私の人生、柔道や花火のように潔い

直径12センチの花火玉が、上空では120mにまで広がる

時は江戸、隅田川に両国橋が架橋された1659年。夏の隅田川を彩る花火は、鍵屋弥兵衛が「火の花」「花の火」「花火」と称して売り出したことから始まった。360年を経て現東京。興奮と活力を与え、伝統、文化を継承するのは宗家花火鍵屋15代目当主、天野安喜子さんだ。

鍵屋は江戸時代にも、大飢饉とコレラによる慰霊と悪疫退散を祈願し花火を打ち上げた。コロナ禍の2020年。夏の夜空に打ち上げられたのは、コロナ終息、疫病息災の願いが込められた花火。無観客ながら見かけた人から「生きる希望、明日もがんばろうという気持ちになりました」と言葉が届いた。長きにわたり人の心を明るく照らす宗家花火鍵屋15代目当主、花火師・天野さんの「プロ」としての生き様に迫る。

夜空を舞う「祈願花火」

人生の幹となった柔道精神

小学校2年生から、鍵屋の跡継ぎとして生活を送ってきた天野さん。

「(当主としての)心構えは逃げることなく向かっていく、柔道精神で育まれたのかもしれません。柔道を始めたのもその頃です」

天野さんが小学校1年生の時に、14代目の父・修さんが開いた「富道館柔道天野道場」。
後に当時世界チャンピオンだった山口香さん(ソウル五輪銀メダリスト)を高校1年生で破り、日本大学への進学へとつながる柔道が、人生の礎となっている。

「柔道は一回組むと相手と正面を向かい合って逃げるわけにはいきません。どんなことがあっても逃げない、向かっていきます」

この柔道への向き合い方を天野さんは自身の「幹」と言った。
加えて
「チャンスは努力した人に与えられる神様からのプレゼントであり、チャンスが見えるというのは掴み取れるだけの力が与えられているはず。壁が見えた時に逃げる人、違う道に行く人、乗り越えていく人、があるなら私は乗り越えていきたい。カッコイイ生き方を目指し、日々を送っています」

柔道の審判員は、動揺や焦りといった自分の感情を表に出さないことが必要と天野さん。これは花火師として大会を統率する立場においても求められると話す。

「トラブルがあったときに焦りを見せると、チーム全体に迷いや不安の空気が流れ、正しい道へ導くことが難しくなるんです。」

柔道で育まれた逃げることなく向かう意志の強さで100人を超す花火師を束ね、数多くの花火大会で人々に希望や勇気を与えてきた。

順風満帆ではなかった柔道

「私の学生時代は女子柔道がまだ定着しておらず、練習場所は講道館を始め、出稽古が中心でした。」(女子柔道が正式種目となったのは1992年のバルセロナ五輪から)

競技者なら誰しも夢に見る大舞台。全日本女子柔道強化選手として合宿にも呼ばれ順風満帆な選手生活。競技のモチベーションは、試合に勝つと喜ぶ両親の笑顔だった。

しかし、
「大学時代は成績がおぼつかず、自分は何をやっているんだろう、と不安や無気力さを味わいました。一生懸命になろうとする気力がわかず、目標を見失った時期でした。
高校生のときには試合成績を残し、傲慢なときでもありましたが、大学を卒業して思うことは、自分が成績を残せたのは応援してくれる人、手を差し伸べてくれる人がいたから。自分自身の努力だけではない。人への感謝の気持ちを忘れてはいけない」と言うことでした。

言葉から、明るさ、強さの印象を受ける天野さんだが、伸び悩み苦労した時期があった。

這い上がるきっかけは

「大学を卒業して柔道選手から花火師の道へ進み、花火製造の修行に2年余り行ったこと」

14代目からは当主になることを見据え、経営者としての勉強を勧められたが、天野さんの思いは違った。

「鍵屋の仕事は職人との打ち合わせが多いので、花火をつくれず教科書で学んだだけで仕事をすると、職人の思いや大変さが分からず信頼関係が築けない」
と、厳しい環境に身を置くことを選び14代目を説得し、2年と期間を決め花火師の修行へ進んだ。

そして、自身が変わるきっかけを、花火師のルールの中に見つけた。

「花火は火薬を扱う危険な仕事ですので、一つ一つの作業に安全の意識があり、物は引きずらない、整理整頓の徹底、自然光の反射や静電気にも意識を注ぐ、と細かい決まり事に則っていくことで、予定を詳細に立てるようになりました。いまでは軍隊のような生活を送っています(笑)」

離れたところで話を聞いていた三女・さかえさんも頷く。

「父に理解を求めて行った修行でしたので、自分自身で目標を立てて生活し、行動に移していきました」

大学時代の苦しみがあり、「同じような思いはしたくない」と臨んだ花火師の修行。
そこで得たものは「小さな目標でも積み重ね自信をつけ前に進む」。甘えが許されない修行で培われたものだった。

「挫折を味わい、もがいた時間が長かったので、立ち向かう力は強くなった。だからこそ、今は1%でも可能性があるならばそれに懸けて、自分自身に後悔のないように進みたい」

環境の変化とそこで得た習慣が、自分自身の可能性を見出す機会となり、生まれ変わる分岐点となった。

鍵屋の事務所に併設されている道場にて。子どもたちも柔道精神を身に着けていく。

後編では、大学卒業後に社会人となってから、本学大学院で研究をした「花火」の魅力に迫る。

天に願いを込めて。打ち上げる様々想い

2020年8月某日。無告知、無観客で江戸川上空に打ち上げられた花火。
「火」には悪疫退散、そして慰霊の意味合いがあり、打ち上げられ天に昇る火は、コロナ終息の願いだけではなく、医療従事者への感謝など様々な想いを、天に届ける意味が込められた。
花火師・天野さんは「シンと静かな空間でゆっくりゆっくり打ちあがっていくと『一人ひとりの心に寄り添った花火』になり、人の心に響く」と見守った。
本学大学院で打ち上げ花火の「印象」を研究した天野さん。研究、そして仕事の中で見えた花火の魅力に迫る。

花火の特質は「色、形、光、音」

「花火は工学的な視点で研究されていますが、芸術作品だと謳われていても、芸術学としてはまだ開けていない部門でした。であれば日本大学、そして芸術学部という魅力のある学校で学び研究したい。ほかの学校という選択肢は不思議となかったですね(笑)」

本学文理学部体育学科を卒業後、花火師として家業を継いだ天野さん。花火を追求するために選んだのは本学大学院芸術学研究科芸術専攻。30歳を過ぎてからの進学だった。

「花火の特質は『色、形、光、音』です。視覚的要素と聴覚的要素を分けて、音が無い花火だったらどう人が印象を持つか、美的感覚や力強さはどうか。映像が無く音だけだった場合、観客はどういう印象を持つかを研究しました。また最近は、音楽を流しながら花火を打ち上げている大会も増えています。従って、花火に音楽を足すと、花火の魅力である力強さの印象は、どのように変化をするかなど」

柔道の国際審判員として年の半分近くを海外で過ごしながら、当主として暖簾を守る

作業着ではなくスーツの日も

「昔は花火を製造して打ち上げる、のが仕事でしたが、今は花火大会全体の企画をして花火を打ち上げています」花火師・天野さんの仕事は、時代のニーズに合わせ変わっていく。

「昔は一発の花火に拘っていましたが、今は環境の変化に伴い、花火玉の組合せによる演出重視の時代になりました」

時には作業着だけではなく、スーツを着て会議に出ることもある。花火大会で用いられる音楽の選曲、スピーカーの配置・方向、花火のアナウンスまで手掛けるのが天野さんの仕事だ。

「『雪の中の富士』というテーマを掲げたときに、雪に覆われた富士山を見たことがある人とない人では、花火で描かれたデザインの印象が違って見えてしまいます。寂しく見えたり華やかに見えたり、思い出と絡めてご覧になるので、事前に流すアナウンスのコメントで観客の感覚に方向性をつけることも仕事の一つです」

今年、日本各地で花火大会は中止。打ち上げ花火を見ていない、という人も多いのではないだろうか。そのような状況下で、無告知、無観客で打ち上げられた花火はこれまでの印象と違うものだったという。

「本来、人混みの中にいると呼吸のリズムが早くなります。打ち上げ花火は観客の興奮に負けないよう、エキサイティングにそして打上リズムに拘らなければ感動はえられません。しかし、人のいない静寂の中で、ゆっくりと打ち上あがった花火は、花火の音そのものの響きが体に伝わり、花火に包まれている感覚がありました」

普段に比べれば打ち上げる数も少なく、観客もまばらな中での花火に「涙が出てきました」と言葉をいただいたと言う。

「この状況下だからこそ、心に寄り添うことがとても大切で、人としての心の有り様が問われる機会の多い年でした。花火も一人ひとりの思いに向き合うような打ち上げ方だったと思います」

心の「火」は消えない

火薬を取り扱う花火。「火薬類取扱保安責任者」「火薬類製造保安責任者」の国家資格を取得し、安全への追及を欠かさない。

火薬を扱うため「危ないから離れて、というものが、花火だけは人を寄せるのです」

安全第一、万が一ということをいつも考えながら仕事をしている天野さん。

「今は『ついに、この時代が来たか』と現実を受け止めています。360年続く鍵屋の歴史では、今と同様なときを乗り越えています。花火大会が中止になっても次につなげる、という使命も15代目当主の役目。覚悟ができているので今を受け止められる。鍵屋15代目として今何ができるか考えています」

花火大会でよく耳にする「たまや~」の玉屋は、もともと鍵屋の暖簾分けで誕生したが、一代で廃業になった。

鍵屋の屋号が今でも続いているのは有難いことで、代を受け継ぎ、後世に繋げていくものとして双肩にのしかかったプレッシャーはありますが、それが暖簾の重みだと思います」

2020年は、日本各地で消えてしまった花火大会の「火」。
しかし、江戸時代からの伝統を守り受け継ぐ鍵屋は、コロナ禍にあっても人々の心の火を灯し続けている。
来年以降、再び夏の風物詩を楽しむ日常が戻り、夏の夜空に昇る打ち上げ花火を見上げたら「かぎや~」と感謝を込めて叫びたい。

天野安喜子(あまの・あきこ)

1970年10月31日生まれ。1993年文理学部体育学科卒。東京都江戸川区出身。
鍵屋の次女として誕生。小学1年生の時に父・修さんが「富道館柔道天野道場」を開いたのをきっかけに柔道を始める。共立女子高へ進学。86年の福岡国際女子体重別柔道選手権大会では日本代表選手として銅メダル獲得。
2008年に北京五輪柔道競技の審判員に日本人女性で初めて選ばれるなど、柔道界での活躍も続いている。
2009年、本学大学芸術学研究科芸術専攻博士後期課程修了、博士号(芸術学)取得。