガボーさんは金属箔を使用したギルディングによる壁紙(ブランド名:ULGAD'OR)をデザインし、ヨーロッパ、北米、中東および日本に販売をされていて、その技法によりフランスの国家遺産企業の認定を受けています」
ギルディングとはヨーロッパに伝わる金属箔装飾で、古くは額縁の装飾技術として発展し、木材、鉄などの上にデザインを施す手法だ。金属の酸化と腐食性の特徴を活かし、独創的で艶やかな色合いを表現することができるのだが、その技を紙に応用したしたのがガボー氏のユニークなところであると齋藤は語る。

ギルディング和紙の壁紙
「ガボーさんのギルディングを一目見て、和紙との融合に大きな可能性を感じました。彼も和紙に興味を持っていたので、僕らの和紙の活動に協力するために内子町に家族で移り住んでくれたのです」
ガボー氏が内子町に住むタイミングで齋藤は通信系IT企業を退職。その後すぐに起業した。それから和紙とギルディングの修行をスタートさせようと考えていたのだが、齋藤の修行は順風満帆の船出とはいかなかった。
「最初は商工会のメンバーと話をしていて、ほとんど細かい話が詰められてなく、自分が想定していた内容がガボーさんの合意に至ってなく困りましたね。他にもヨーロッパ人特有のたくましさに驚かされることはたくさんありましたが、今となっては良い経験だったと思えます」
内子町の人々の温かなおもてなしと齋藤の情熱がガボー氏に伝わり、結果的にギルディングの技術指導を受けることになるのだが、それまでには1年ほどの歳月が必要だった。
ガボー氏は内子町に2年住み、現在はパリに戻り活動をしているが、彼の帰国以降も共に仕事をするなど、良好な関係は続いている。
和紙の新たな可能性を国内外に発信することができた。

五十崎社中ショップにて
内子町の手漉き和紙の救世主となった齋藤宏之。彼が世に送り出した「ギルディング和紙」と「こより和紙」は人々を魅了し、和紙に新たな価値と可能性を見出すことに成功した。後編では五十崎社中の和紙の魅力、今後の展望などについて話を聞いた。
『ギルディング和紙』と『こより和紙』
ガボー・ウルヴィツキの教えを受けた齋藤は手漉き和紙とギルディングを融合させた『ギルディング和紙』を生み出した。これは業界に革命を起こしたと言っても過言ではないだろう。
大洲和紙の主力商品は書道半紙や障子紙だった。一方ギルティング和紙は、表装、壁装飾、タペストリー・額装・卓上ディスプレー用の室内装飾材、襖・扉の建具など、さまざまな分野で活用する可能性を秘めた素材に進化したのだ。
「日本人の生活様式が変わった今、和紙に何かしらの付加価値を持たせる、または全く違う商品を作らなければ先はないと創業当初から感じていました。ギルディング和紙は世界で五十崎社中しか作っていません。そういう意味では和紙の新たな可能性を国内外に発信することができたと思っています」
齋藤が世に発信した独自の和紙はもう一つある。それは『こより和紙』だ。
糸状に縒った和紙を木枠に編み込んでから漉くという手法で作られ、できあがりには濃淡が生まれ、網目状の和紙となるのだ。
「こより和紙は僕がこちらに来る少し前から内子町のメンバーが考え、開発した和紙です。ギルディング和紙と同様、建材として使っていただく機会が多いですね。具体的にはガラスに挟んで内壁にしたり、タペストリーとしてご利用いただくなど、インテリアとしても高い評価を受けています」
またさまざまな企業とのコラボレーションも忘れてはならない。
同じ愛媛県内の伝統産業である砥部焼、今治タオル、宇和島の真珠、内子の木工品のみならず、スヌーピー、ムーミン、ディズニーなど、世界的に有名なキャラクターで和紙のグッズを制作した。
「キャラクターとのコラボレーションは楽しいですし、若い職人の刺激にもなりました。これから先、日本の漫画とコラボができたらうれしいですね」
コロナ禍の今、実際に内子町へ行くことが難しいという人は多いだろう。
そんな方には是非 https://www.ikazaki.jp/ にアクセスしていただきたい。画面上からでも齋藤の起こした革命を目撃してみてはいかがだろうか。

五十崎社中ショップにあるタコをモチーフにしたギルティング和紙
和紙の進むべき道
内子町の手漉き和紙職人は五十崎社中の活躍によって増加した。それによって齋藤の役割も自然と変わってきたそうだ。
「今の僕は職人というより、職人を育てる方にシフトチェンジしていて、企画・営業というのが主な仕事です。また創業当初からお世話になっている、天神産紙の専務も今は兼任しています。小さな産地なので、みんなで頑張っていこうということですね」
天神産紙と共に歩みを始めたのは2020年の春で、コロナウイルスが世界に蔓延したときだった。コロナの影響で業績は落ち込み、今なお難しい時期を過ごしているが、齋藤はこの時間をただ苦しいだけで済ます男ではない。
「うちのギルディング和紙、こより和紙というのは変化球みたいなもので、それで今まで勝負していましたが、天神産紙さんと一緒にやっていくことで直球の和紙も作るようになりました。そういう意味ではコロナ禍をいい勉強の時間にあてることができました。職人も技を覚えてきたので、今は王道の和紙を今を生きる人にどのようにアピールしていくかを考えています」
韓国の韓紙は国からのバックアップを受けて、ヨーロッパへ進出している。日本の和紙産業も国際的な評価を上げるために、日本全国の和紙産地が協力し、知恵を出していかなければならないと齋藤は考える。
「福井県の越前和紙、岐阜県の美濃和紙など、日本は産地ごとに素晴らしい和紙を作る方がたくさんいます。ただ家族経営で後継者不足で廃業される方も少なくありません。急がなくては大変なことになってしまいます」
こう語る齋藤だが、昔ながらの伝統工芸品である和紙を頑なに守ることは自分の役割ではないと言い切る。王道の和紙を扱っても、状況に応じて柔軟に進化させることが必要だと考えるのは、実に齋藤らしい。

蒸気で熱くなった鉄板の上に1枚1枚和紙を置いて乾燥させる工程
”世界の海援隊”を目指して
取材中に、齋藤の妻である晶子(しょうこ)さんに話を聞くことができた。晶子さんは大学時代のクラスメイトで、現在はラム酒の会社を経営している。
「夫は人との付き合い方、距離間を上手に取ることができます。私も含め、田舎の人間は近寄り過ぎる、または全く近寄らないという方が多いのですが、彼は都会で育っているからでしょうか、そこが抜群にうまい。これは経営者には必要な能力なのですが、私にはないものなので、彼がとても羨ましいです」
妻から経営の才を認められた齋藤が五十崎社中の今後の展開として目を付けている市場は台湾とニューヨークだ。 台湾は商習慣が日本と近く、親日家も多い。さらに文化レベルやデザインへの関心も高いため魅力的な市場になると睨んでいる。 一方ニューヨークは芸術という側面で魅力を感じている。一昨年に有名デザイナーのニューヨーク個展に作品制作で協力しアートとしての和紙にも充分可能性があると確信した。
「手漉き和紙というのはシーラカンスのような産業ですが、さまざまな分野で利用可能で、コラボレーションなども含めて大きな可能性を秘めています。これまでも思いもよらない企業とお仕事をさせていただきましたが、今後もいろいろな挑戦をしていきたいです。そして、いつか日大や日大出身者と共に仕事ができれば楽しいでしょうね」

五十崎社中の今後について語る齋藤氏
型にはまらない考え方で内子町の誇る伝統工芸の救世主となった齋藤宏之。憧れの坂本龍馬と同じく”世界の海援隊”を目指す彼の次なる一手に注目していきたい。
齋藤宏之 (さいとう・ひろゆき)
1972年7月22日生まれ。1995年理工学部物理学科卒。神奈川県出身。
大学卒業後、通信系IT企業で13年勤務。2008年に妻・晶子さんの地元の内子町に移住し、株式会社五十崎社中を設立。金属箔で装飾を施した「ギルディング和紙」や「こより和紙」などを開発し、国内外より注目を集める。
15年 ミラノ国際万国博覧会クールジャパンデザインギャラリー出展。17年 ヨウジヤマモト・パリ店 和紙インスタレーション。18年 三井ゴールデン匠賞受賞。