志野焼っていうのは、日本の焼き物の歴史の上でも、特別な焼き物なんです

佐藤さん自慢の赤志野の湯呑を持って

いつの世も芸術が開花するには、タニマチの存在は欠かせない。「美濃焼」は、かつての美濃の国、今の岐阜県の南部にあたる、土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市にまたがる地域で作られる陶磁器の総称で、元々、平安時代から陶器の里として知られていた。そこで贔屓したのが、あの織田信長、そして、豊臣秀吉だった。1576年、稲葉山城の戦いで美濃国平定を進めた信長は、自らが愛した茶の抹茶茶碗のために陶工たちを保護して作らせた。その遺志を秀吉が継ぎ、二人の天才武将に守られた匠たちは、数々の名器を世に出し続け、岐阜県はいつしか全国でも有数の産地となった。佐藤公一郎さんは、そんな匠の継承者のお一人だ。

可児市を代表する「志野焼」

愛知県犬山市と岐阜県可児市を繋ぐ、名鉄広見線「明智」駅から歩いてすぐのところに、今回、紹介する美濃焼職人・佐藤公一郎さんの営む「佐藤陶藝」はある。

少し北には、可児川、さらに1kmも上れば木曽川が流れる、風光明媚なこの土地で、父と伯父の代から陶芸家として窯を興し、ろくろを回してきた。

佐藤家のものづくりの血は、父の兄弟たちからあったそうだ。

「父は5人兄妹の末っ子で、一つ上の4番目の兄と美濃焼を始めたんですが、きっかけはその上の3番目の兄が陶芸の専科があった高校に入って勉強を始めて、その影響を受けて、下の弟だった伯父と父も同じ学校に入った。その後、戦争があったんですが、終わって戻ってきてから二人で始めたんです」

当初は、国内向けではなく、輸出用の磁器を作っていたが、昭和42年に志野焼に方向転換した。読みが当たったのか、ちょうどその頃、国内で志野焼の大ブームが到来。家業は軌道に乗った。

「志野焼っていうのは、日本の焼き物の歴史の上でも、特別な焼き物なんです」

焼かれ始めたのは戦国時代末期、桃山時代と言われる志野焼は、それまでの焼き物とは明らかに違う特徴が二つあった。

一つは、日本で焼かれた最初の“白い”焼き物であったこと。それまでは、世界中を探しても中国で作られた磁器にしか、白い焼き物はなかった。

もう一つは、筆を使って柄が描かれた最初の焼き物であったこと。今では当たり前のように器には絵が描かれているが、それまでは粘土に直接ひっかいて模様を入れる柄の入れ方だった。

当時から画期的だった“白い美濃焼”は、昭和の世でももてはやされた。

佐藤公一郎作「梅花皮 白志野 しのぎ 深小皿」

のちに国宝となった『志野茶碗 銘卯花墻』も、この可児市の山の中で焼かれている。

 ちなみに、日本で焼かれた茶碗で国宝に指定されているのは、本阿弥光悦の白楽茶碗(銘不二山)と、この卯花墻の2碗のみだ。

「志野茶碗 銘卯花墻」(三井記念美術館公式HPより)

陶磁器国内生産量の約半分は「美濃焼」

平安以前から室町、安土桃山時代に隆盛を極め、日本の歴史上、長く息づいてきた「美濃焼」は、現世に至っては、陶磁器国内生産量の約半分を占めるまでに成長した。

「順番で言うと、黄色い黄瀬戸と瀬戸黒っていう黒い器もあるんですが、いずれも志野が焼かれる直前に焼かれています。そして志野焼、ちょっと間を置いて関ケ原の戦い(1600年)の後に織部焼。それぞれの焼き物の違いは、釉薬(ゆうやく/素焼の陶磁器の表面に光沢を出し、液体のしみ込むのを防ぐのに用いるガラス質の粉末のこと)の調合。黄瀬戸と織部は木を燃やした灰を使っていて、志野には白い長石(ちょうせき)という岩石が入っています」

今も昔も、使っている原材料は変わらないが、配合や比率、焼き方で、色味は、一つとして同じものはできない。

それが、焼き物の奥の深さだ。

そして、「美濃焼」の奥深さは、「九谷焼」(石川県南部で焼かれた色絵磁器)や「有田焼」(佐賀県有田町で焼かれた白磁彩色磁器)とは異なり、同じ地域でも多様な焼き方が存在することだ。

その焼き方は、「美濃桃山陶の聖地」という可児市のホームページに簡潔に書かれている。

佐藤さんの“こだわり”が行き届いた工房の中でのインタビューの一枚

・「黄瀬戸」は、色の地に花文様などを刻み、緑や茶(鉄釉)をアクセントのようにつけた上品な焼き物。

・「瀬戸黒」は漆黒の茶碗を主とする。この真っ黒な色は、窯から取り出して急冷することで生み出された。

・「志野」は、真っ白な肌(長石釉)に鉄絵具で下絵を描いたもの。日本のやきもので絹のような白い釉薬をかけたのは、「志野」が初めて。これに筆によって自由に下絵を描いた。

・「織部」は、新たに緑色などを加えた焼き物。「黄瀬戸」以来のすべての色彩を総合し、京の都で流行る文様をも巧みに取り入れた。

可児市を代表する「志野焼」

「こうした専門用語しかない焼き物の世界を、どう分かるように伝えるか、よく考えますね」

佐藤さんは、美濃焼職人の中でも、選ばれし「伝統工芸士」としての役割も担う。

25年ほど前から始めた地元の小学校4年生を対象とした、伝統工芸の体験学習を、今年も7校で行った。社会科の副読本でも佐藤さんの職場が紹介されている。

市内の小学校を訪問したときの様子。授業を受ける子どもたちの表情もいきいきと映っている

「だいたい3時限を使って、焼き物づくりの工程と実演をみせます。土練りとろくろを回して形をつくるところなんかをね。あとは、歴史。やっぱり国宝を焼いた土地柄、歴史的にも日本の焼き物の中でも重要な土地ですんで」

接する子供たちの中には、才能のある子供もいるという。

「100人いたら1、2人はいるかな。本当に『何で初めてなのにこんなに上手にできるのか?』っていう子がいる」

きっとその子も「伝統工芸士」に褒められたら嬉しかろう。

「でも、僕はあまり大げさに褒めたりはしません。そういう子に限って他に行ってしまうものです(笑)。才能がなくても、努力して上達できるのが焼き物なんです」

好きこそものの上手なれ、とはよく言ったものだ。

出張授業が終わると、佐藤さんは、先生に必ず言うことがある。

「『作った器は割らなきゃ千年でも残るよ』って子供たちに言って下さい、ってね」

教えた子供たちの数は、四半世紀で、千の桁を超えて万になる。

「今年も『まだ使ってます』っていう子がいました。もう立派な大人でしたが(笑)」

平安時代以前の1200年以上も前から根付いた、この地の焼き物文化は、今もこうして佐藤さんのような匠たちの手によって、継承されている。

ボート部が厳しいとは聞いていました(中略)
それは冗談だと思っていましたよ(笑)

美濃の大自然に囲まれて育った小中高校生時代は、家業には目も向けず、遊びの釣りと、部活動のボートに熱中したという佐藤さん。ボートではアスリートとしての才能が評価され、大学進学のきっかけに。そして、青春時代を過ごした東京での話にも花が咲いた。

ボート競技との出会い

佐藤さん自身も、子供の頃から、ものづくりが好きだった。授業の中でも、工作の時間が待ち遠しかった。

「忘れもしないのが、小学校5年生のとき、社会の時間に原始時代って言葉が出てきて、その頃は石器を使って自給自足をしていたって書いてあったのをみて、直ぐに興味を持った。学校帰りに矢尻になりそうな石はないかと探して、家に持って帰って、金づちでコンコンやりながら作りましたよ。それまだありますから、持ってきますね」

そう言って、佐藤さんは、当時のチョコレートの缶に入った石を見せてくれた。

物持ちの良さもここまできたら才能だ。拾ったのが小学校5年生というから、こちら54年前のシロモノ

小学校低学年の頃は焼き物をする父親の仕事場にもよく行って、粘土をこねたり、絵を描いて遊んでいた。

しかし、中学に入ると、徐々に足が遠き、高校に入ると一度も行くことは無かったそうだ。

熱中したのは、部活で始めたボート。

のちに、本学に入学するきっかけにもなった“一芸”だ。

「岐阜県は高校を中心にボートが盛んなんです。私の母校・岐阜県立加茂高校も強豪校で、今年も男子はインターハイの代替大会で優勝しました。僕が3年生のときにも、インターハイ、国体には出場しました。地方大会では、表彰台にも上がってたんで、スカウトの目に止まったのかもしれません」

その後、本学から推薦オファーがあり、佐藤さんは、東京に出ることに決めた。

「日大のボート部が厳しいとは聞いてました。進学が決まった後、英語の先生から『佐藤、日大のボート部はなぁ、(合宿所から)夜逃げする学生がおるでなぁ』って言うんですよ(笑)。でも、それは冗談だと思っていましたよ」

時間との闘いの日々

しかし、現実は甘くはなかった。

「行ったら、先生の言ったことが本当だった(笑)。もうね、早いと3日くらい、大体、1週間から10日経ったら、朝起きるといないやつがいるんですよ」

当時から埼玉県戸田市戸田公園にあったボート部の学生寮に、4年生の最後まで残ったのは11人中7人。一つ上の代に至っては2人しか残らなかった。

「結局、自分が思っていたのと現実の差が激し過ぎたんでしょうね(笑)。同じことやったら、今の学生なら100%いなくなると思います(笑)」

大学時代、ボート部の厳しさは他大学を凌駕した練習量だった

逃げ出す気持ちも良く分かった。それでも、残ったのは意地でしかなかった。絶対に4年間やり切ってみせる、そう誓って、毎日、東京杉並区下高井戸まで1時間半をかけて通った。

起床は毎朝5時。起きてすぐに寮の前の広場で体操してからトレーニング。終わってすぐに授業に向かっても間に合うのは2時限目から。そこから3、4時限と出席したら、とんぼ返りで戸田公園に帰って、トレーニング。

毎日が時間との戦いだっだが、夏休みと春休みの、普通の大学生なら飛んで喜ぶこの期間が、さらにきつかったそうだ。

「戸田には各大学の合宿所がありましたから、どこがどれくらい練習しているかは分かるんです。授業がない休暇期間は、朝5時から、夕方の7時まで3部練習。中でも日大と早稲田が、練習時間が長かった。合宿期間は10カ月半で日大が一番でしたね」

高校時代は、練習をやってもせいぜい半日。苦しいよりも楽しい方が優っていた。一変、大学時代は、とにかく我慢。耐えることを覚えた。

4年間、埼玉・戸田の合宿所から通った世田谷区桜上水にある本学文理学部

「こういう世界があるんだって。そして、その世界に自分がどっぷり浸かっていて。だから、そこから逃げ出すのは悔しい」

でも、意地だけでは4年間続かない。見出した楽しみは、意外にも銀幕の世界だった。

4年間で映画400本超

佐藤さんが上京した昭和48年当時は、東京には安い映画館が沢山あったそうだ。

「元々映画は好きだったうえに、旧作を上映する名画座なんかだと二本立てで150円だった」

喫茶店で珈琲が一杯150円、定食が250~300円の時代だ。確かに安いが、それにしても。

「1年生の時に観た映画の本数が100本を超えてたんですよ(笑)。それで、『よし!このペースで4年間観に行こう!』そう思って観た映画のことをノートに書き留めました」

いつ、どこで、タイトル、監督名、主演の俳優、音楽や気に入れば作曲者の名前まで、できる限り記した。卒業する頃には、計画通り400本を超えた。

「その中でも、もし離島に一本だけ持っていけるとしたなら、迷わず黒澤明の『七人の侍』を上げますね。初めて観たのは中学のとき。大学で上京したときに、また再編集して長尺にしたのを上映していたので、観に行きました」

好きだったボートを続けるための“燃料”にもなった映画も、“ものづくり”という点では、人類が生み出した中でも類稀なる創作物だ。制作者に対するリスペクトは、そのまま佐藤さんの“ものづくり”への探求心と重なった。

それから半世紀近く。映画の料金は、1本でも10倍以上となり、時代の移り変わりとともに、観られる映画も、それを観る映画館も変わっていった。

戦国時代末期を舞台にした大作「七人の侍」(東宝)

「『七人の侍』は、今はなくなったテアトル東京っていう日本橋の映画館で観たんです。僕もこの15年くらい自分の焼き物を持って東京に行って展示会をやっとるんで、毎年、行っていますが、かなり変わりましたね、日本橋あたりも」

それでも名作は、必ず後世まで残る。佐藤さんはそう言いたかったに違いない。選り優れた、作品は、時代を超えて賞賛されるべきものだからこそ。 

器は盛る料理が美味しくみえなければ
意味がありませんから

佐藤さんは、大学を卒業とともに焼き物の世界に身を投じて以来、43年。試行錯誤を繰り返し、古来からの常套と独自の作風を絶妙なバランスで保ちながら、日々、焼き物に向き合う。この積み重ねてきた年輪が、いつしか「伝統工芸士」という肩書まで担うことに。佐藤さんの求道心が満たされるのは、まだまだ先だ。

料理が美味しく映る器を

佐藤さんは、こだわりの人だ。

取材中、旬の柿や水出しの麦茶、小豆のぜんざいなど、こだわりの品々をご相伴に預かった。

「この麦茶は、前に赤坂にある虎谷本店で食事したとき、最初に出てきたお茶の美味しさに驚いてね。麦茶は飛騨高山で採れた麦を使った麦茶で、水を入れたやかんに麦をいれて5~6時間浸し、そのまま呑む。香ばしい良い香りがするんです」

そのときの感動を昨日のことのように語りながら「割りと食い意地張ってるんで、僕」と、佐藤さんは笑う。「で、このぜんざいの小豆は、ね」と、話は尽きない。

美濃焼が国内シェアNo.1である理由が分かる一枚。まるで柿の風味や味まで表現しているかのよう

釣りも、そうだ。

幼少期から、ハヤ釣りを愉しみ、大学を卒業して地元に帰ってくると今度は鯉釣りと父親も好きだったアユ釣りも始めると、あっと言う間にハマった。自分のメールアドレスにも入れている最後の数字「75」は、自身が一日でかけたアユの数だそうだ。

趣味は、創る焼き物にも繋がる。

黄瀬戸に緑色の紋がにじんだ鮎皿は、天然アユのあの独特な瓜のような薫りをいまにも醸し出してきそうな、至高の一品だ。

こうして、名匠の一人として作品を生み出し続ける佐藤さんも、焼き物を始めたのは、大学卒業後の22歳。隣町の多治見市内にあった「岐阜県陶磁器試験場」(現セラミックス研究所)で研修生として2年間、基礎を学び、実家に戻って父と伯父の下で、日々、実地で体得していった。

「色んな手伝いしながら、最初に覚えたのは、窯の炊き方ですね。ガスの窯で、手伝いながら身に付けて。そのときに、大事なのが、温度と空気の調整です」

窯の温度は、摂氏1250℃にもなり、焼いている時の空気調整で酸素が多すぎても少なすぎてもいけない。

佐藤さん作「黄瀬戸 草原紋 鮎皿」。ここに長良川の天然アユを焼いて盛りつける。贅沢な馳走だ

「僕の場合は、まず『自分が使ってみたい器のイメージ』から作ります。はっきりとしたイメージがないと形にはできない。なおかつ食器ですから、デザインを考える要素は色々ありますが、例えば、お刺身を盛る向付(むこうづけ)であれば、『刺身を盛ったときに、どれくらいの深さが美味しくみえるか』。器は盛る料理が美味しくみえなければ、意味がありませんから」

美しい器に、盛りたい料理を作る。美味しい料理を、盛りたい器を作る。どちらが先でも、作り手の思いが共鳴し合えば、出来栄えは増幅する。まさに食のハーモニーだ。

梅花皮(かいらぎ)志野とミシュラン

こんなことがあった。

「東京で展示販売会をしていたときに、ある寿司職人の方がいらっしゃてね」

聞けば、独立したいから黄瀬戸の器を作って欲しい、と湯呑やおしぼり置き、台のついた器など、手書きのイラストも添えて特注を受けた。いくつ作れば良いのか心配だったが、言われた席数は6席分。結局、都合5種類の焼き物を春に発注され、年内に収めたそうだ。

「でも、なかなか独立の連絡がないな、と思っていたら、3年近くたってハガキで『独立して店が持てました』と連絡がきました」

早速、東京に来たときに店に顔を出してみると、本当に6席しかない品のある高級店だった。

「そのときは全部ご馳走になって、最後に食べた握り14艦は、もう寿司の概念が変わるほど。カルチャーショックでしたね(笑)」

今年2020年の年賀状には、さらに驚かされた。

「『ミシュランの一つ星を頂きました』って書いてあったんですよ(笑)。いや、びっくりしました。今ではそのお店に寄るのが、東京に行く楽しみの一つになっていますね」

もちろん、料金はそれなりにする。

「確かに高いんですけどね(笑)。でも自分の作った湯呑で出されたお茶をいつも『呑みやすいなぁ、これ』って思いながら呑んでます(笑)」

ミシュランの一つ星に選ばれた名店が、開店する3年以上前から、こだわって発注した佐藤さんの黄瀬戸。名匠は名匠を知る。ミシュランの選定士も、きっと名匠たちの業にうなったに違いない。

佐藤さんにとっても、嬉しい椿事となった。

そんな佐藤さんが、最近、思い始めたことがある。

「これまではほぼ実用品を作っていたんですが、そろそろ作品としての焼き物を作ってみたいってね。それが一つ。もう一つは、同じ実用品でも、塊のような重い焼き物。実用品ってどうしても普段使うものだから、重いものよりも、軽いものが好まれる。それでどうしても軽くなるように軽くなるように作っています。そうすれば重ねても良いですからね。だから重さに制約も出てきてしまう。でも、そういうことを一切考えずに、『これは面白い器だ』っていうものを作ってみたい。いわば彫刻的な器ですね」

今年65歳になって、より思いは増しているそうだ。

窯は湯呑なら500個ほども入るスペースが。鼠志野コーヒー碗皿や灰釉の土瓶がみえる

ものづくりは好きに作るが一番

伝統工芸である焼き物文化を「伝統工芸士」として地場産業を守り続けてきた佐藤さん。その一方で、“伝統”を重んじすることよりも、作り手は好きに好きなものを作れば良い、と達観してもいる。

「僕は自分の手で作りだすってことが好きなんです。好きじゃないと続かないでしょ? 絵を描くことも、音楽や文章を書くことも、すべてが“ものづくり”。やりたいと思う人が、好きにやれば良いんですよ」

そういうことを考えていたときに、ふっと思ったことがある。

「教育も“ものづくり”ならぬ“人づくり”だなって。だから、大きな意味で“ものづくり”の中の一部なんだって。そういう捉え方をすると僕の中では腑に落ちるところが沢山あって。だから、“ものづくり”が人相手が良い人は教育者になり、木が好きな人は家具を作ったり大工になる」

出張講師として、地元の小学校を回る佐藤さんにとって、教育の現場は遠いものではない。子供たちが自分の好きなように粘土を触って、陶器を作っている姿を、見続けてきた結果、押し付けがプラスにならないことに気づいた。

「食器を作っていてもね、買うお客さんは、十中八九、作り手のこちらの思惑通りには使ってはくれない(笑)。でも、僕はそれで良いと思うんです。その人がその器をみて想像できることってあるんで。だから、お客さんには『是非、ご自身のお好きな使い方をして下さい』って思います。僕は考え方が凝り固まると、作るものも固くなると思ってるんです。自分だけだと限界がありますから。人の考え方やものの見方、解釈に気づかされることも多いですよ」

年間100本観ていた映画も、訪れた和菓子屋のお茶や江戸前寿司の握りも、仕事場で流れるクラシックの曲たちも。

きっと、佐藤さんにとっては、“ものづくり”の名匠たちに、“気付かされた”名作なんだと、思えば、こちらも腑に落ちる。

佐藤公一郎 (さとう・こういちろう)

1955年3月24日、岐阜県可児市生まれ。1977年文理学部史学科卒。
本学卒業後、現セラミックス研究所で研修生として2年間基礎を学び、家業である「佐藤陶藝」手伝い始める。美濃焼の中でも、志野焼、黄瀬戸を主に創作。
1990年代中盤からは、求められて地元小学校にて美濃焼の文化・創作の講演活動を続け、2005年には「美濃焼伝統工芸士」として経済産業大臣認定を受けた。
毎年、東京・青山にて個展も開催。大好きな鮎の友釣りは生活の一部。