
自身「頼まれたら断らない(笑)」と受けた結果が、世界的な一大イベント、オリンピックまで関わることに
2020東京五輪マラソン・競歩を成功させ、2030年を目指す冬季五輪札幌大会へと 弾みをつけたい
今から約1年前の2019年10月16日、オリンピックの主催団体である国際オリンピック委員会(IOC)は、2020東京オリンピックのマラソン(以下、東京五輪マラソン)と競歩の会場を、札幌に移す案を発表した。北海道陸上競技協会(道陸協)会長でもある八田氏も「最初は耳を疑った」。道陸協だけでなく北海道マラソンの大会組織委員会大会長も兼ねる八田氏だけに、その役割は大きい。本職は北海道議会議員(4期目)にして、本学校友会小樽支部支部長も担う。昨年は自民党北海道支部連合幹事長にも就任した。「物事を決めるのは政治の世界」と幼少期から想い続けた政界に身を投じて早17年。党道連内の人気も高く、次期参院選候補者にも推挙の報も。地元・小樽と北海道をこよなく愛し、「スポーツを通じた地域活性化」を唱える元中距離ランナーの走りは、真っ直ぐと力強い。
大人気漫画「ゴールデンカムイ」の舞台にも
「明治末期 港湾都市として発展し『北のウォール街』と呼ばれる金融都市であった小樽
北海道一の商業都市であったが街のすぐ背後には豊かで広大な森と山が広がっており…」
明治末期の北海道を舞台にした大人気漫画「ゴールデンカムイ」(1~23巻連載中=累計発行1,400万部)の序盤に登場する小樽は、この第3話の出だしにもあるように、明治末期から北海道一の銀行街だったそうだ。
元々は、北海道中の石炭を積み出す港として栄え、鰊(にしん)漁も盛んで、江戸末期から明治に掛けては、日本一の漁獲高を誇り、あちらこちらに“鰊御殿”が立ち並ぶほどだったという。
そして、何より、ロシアを始めとする海外との貿易港としての役割が大きく、併せて為替・保険などの必要性から、金融機関が次々に支店を設けた。
「この建物は日銀(正式名称は日本銀行小樽派出所)でね。今は資料館になってるんですよ」
インタビューが終わり、写真撮影の段で、「せっかくだから」と、小樽運河を望む撮影スポットとして有名な浅草橋街園で撮らせてもらった帰り道、今回の“スポーツを支える人”八田盛茂さんは、嬉しそうに話してくれた。
「この先に天狗山って山があって、昔はそこに20mくらいのジャンプ台があってね。よく遅くなるまでジャンプして、そのまま家まで滑って帰ってましたよ(笑)」
港町にして、山もすぐそこに拡がる、小樽。“山坂の街”とも呼ばれる所以だ。
八田さんが物心ついてから、ずっと住み続けている、こよなく愛する街、小樽。小さい頃からその山坂とスキーで鍛えられた八田さんの足腰は自然と強くなり、運動会でも先ず負けたことが無かったそうだ。

小樽の街を見下ろす天狗山は標高532.5m。年間通じて展望台や冬はスキー場として賑わう
好きだったのは「走ること」と「政治の世界」
地元の中学に入っても、陸上競技部に入部して、短い距離から長い距離まで、何でもやった。
「とにかく不思議と走るのが好きだったんですよね」
一方で、同じく小さい頃から、政治の世界にも興味があった。
聞くと、理由は明快だ。
「私の大学時代に、政治好きの父親が市議会議員に当選してね。当選するや6期の任を果たして、最後は議長までやった」
幼稚園の時から後援会を手伝っていた父に付いて回り、選挙事務所で大人たちに交じって育った盛茂少年が、政治の世界を身近に感じて“いつか自分もなる”と自然と思えたのも、納得できる。
ましてや、血は争えない。
母方の祖父が村議会議長、伯父が村長、父方の祖父も村会議員、伯父も村長と、小さな村とはいえ、家系の男たちが村の大事を話すのが八田家の日常だった。
しかし、単に人の上に立つことに憧れた訳では無かった。
「昔から学級委員長とか生徒会長とかが嫌いでね、一度もやった事は無い(笑)。スポーツも陸上で個人競技。元来、我が道を行くタイプだった」
自分が好きな事を精一杯やる。陸上も政治も、八田さんには同じだった。

地元の「おたる潮まつり」に参加する八田さん(「八田もりしげ」オフィシャルサイトより)
「好きこそ物の上手なれ」
大学進学となった時に、叔父が要職に就いていた、道内でも有数の優良企業であった「ホクレン」に入りたくて、そのための勉強をしようと、本学農獣医学部(現・生物資源科学部)食品ビジネス学科に進んだ。
そこでも好きだった陸上競技を部活に入って続けると、初めて自分の適性を見抜いて言ってくれる教師がいた。
「体育の稲垣治之先生が、僕の走りを見て『お前は、中距離向きだ』と言って、それから400mと800mに絞りました」
2年生時には、大阪・長居陸上競技場で行われた全日本医歯薬獣医大学対抗で、400mの全国6位に入賞した。
「レースではね、中盤までは真ん中ぐらいにいて、残り80mでスパートするんですよ!その駆け引きが面白かった」
懐かしそうに、熱の籠った語りの中にも、“好きな事を続けていれば、いつか結果もついて来る”
そんな、太い樹の幹のような信念が、八田さんの言葉には込められている気がした。
「キャンパスは藤沢に1年、三軒茶屋に3年通って、本当に楽しい大学生活でしたね」
その後、故郷に帰った八田さん。この時は、まさか自分が北海道の陸上競技団体のトップに立ち、世紀の大イベントの成功を担う立場になるとは、思いもよらなかったに違いない。

郵政局員から局長になるも「いつかは政界に」の信念に基づいて、道議会議員に立候補し一発当選
(政治家になると言えば)父には、
てっきり喜んでもらえると思ってたら(中略)
逆に怒られました(笑)
ひょんなことから、地元の郵便局に勤めることになった八田さん。人との繋がりを感じるには、これ程適した職も無い。結果、四半世紀の時を経て、道議会議員に立候補した時にも、同僚たちや顔見知りの人たちがこぞって応援してくれ見事当選。同じ議員だった父には反対されたが、今では天職だと自分でも思っている。人に恵まれ、縁に繋がれた使命を全うするのが、我が道と。
郵便局長から政治の道へ
本学を卒業し、小樽に戻った八田さんだったが、当初狙っていた就職口ではなく、国家公務員の道を選んだ。
「ご縁あって北海道内の郵便局長会でも有名な方から『お前、受けてみろ』と言われて受けたら合格できた。公務員になったんだったら、そっちで飯食おう、そう思って」
郵政局員となった。23歳の秋だった。
それから勤続25年間の事を、のちにインタビューでこう振り返っている。
「郵政事業は、身近で便利、安心で親しみがあり、地域密着。こんなに強味のある事業はないと思っています。(中略)自分の礎を培ってくれた郵政事業、組織にはひとかたならぬ愛着があります」
後半の10年は特定局長として、最後は小樽最上郵便局長としてファーストキャリアを終えようと、父にその胸の内を話した。ところが。
「あれば意外でしたね。『親父と同じ政治家になる!』って言えばてっきり喜んでもらえると思ってたら、『(今の仕事の)何が不満なんだ!?』と逆に怒られましたから(笑)。今思えば、親父は私に苦労させたく無かったんでしょう。ほら、政治家ってどこに行っても頭下げているイメージでしょ(笑)」
それでも、八田さんの気持ちは揺らがなかった。
父の背中を見て“自分のいつかは”と想い描いてきた政治の世界に向かって、突き進んだ。
時は2005年(平成17年)。道内ではこの年、知床が世界遺産に登録され、前年にはプロ野球の日本ハムファイターズが札幌に本拠地を移していた。38歳の秋だった。
「あのとき、大学4年の時に車の免許取って、帰省して親父の運転手をしていたことが生きました。父の後援会の有力者の人たちが(小樽の)どの辺りに住んでいるか、大体、覚えていましたから」
「将来政治家になりたい」と周囲に「ぽつらぽつらと」話していくと、徐々に声が掛かり始めた。

郵政局員から局長になるも「いつかは政界に」の信念に基づいて道議会議院に立候補し一発当選(「八田もりしげ」オフィシャルサイトより)
初出馬にして当選し4期目突入
本学校友会の小樽支部長になったのは、翌年の春のことだった。
「当時、市長の山田市長(勝磨/1999-2011=3期)や市議会議長も日大出身者でしたから、周囲からもてはやされました(笑)」
現在、200人弱の小樽支部も、政界、財界、医学会など、会員の職種は多岐に渡り、有力者が多い。
「そうした方々の後押しも受けて、2007年(平成19年)に出た初めての選挙で、運良く当選することができました(笑)」
先ずは父と同じ市会議員から、と思っていた矢先に、もう一つ上の道議会議員の選挙がタイミング良くあった。
「なぜがあの時は不思議と“当選する”と思ったんですよね。無所属だったんですが、とにかく運が良かった(笑)」
地元出身の元郵便局長とは言え、政党のお墨付き無く当選するのは、並大抵のことでは無い。
国家公務員だった時から、わずか一年半で、憧れの議員バッジを付けた。
それにしても、八田さんは、良く笑う。インタビュー中も、写真撮影の時も、とにかく、周囲も笑いで包み込む。
笑う門には福来る、とは昔の人は良く言ったものだ。
2007年4月、見事に、一発当選を決めてからは連続当選で、昨年2019年4月で4期目(任期4年)に入った。

本学校友会北海道支部総会にて
昨年は議員とは別に、大役が回って来た。北海道マラソン組織委員会の大会長だ。
「(東京五輪マラソンと競歩が札幌に決まった時は)青天のへきれきでしたが、聞いてみると、IOCのバッハ会長や理事の方々の札幌に対する評価が、とても高かったのが嬉しかったですね」
五輪の目玉競技が札幌開催に決定後、すぐさま道内でも「北海道マラソン」の主催である、北海道、札幌市、北海道新聞、そして道陸協の関係4者が“オール北海道”での連携を確認した。
日本記録保持者が男女8人
東京五輪マラソンのコースは、北海道マラソンをベースに、スタート地点の大通公園を周回後、前半は市中心部約20kmを1周し、後半に前半の北側半分の約10kmを2周する変則的な3周コース。
「コースは北海道大学の銀杏並木、クラーク像、道庁赤レンガ建築など、美しい札幌の街を世界に放映できる事は、とても嬉しいですね」
思いがけない流れで、自身も陸上競技は中学から大学まで、ずっとやって来た事が、いつの間にか、世界最大のスポーツ祭典で大トリとなる競技を司る立場にまで繋がった。
「きっかけは、陸上競技協会の会長になったこと。副会長だった2017年に、前会長の岡部壽一名誉会長から『やってもらえないか?』とお声掛け頂いて、お受けしました」
北海道陸上界は、これまでも国内有数のトップアスリートを生み出して来た。
男子では、北京五輪男子400mリレー銅メダリストの高平慎士さん(2017年引退・旭川市)や十種競技の日本記録保持者の右代啓祐選手(江別市)、日本でまだ3人しかいない100m9秒台の一人である小池祐貴選手(小樽市)など、他にも現日本記録保持者が3人もいる。
女子でも、個人で100m、200mの日本記録を保持する国内史上最速のスプリンター・福島千里選手(中川郡幕別町)や同じく日本記録を持つ100mハードルの寺田明日香選手(札幌市)、そして、今春本学を卒業したやり投げ日本記録保持者の北口榛花選手(旭川市)ら、錚々たる顔触れだ。
「北口選手はたまたまご両親がウチの事務員さんと仲良くてね(笑)。お父さんが地元・旭川のホテルでパティシエをやられていて、厚別(公園陸上競技場)で試合のある時には、必ずご両親が来られて応援されてますよ。私も日大の先輩なんで(笑)、写真撮ったりね。頼もしい後輩です」
来年の東京五輪に向け、一人でも多くの道内出身者を出したい、というのは、八田さんが会長になってかねてから口にしてきた言葉だ。
「だからこそ、その環境を整えるのが私の仕事」
とも。
そのためには、現在行っている「普及」と「強化」、この二つの活動が重要だと言う。

撮影中には終始冗談を飛ばしてご本人も笑う。不思議とこの笑顔とトークに引き込まれている
スポーツにはすごい力があるんですよね。
だから、学生にもそれを伝えたいんです
日本陸上界にあって、数々のトップアスリートを輩出してきた北海道。八田さんは、その流れを途切れさせぬよう、継続的な選手育成・強化を担うことになった。さらに国内でも参加者数で10傑(2019年=21,255人)にも入る、33年の歴史を誇る北海道一の名物レース「北海道マラソン」の大会長として。また、“スポーツを通じた地域活性化”を掲げて、来年行われる予定の東京五輪マラソン、競歩も開催地の代表として先頭に立って指揮を執る。御年63歳、まだまだ意気軒高だ。
陸上競技の「普及」と「強化」
2017年に道陸協会長となった八田さんが掲げる普及活動のスローガンは、「北海道から世界へ」だ。
冬のスポーツが盛んな北海道にあって、陸上競技を選んでもらうためには、中学からでは遅い。
小学生のうちに、競技に参加してもらえるよう、これまで全道大会だけでなく、道内11地区でも小学生向けの陸上教室や記録会を積極的に行ってきた。
それが、先のオリンピアンや日本記録保持選手たちにとっても、最初の登竜門になってきた。
「北海道はアスリート素材の宝庫。その素材をいかに陸上競技に引き込み、育てるかが重要なんです」

小樽運河ロードレース大会にて(「八田もりしげ」オフィシャルサイトより)
一方で、強化活動の対象は、中高生。
豊富な陸上競技専門の教員を中心に強化委員として、選抜選手たちを、中学生は強化合宿で、高校生は春・秋の沖縄合宿で指導しているという。
普段の部活顧問の指導だけでなく、こうした種目専門教員の指導を受けてきた結果、ここ数年は、毎年インターハイチャンピオンを輩出している。
3年後の2023年には、全国高校総体の開催も決まっている。
「2023年は今の中学2、3年生が主役となります。北海道選手が多く表彰台に立てるよう、強化施策を行います」
と鼻息は荒い。
ただ、課題もある。
道内には、他県にあるような総合運動公園が少なく、会場確保のハード面に頭を悩ませる。
高校総体では、陸上競技においては、札幌駅から車で30分弱にある厚別公園陸上競技場を使用する予定だ。
「他にも、競技役員(審判員)の方々の高齢化も深刻です。以前のようにボランティアを募集するだけでは人数は足りませんから、発想を柔軟にして、取り組んでいかないといけません」
道陸協でも、求められているのは、物事を決めるいわば“政治”だ。
スポーツで「北海道から世界へ」
数多くの肩書を持つ八田さんは、道陸協だけでなく、これも縁あって、請われて本学のスポーツ科学部の講師や東海大学の国際文化学部の客員教授としての顔も持つ。
教鞭を執る際には、常に説くのが、
“スポーツを通じた地域活性化”だ。
「スポーツにはすごい力があるんですよね。だから、学生にもそれを伝えたいんです」
具体的には、こうだ。
「例えば、私が大会長を務める北海道マラソンは、その経済効果だけでも約25億円と言われています」
真夏に行われる北海道マラソンは、既に国内外のランナーにとってもブランド化しており、世界大会や五輪の選考レースとしても注目されている。
また、経済効果もさることながら、昨夏、過去最多となる13,457人の完走ランナーたちの味わった達成感や感動は、計り知れない。
ましてや、東京五輪マラソンでは、北海道マラソンをアレンジしたコースが「東京五輪マラソンコース」として誕生する。
「札幌開催が決定した以上、またとないチャンスとして、全力で大会成功に向けて取り組む所存です。全世界で放映され、注目されるだけに、最高の環境・コースを提供し、アピールしたいですね。また、五輪コースは、後世に受け継がれる“五輪レガシー”として維持し、現状の北海道マラソンを更に進化させた大会になるよう繋げていく予定です。こうしたことが、北海道に元気を与えることができると、確信しています」
マラソン大会、という一つのコンテンツで、インバウンドも期待できるのだ。実際に、北海道マラソンへの海外からの参加者は、年々延びている。
道内、国内はもちろん、海外に、“Hokkaido”、“Sapporo”の名が知れ渡ること。これぞ「北海道から世界へ」を地でいく、地域活性化の最たる例だろう。

1987年にわずか439人のエントリーで始まった、33回の歴史を誇る北海道マラソン(大会公式サイトより)
大切にしてきた祖父からの教え
そんな八田さんには、政治家になる前から心に決めていることがある。
「いつからか、『初心忘るべからず』っていう言葉が、自分の信条になっています。祖父から言われて、ずっと大事にしてきました」
政治の世界に魅せられた幼少時代から、自身の夢を叶え続けている理由には、こうした愚直な姿勢があってこそ。だからこそ、熱い想いが実を結んだに違いない。
信念があり、明るく笑いが絶えない八田さんの周りには、毎日、沢山の人が集まって来る。インタビュー中にも。
「ごめんなさいね。ちょっと(電話)良いですか?」
そう言って、地元の支援者なのか、人懐こい北海道弁で話す姿は、飾らない人柄が滲んで、大先輩ながら何とも微笑ましい。
「いや今日は日大の取材なのよ、ほら、この人たち皆んな広報紙の人たちさっ」
写真撮影に行く道すがらも、止まっていた車中に知り合いの本学校友会会員を見つけると、近寄って行って当たり前のように話し掛ける。こんなおおらかで陽気な性格は、やはり北の大地が育んだものなのだろうか。
家族は、奥様とお嬢様がお二人。今は二人とも嫁いで、愛する妻と犬と、小樽市内に暮らしているそうだ。
「小樽はね、年間700万人以上の観光客が訪れる街なんです。札幌、函館に次いで、多い。北海道が『食と観光の地』と呼ばれていますが、小樽もそのまま同じことが言える」
札幌にも車でも電車でも1時間足らずで行ける港町も、コロナ禍が去ったなら、来年の東京五輪マラソンと競歩の前後には、国内外から大勢の来訪者が予想される。
レース当日には、札幌市内のコース沿道には多くの地元民も駆け付けることだろう。
間近で観る五輪と世界最高峰のランナーたちのレース。
その群衆の中から、未来のオリンピアンも生まれるかもしれない。
そんな選手たちに、どんなメッセージがあるのか、最後に聞いてみた。
「日々の練習を怠らないことですよね。本番では、練習で辛かったことを思い出して、“これまでやったんだから大丈夫”と平常心で戦って欲しいですね」
「自分なんかが言うことでも無いんですが」と、添えたご自身の立ち位置、スタンスは、終始、気負わず、偉ぶらず。いやはや、末は国会議員か閣僚か。小樽が生んだ政治家・八田盛茂さんの真骨頂、ここに見たり。
八田盛茂(はった・もりしげ)
1956年(昭和31年)12月27日、北海道虻田郡真狩村生まれ。3歳で小樽に移住。
幼少期からスキーが得意で中学、高校(余市高等学校)では陸上部に。大学は本学生物資源科学部食品ビジネス学科に進学。
1970年、大学卒業後、地元名士の勧めを受け、国家公務員資格を取得し、郵政職員となる。1995年には特定郵便局長となり、10年間勤め上げ、退職。2年の充電期間を経て、市議会議員から最後は議長まで務めた父の背中を追うように、自身は北海道議会議員に立候補し、初当選。以来、現在で4期目。
自民党北海道支部連合幹事長、北海道陸上競技協会会長、北海道マラソン組織委員会大会長ほか兼任。