まさか自分が母校で講演するとはね(笑)。
“異端児”ですからね、僕は(笑)

愛読するのは山本周五郎と司馬遼太郎。「人情」と「男のロマン」。いかにも和田さんらしい
王道のクラフト、「THE軽井沢ビール」――。世界的日本画家・千住博画伯の作品を缶のパッケージにした、その斬新で洗練されたブランドイメージと、さっぱりとしたのどごしと爽やかな香りは、高原の軽井沢ならではの涼やかさをたたえた、優雅で心地よい味を漂わせる。人が感じる“心地よさ”を追求し、サラリーマン時代には、洋菓子コンクールに出品する職人たちの命を懸けた世界に圧倒され、「この職人たちと付き合っていこう」そう決心して、海外から製菓向きの洋酒を輸入し、後に国内でこだわりの自社製品も造りはじめた。そこから、クラフトビール造りに辿り着くまでに要した年月は、実に44年。その間に、ドーバー洋酒貿易(株)と軽井沢ブルワリー(株)を、一代で築き上げた実業家・和田泰治さん。本人曰く“異端児”という、その半生に迫ってみたい。
終戦からの新たな出発
1945年8月15日。
当時、小学校1年生だった和田さんは、生まれ育った群馬県高崎市から離れた郊外で、終戦を告げる玉音放送を聞いた。
知る人ぞ知る、陸軍歩兵第15連隊の所在地であった軍都・高崎は、米軍から狙われ、空襲対策で市民は皆、郊外に疎開していた。
「親父は戦後、それまでやってきた事業はすべてゼロになりました。昭和20年に祖父が他界し、兄は19歳で戦死し、息子は小学生だった僕だけになりました」
事業家として飛ぶ鳥を落とす勢いだった父親は、戦前、陸軍や外国を相手に、満州にまで足を伸ばして手広く拡げていた。
「一度、満州に連れて行ってもらったことがあるんですよ。それも飛行機で行った」
幼少期に体験した異国情緒に心は躍った。
「明治生まれで、大正、昭和と国を越えたスケールで仕事をする親父が、羨ましかったですね」
しかし、一変、敗戦でゼロからのスタート。

客商売のコツは「心地良い話をすること。ちょっとした思いやり」
それでも、家族を食べさせていかないといけない。
「それからは、家で運動具店、靴屋、福神漬け屋もやっていました」
商人はいつの時代も逞しい。
和田さんは、学校から帰ると、父に言われて店番をするのが日課だったという。
「学校に行くとね、市内から来たっていうので標準語使っただけで、随分といじめられましたよ。でも、家に帰ると店番でしょ。店番にきたら本領発揮(笑)。楽しい。飯なんかロクすっぽ食べている暇が無いような少年時代でしたけど、そこで楽しみながら、知らず知らずのうちに、商売のコツを覚えたんでしょうね。自分でもよく分からないけど(笑)」
“門前の小僧習わぬ経を読む”
“門前の小僧習わぬ経を読む”とはよく言ったもの。店番を任されると、そのうちどんな客が商品を買っていくかが、だんだん分かるようになってきた。毎日やっていると、店に入ってきた瞬間の雰囲気で、その直感が当たるようになった。
「こればっかりは、教えようがない(笑)」
商売の面白さに目覚めた和田さんは、地元の中学を経て、高校は商業高校を選んだ。
「だから、大学に入るなんて考えてもいなかった。ところが、ね」
和田さんにとって、人生最初の転機となったのは、高校から始めた部活動の「剣道」だった。
インターハイ(全国高等学校総合体育大会)がまだない時代、会津若松で行われた前身の全国大会で、見事に個人戦で優勝を果たした。
その試合に新人勧誘で来ていた、ある大学剣道部から声が掛かった。
「それはもう嬉しくてね。試験ナシで大学に入れるって。でも、親父は慎重でね。先方から提示のあった学部がことごとく気に入らなくて。『経営学部はどうか?』と言われた時には『経営は私が教えます』ってね(笑)。もうあのときは親父の口を塞ぎたかった(笑)」
決定打となったのは、「もし息子さんが剣道を辞めたら、大学も辞めてもらうことになる」という一言だった。
「親父もショックだったんでしょうね。どうも話が違うな、と。結局、それで断った(笑)。でも、僕はやっぱり大学に行きたいと思ってね。一般受験で入れないと思ったけど、日大を受けた」
結果は見事合格。入ったのはやはり商学部だった。
時は1958年(昭和33年)。東京では、“シンボル”東京タワーが竣工し、プロ野球に長嶋茂雄がデビューしたその年、高度成長期の真っ只中に、和田さんは上京した。
“とんち”で回避した入社試験
それから61年後の昨年、学び舎だった商学部に呼ばれて講演した。
「まさか自分が母校で講演するとはね(笑)。思ってもみなかった。異端児ですからね、僕は(笑)」
大学時代は、剣道部には入らなかったが、その“剣道”で下宿代と飯代を浮かせた。
「杉並にある剣道道場で昼間、子供たちに剣道を教えることを条件に、仕舞い湯付きで居候させてもらいましてね。下宿代タダ、飯代もタダ(笑)で。有り難かったですよ、本当に」
大学卒業後は、東証二部上場の酒造メーカーに就職した。
どうしても入りたかった会社だったが、入社前の社長面接で危うい場面もあった。
「面接が終わって部屋を出ようと思ったら、『君、身長どれくらいあるの?』と聞かれて『160cmちょっとです』って言ったら『君ね、週刊新潮のコラム、読まなかったの? ウチは170cm以上でないと入れないって』。当時、その会社のことが書いてある記事を僕も読んでたんですが、すっかり忘れてましてね(笑)」
でも「このままじゃ帰れない!」と思った和田さん。思わず言葉がついて出た。

昨年11月に本学商学部で開催された「ホームカミングデー講演会」のチラシ
「すみません! でも、お酒もミニチュア瓶がありますよね? それを売らせて下さい! バッチリ売ってきますから!」
とっさに返したこの反応に、面接会場はどっと沸いた。
「あのときの社長の『面白いこと言うね、君は』の一言で、『これ通ったかな?』と思ってたら、案の定、採用通知が来ました(笑)」
自分には作れない。でも、菓子職人たちに付き合って生きることはできる

33年前から手掛けるアルコール除菌剤「ドーバー パストリーゼ 77」は、今年、コロナ禍にあって需要が急増
「僕はね『ファーストペンギン』(笑)」。以前、あるビール会社の社長が持ち出した話が、とてもしっくりきた。「南極の氷河からペンギンたちが飛び降りる。高くて崖っぷちの氷河は命の危険が伴う。そこで最初に飛び込むペンギン、それをファーストペンギンっていって、非常に賞賛されるらしい。何事も最初というのは、確かに勇気がいることかもしれません」。ニッチな製菓用洋酒の市場で、孤軍奮闘してきた自分の姿が、極寒の地で海に飛び込むペンギンと重なった。「運が良いって言われますが、運なんていうのは、みんなあるんです。僕にあったのは、時代と経済の変化する流れの中で生きなきゃいけない、頑張らなきゃ、っていう切実な気持ちだけです」。
サラリーマンから事業家へ
念願叶って入社すると、営業マンとして、持ち前の商才を生かし成績を上げた。
新人でも洋酒の展示会に行っては、先輩社員を前に、一番の売上をみせた。そのうち仕事を任され、期待されると、人一倍働いた。
「この会社に一生を懸けて、ここで骨を埋めようと、本気で思っていました」
ところが。入社9年目の秋、突如、会社が倒産した。
「僕は営業だったから、あまり会社の経営状態は分からなかった。でも、あるとき、僕が『製菓(菓子やケーキ)用の洋酒をやりたい』と社内で奔走していると、総務の課長さんから『和田さんね、変な話だけど、会社の金で独立するの?』って言われた。驚いてね。その頃はすでに会社が潰れかかっていたから、皆独立したい、転職したいんですよ。そのとき初めて『あっ、この会社にはもういられない』って思った。だってそんな邪(よこしま)な気持ちは無かったんでね。でも、会社はそこまで追い込まれてるんだと思ってね」
31歳で転職の道を選ばず、独立した。実業家だった父の勧めもあった。実際に、独立してみて、最初は何をして良いのかも分からなかったが、自分が心動かされた瞬間だけは忘れていなかった。
まだ会社が倒産する前、和田さんは、ある洋菓子コンクールの会場にいた。
そこで、自らの作品づくりに命懸けで挑む菓子職人の世界に触れ、衝撃を受けた。
サラリーマンである自分とは、まったくの別世界。見習いから始めて、ここまで辿り着いた人たちの集大成。その真剣な目つき、目の鋭さが際立っていた。
「あんな世界を見たら、狂っちゃいますよね(笑)。自分には(洋菓子を)作れない。でも、あの人たち(菓子職人)に付き合って生きることはできる」
そう思って、自分の会社「和田商事(株)」で製菓用洋酒を扱うことに決めた。決めたは良いが、何からはじめれば良いのか分からない。営業だった自分の信念を頼りに、とにかく人の3倍、4倍働いた。
「今でも社員には言いますよ。『訪問に勝る営業なし』とね」
サムライの国だからこそ
現在、社名も「ドーバー洋酒貿易㈱」と変え、直輸入洋酒を10か国33社より約250種類、パティシエのこだわりに応える自社製造のドーバーの洋酒が約250種類の合わせて500種類にのぼる品揃えは、創業から51年間、訪問し続け、顧客の声を拾ってきた証だ。
これだけの製菓用洋酒を揃える会社は、世界でも、和田さんの会社だけだ。
「僕が『異端児だ』っていうのは、製菓用洋酒っていう、他社がやっていない市場でやってきたことがありますね。大手酒造メーカーも手を出さないくらいニッチだったし、誰も成功するとは思っていなかった」
500種類の製品を扱うが過剰在庫とは考えない。
「パティシェが希望する洋酒は何でもある。洋酒のことならばドーバーに聞いてください、何でも応えます。 洋菓子技術の向上・人材育成などの業界への貢献もドーバーの大切な仕事だ。東西に講習会場を完備しており、東京本社の会場は予約が絶えない。2014年には、国際的なコンクールや試作を行うことができる会場をANNEXビルに完備した。イタリアのメーカーとの提携コンクールも毎年行っている」
しかし、和田さんにとっては、畏敬の念を持った菓子職人の人たちと仕事ができることが、生き甲斐だった。
20年くらい前には、こんなこともあった。
「フランスに1社だけ、ウチのような製菓用洋酒専門の会社があった。それがシラク大統領(任期=1995年~2007年)のアドバイザーをすると、そこの社長が会社を辞めちゃったんですよ。200年も続いた会社だった。その時、私がその社長から言われたのは、『サムライの国、日本で(自分たちのやってきたことを)続けて欲しい』ということ。」

洋酒だけでなく和酒も開発(右・紫蘇)。濃縮果汁のノンアルコールも(左の3本)
そのとき、和田さんは「確かに(自分たちなら)できるかも知れない」と思った。
「なぜなら、日本人は侍が持つ刀ひとつ取っても、拵(こしら)えから、鍔(つば)から、刀身はもちろんのこと、全部魂込めて作る。ただ殺傷するためだけの武器を芸術品の域にまで昇華させて、際限がない。どこまででも高めていくんです」
和田さんが陶酔した菓子職人も同じ。これで良いという限界がない。甘くて美味しいのは当たり前。その当たり前をどこまでも追求するのが、菓子職人たちだった。
「でもね」
独特の世界だけに、身内にも理解してもらえないこともあった。
独立したばかりの頃、父親が高崎から上京して来た。
「僕がラム酒を抱えて『今日は千葉の市川のお菓子屋さんに行って、半日いない』って言うと、『そのお菓子屋さんは、(ラム酒)一本をどれくらいで使うんだ?』と聞くから『1、2か月くらいかな』と返答すると、親父が愕然としちゃったんですよね(笑)」
明治生まれで、大正、昭和と生き抜き、地元・高崎にデパートビルを建てたほどの事業家だった父にしてみると、和田さんのやろうとしていたビジネスは理解できなかった。
「確かに親父からしてみたら、スケールが違いましたから、その一件以来、もう相手にしてくれない。逆に『お前、仕事っていうのは頑張れば良いってもんじゃない』と諭されましたよ(笑)」
名脇役が挑んだ主役への道
それでも、和田さんの情熱は、揺らがなかった。大手が振り向かない、一滴、二滴の市場を、少しずつ拡げていった。今では、国内の洋菓子店の8割以上の店が、ドーバー洋酒貿易㈱の製菓用洋酒を使っている。
「僕は一滴、二滴でも毎日出ていればいいんです。洋菓子店は店のシャッターを開けるたびにケーキを作りますから」
今なら天国の父上も納得してくれるのではないだろうか。
「父には本当に感謝しています。独立してまだ先が見えないときに、父が厚木に土地を買ってくれたおかげで、のちに工場を建て、製菓用洋酒製造ができて、今があります。でも、(事業の成功を)生きている内に見せてあげたかった。あの世に行ってから懺悔します(笑)」
菓子職人の世界に憧れ、寄り添ってきた半世紀。

千里の道も一歩より。圧倒的なシェアを誇る今も変わらない
国内大手洋菓子メーカーから、コンビニエンスストア、高級洋菓子店、街の洋菓子店に至るまで、隠し味としての洋酒を扱う「ドーバー」の名は、業界では知らない者はいないところまできた。
「あくまで製菓用洋酒は『縁の下の力持ち』です」
自らその役を買って出たことに後悔はない。しかし、その想いとは裏腹に、いつしか消費者から直接評価がもらえるリテール市場で“自分のブランドを造りたい”という想いも膨らんできた。
では、何を作るか。これまで洋酒を扱ってきた和田さんは、考えた。
「ワインは僕には凝り過ぎてみえた。ビールなら大手4社はあったけども、地ビールであれば面白い。ちょうど1994年に酒税法が改正されてから、規制緩和により全国に350社を超える地ビールメーカーが誕生したんです。その頃から『いつかビールを造りたい』という想いが膨らんできた」
それから和田さんがビールを造るまでに、20年の歳月を要した。
いつの時代でも、“情熱”と“着眼”があれば、
一騎当千(人並優れた勇者のたとえ)できる

社長室の椅子の上には、「士魂商才」と書かれた額。かの出光佐三も好んだ理念だ
和田さんの話には、格言が沢山出てくる。
「人はね、頑張ってますね、と言われても嬉しくない。言うなら、活躍してますね、とか」
「配慮された言葉ひとつで、決して貧乏はしない」
「お笑いタレントじゃないんだから、提供するのはお笑いじゃなくて、心地よい話」
確かに、その通りだ。
「軽井沢」と「千住博」
「僕は諦めが悪いんです(笑)」
極寒の冬を越えて、春先、浅間山頂から一滴、二滴と筋をなして溶け出す雪解け水が、やがて和田さんが立ち上げた「軽井沢ブルワリー(株)」のクラフトビールブランド「THE軽井沢ビール〈浅間名水〉」となっていった――。
「軽井沢は避暑地があって、日本中で知らない人がいない。首都圏にも近く、気候が良くて、水が美味しい。しかし、念願の軽井沢には条例があり、パチンコ店と工場は出来ない。そのため江戸時代から清酒の酒蔵が13蔵あり、浅間伏流水に恵まれた佐久市に工場を建設した。軽井沢の住民は20,000人ほどしかいないのに、毎年、夏だけで600万人以上の観光客が押し寄せる。クラフビートビールをやるなら“ここしかない”と思いました」
そして、もう一つ。
和田氏と軽井沢ブルワリー(株)にとって、運命的な邂逅があった。
そう、日本画家・千住博画伯とその作品『星のふる夜にWhen Stardust Falls…』である。
軽井沢ブルワリー(株)を創業した2011年、同じ年の10月に「軽井沢千住博美術館」が開館。早速、訪れた和田さんは、千住芸術の美しさと奥深さに強い感銘を覚えたという。中でもひときわ心を奪われたのが、『星のふる夜にWhen Stardust Falls…』の原画だった。

作中、一切言葉が書かれていない千住博画伯の描いた絵本「星のふる夜に When Stardust Falls…」と「THE軽井沢ビール」
そのときの心情は、軽井沢ブルワリー(株)のホームページの中の 「ブランドストーリー/運命的な名画との出会い」 でも触れている。「この美しい家族愛の絵画をラベルに描いたビールを届けることができたなら、どれほど幸せなことだろう。私たちが造るべき真のプレミアムビールの夢の姿が、まぶたにまざまざと浮かんだのです」
その想いが通じ、世界的画家・千住博画伯の絵は、「THE軽井沢ビール」のパッケージとなった。
そこからさらに2年後の2013年に、上信越自動車道・佐久ICから車で1分の立地に自社工場を据え、本格的始動した。千住画伯の名画と造りたてビールが楽しめる工場は首都圏からの交通至便もあり、旅行会社の団体ツアーも人気で開場6年後には来場者数が5万人に達した。
クラフトビール、二つのテーマ
「やってみると色々と分かってくる。それまで年間で200万ℓだったビール製造認可が一気に6万ℓまで引き下げられたから、日本中で地ビールメーカーが誕生した。参入しやすくなったんだけど、やっぱり酒税は大きいから、普通に考えれば、大手メーカーのように量産しないとビジネスとして成立しづらい」
そこで考えたのが、利益率が高くなくても、息長く続けられるビール造り。宣伝費を使わず、とことん品質にこだわって、世界最高級の原材料と、大手にも負けない工場の蒸留器や濾過機などの高性能コンピュータ装置に投資した。
こだわりは容器にも及ぶ。イタリアより輸入した手で開けられるツイストキャップ、2度のフロスト加工により軽井沢の高級レストランにも相応しい瓶に仕上げた。精魂こめてデザインされた缶・瓶はすぐに捨てるには惜しい。
「僕がテーマにしているのは、“いつまでも何杯でも飲みたいビール”であり、“最後まで残るクラフトビール”にすること。”だから、美味しいビールを造るためには、惜しみなく良い原材料と時間を使いましょう、と入社してくれた匠(たくみ)たちと話しています」
現在、軽井沢ブルワリー(株)には、大手メーカーからきた3人の熟練ブルワーと、プロパー4人の国立大学卒の博士、修士が醸造を担っている。
まさにクラフトマンシップにこだわった、ものづくりの原点。
「自分のブランドを造りたい」と想い描いた和田さんの夢は、ついに実現し、着実に成果を出し始めている。
発泡酒の免許も下りた今、今年4月には缶のパッケージにもセンスの光る新商品を開発した。
「僕はデザインにも『人がどんなデザインだったら喜んでもらえるか?』を考えています。千住画伯の作品を使わせて頂いたのも、すべては『心地よいモノは何だろうか?』という、私の商人としての原点にある」
小学校から店番で養った人の心の機微を感じ取る才能と、実業家だった父譲りのビジネスに対するDNAを受け継いだ和田さんは、商人でありつつ、職人の感性をリスペクトし、尊重できる、類稀な実業家となった。

新商品「軽井沢 香りのクラフト 柚子」。9月に行われた「ワールド・ビア・アワード」で金賞を受賞。香料無添加、天然の柚子果汁だけでこだわりの香りを再現
「美しい味」を求めて。これからも
この日、取材前に、本学校友会の社長会があった。そこで和田さんは、名誉顧問に就いたそうだ。
「自分は取材を受けるような立派なことはしていない。でも、体験談ならお話しできる」
インタビュー冒頭も、そんな謙虚な言葉で始まった。
「座右の銘は、『深慮遠謀』。深く思考を巡らせて、遥か先のことを見通して計画を立てる。思いつきでバッといかないことですよ、遠くをみて考える力がないといけない。国難と言えるコロナ禍の終息を願い増産を続けているアルコール除菌剤は34年の歴史を有す製品だ。2004年からは南極観測隊に連続採用されているのです。食中毒を起こさず隊員の健康維持と国家事業へ貢献できていることは誇りです。こうした長年の実績と品質への信頼が時代を超えて選ばれる製品となっています」
今の若者にも知ってほしい、そう和田さんは言う。
「いつの時代でも、“情熱”と“着眼”があれば、一騎当千(人並優れた勇者のたとえ)できる。何でもいいから、“情熱”と“着眼”をもって諦めなければ、きっとできる。何せ、僕が言うんだから間違いない(笑)」
◇ ◇ ◇
工場完成時、玄関ホールの千住画伯の代表作「ウォーターフォール」を展示した時にテレビのインタビューが行われた。その際千住画伯と和田さんとの関係についての質問に、画伯がこう答えている。
「和田さんの『美味しいビールを造りたい』という志は、
『美しいものを描こう』という私の志とベクトルがまったく一緒でした。」
画伯の名言に感動した和田さんが、美味しいビール造りに懸ける想いを強くした瞬間だ。
続けて、千住画伯が語る。
「人は美しいものに触れると、生きていてよかったと思う。
食もそうです。『美しい味』と書いて『美味しい』と読む。
『美味しい』と思うとき、やはり人は、生きていてよかったと思う」
「美しい味」を求めて、製菓の世界から、ビールの世界へ。
和田さんが生涯を懸けて追い求めてきた心地良さは、
「美味しい」と思う瞬間と、それを分かち合う瞬間、ではなかったろうか。
お菓子の話をしていたとき、こんな話がこぼれた。
「一回覚えた美味しさっていうのは、特にケーキっていうのは、家族だんらんのお菓子ですからね。クリスマスでも誕生日でも、みんな『おめでとう』と笑顔になる楽しい仕事。その家庭で好まれる美味しいものっていうのが、大切なんです」
和田泰治(わだ・やすはる)
1938年5月19日生まれ。1961年商学部商業学科卒。群馬県高崎市出身。
小学校1年生で終戦を迎え、父親の家業を手伝うことで商人としての才覚を養う。高校は県立高崎商業に進学。剣道を始め、全国大会個人戦で優勝。一般入試で本学商学部に入学し、卒業後の1961年、東証二部上場のモロゾフ酒造(株)に入社。突然の会社倒産により独立。
1969年和田商事(株)(のちのドーバー洋酒貿易(株))を設立。製菓用洋酒という新たな市場をつくる。2011年にはクラフトビール市場に参入し、2013年「THE軽井沢ビール」販売開始。現在では、製菓用洋酒500種類以上、クラフトビール常時10種類以上を扱う。