バスケットボール界のレジェンドとして知られる折茂武彦さん。レバンガ北海道の創設者だ。

「考え、工夫し、実行する」ことを日大で学んだからこそ、49歳までプレーできたのです

2016年に開幕した男子プロバスケットボールリーグB.LEAGUE(以下、Bリーグ)。音響や演出など各クラブがエンターテインメント性を高める工夫を凝らし、新たなプロスポーツとしての地位を確立している。Bリーグ1部、B1の激戦区と呼ばれる東地区で戦うレバンガ北海道で代表を務める折茂武彦さんは本学OB。バスケットボール界のレジェンドとして49歳まで現役生活を続け、今年からクラブ経営に専念している。北海道の地でバスケットボール人気を根付かせ、熱を日本中へ拡大させたい。その夢を追い求め、毎日を駆け抜けている。

日大進学の理由は “日本一になりたい”

 埼玉県出身。バスケットボールは中学校から始めた。埼玉栄高校ではインターハイでベスト8へ進出。1989年、強い意志を持って八幡山の桜の門をくぐった。

「高校時代、県内では勝てましたが、全国的にはそこまで強豪ではありませんでした。もっと強いチームで自分を試してみたい。そして日本一になりたい。それが日大を選んだ理由です」

 当時、日大バスケットボール部はインカレ優勝回数がトップ。日本中の高校からトップ選手が集う、紛うことなき強豪であり名門である。それだけにレギュラー争いもし烈を極めた。

折茂さんは高校時代、ビッグマンと呼ばれる主にゴール下でプレーする、身長の高い選手が務めるポジションだった。しかし同学年に同ポジションで全国優勝を果たした高校から入学した選手がいた。試合に出るため、折茂さんは違うポジションに移る決断をする。

リモートでの取材に笑顔で対応してくれた折茂さん。バスケットボール界のレジェンドは「周りに助けられてここまできました」と控えめに語った。

「そこで最初の壁にぶち当たりました。これまでとはまったく動きの異なるポジションでプレーしないといけなくなったのです。しかしそこでも部内の競争に勝ち残らないと試合に出られない。練習でいかに自分の能力を高めて、他と差をつけていくか。アプローチの仕方をいろいろと試しました。バスケットボールについて真剣に考えるようになったのはこの時からです」

日大で学んだのは考え、工夫し、実行に移すこと。その後の現役生活もこの三つを繰り返してきた。だからこそ卒業後27年間、49歳までプレーができたと折茂さんは振り返る。

周囲の協力があるから 自分が生きる

もう一つ学んだことがあった。それは人のつながりの大切さ。折茂さんの入学と同じタイミングで監督に就任したのが故川島淳一前監督。川島氏はポジションを変えたばかりの折茂さんを1年生からベンチに入れて起用した。その事実は折茂さんにとって大きかった。

「自分が試合に出れば、ひとり出られない選手がいます。私は1年生でしたから、普通であれば先輩が選ばれたでしょう。しかし先輩たちは自分を応援してサポートしてくれました。感謝しかなかったですね。そして川島監督が未熟な私を期待を込めて試合で使ってくれたからこそ、今の自分がある。まさに恩師と言える存在です」

人のつながりは学内だけに留まらなかった。他大学にも心から認められるライバルが生まれ、彼らに負けたくないという思いから、より高いレベルを目指すようになった。4年時にはインカレでの優勝も果たした。折茂さんの周りには最高の仲間がいた。

学生時代に切磋琢磨した選手は盟友となり、のちに共に日本のバスケットボール界を牽引した。そしてクラブ経営を行っている今、学生時代の縁でスポンサーになってくれた企業もある。周囲の協力があるから、自分が生きる。折茂さんは現在に至るまで、この思いを持ちつづけている。

主将としてチームを牽引した4年目で悲願のインカレ優勝。決勝戦ではチーム最多の20得点を記録し、MVPにも輝いた。当時の日本大学新聞より

北海道に渡って知ったプロ選手のあり方

卒業後はトヨタ自動車に進んだ。当時は決して強豪とは言えないチームだったが、「日本代表を目指したい。そのためには試合に出られるチームを」との思いで入社を決意。2年目からは契約社員としてバスケットボールだけに専念できる立場になった。日本代表にも選出され、中心選手としても活躍。所属チームでも9年目には当時の実業団リーグであるスーパーリーグで優勝も果たした。しかし折茂さんの心にはひっかかるものがあった。

「自分はバスケットボールが仕事でしたがプロ選手ではない。その違和感がずっとありました。そんな折、2007年から北海道に新しくプロチームができるという話があったのです。すでに30歳を過ぎていましたし、トヨタでも優勝を果たしました。プロという新しい目標設定をしてもいいだろうと考えたのです」

2007年、設立されたばかりのレラカムイ北海道への移籍を決める。 実業団チームからプロチームへ。社員からプロ選手へ。しかしプロになったことで逆にバスケットボール以外の仕事が増えた。観客を増やすために街に出て告知のビラも配った。会社員時代には行ったことのない社会貢献活動も参加した。戸惑いを感じながらもすべてをひとつずつこなし、迎えた最初のシーズンの開幕戦。そこには驚きの光景があった。

「ファイナルでもない通常のレギュラー開催の試合で満員のお客さんが集まったのです。そんな経験はしたことがありません。そして“ホーム”というものを強く意識しました。自分たちは地域に密着するプロである。応援してくれる人のため、夢を持つ子どものためにプレーをする。これがプロなんだ。そう感じた瞬間でした」

1992年度の体育部門、総長賞も受賞。この時から将来の現役引退後にバスケットボールの仕事を続けていく意思を持っていた。


応援してくれる人に感動していただき、笑顔になってもらいたい。それは今も仕事をしていくうえでの理念となっている。北海道に来て自分は変わった。折茂さんはそう繰り返す。

ホームアリーナである札幌市の北海きたえーるには毎試合、多くのファンが詰めかける。その熱気は圧巻の一言。

私たちの仕事は、世の中を笑顔にすること

プロバスケットボール選手として北海道でのキャリアをスタートさせた折茂さん。だがその歩みの先には大きな困難が待ち構えていた。しかしどんな状況でも気持ちをポジティブに保ち、それを乗り越えた。年齢は関係ない。自分ができることを常に全力で。今、見据える先はバスケットボール界の明るい未来だ。

運営会社の破たん
選手兼代表として再スタート

北海道でスタートさせたプロ生活は充実していた。新規に立ち上げられたチームは成長を続け、メディアでは野球、サッカーと同じように取り上げられる。ファンもどんどん増えていった。やりがいのある毎日だった。

しかし2010年、大きな出来事が起きる。チームの運営会社が多額の負債を抱え、経営難に陥っていることが発覚。紆余曲折を経て2011年に入りリーグは運営会社の除名を決め、チームは存続の危機に直面した。新たな受け入れ先企業を探すも、さなかに東日本大震災が発生した影響もあり、なかなか見つからなかった。

チームがなくなるかもしれない。その状況で折茂さんは大きな決断をする。チームを運営する一般社団法人を設立し、自ら代表の座に就いたのである。

社長ながらアリーナに立てばひとりの選手。国内トップリーグで日本出身選手通算最多得点記録を誇る。

「バスケットボールのプロチームはやっぱりダメだと言われたくなかった。何より多くの方に応援していただいている中、北海道のバスケットボールを逆戻りさせたくなかったんです。私はそれまで経営については何も知りませんでした。しかしここでチームがなくなるのは北海道のためにも、バスケットボールのためにも良くない。そう思い、後先考えずに行動してしまいました」

今でこそ笑って話すが、新チーム「レバンガ北海道」の設立当初は私財を投じて運営費や人件費を賄っただけでなく、負債も多く抱えた。しかし「ネガティブになっては何も解決しない」との思いで、選手としてコートに立ち続けながらフロント業務に邁進した。チームを存続させたい。折茂さんを動かしたのはその一念だけだった。2年後に一般社団法人から株式会社に運営権を移譲。株式会社の代表取締役として自身が責任を背負うことで、様々な決定をスピード感をもって推し進められるようになり、少しずつ光明が見え始めた。

経営の健全化にも着手
債務超過も改善

そしてここでも人のつながりが折茂さんを助けた。現在、代表取締役CEOを務める横田陽氏にサポートを依頼。横田氏がスタッフとして加わり、経営は好転し始める。スポンサー獲得のために道内各地を足繁く回った末、多くの企業がレバンガ北海道の理念に賛同。支援してくれる企業も着々と増えた。

「代表として全ての責任を背負うことで当然苦労はありました。経営に携わる以上、数字がすべて。今までのように自分だけの力ではどうにもなりません。ただ全部を背負ったからこそ、頑張れたとも言えます。また人に助けられました。人の思いやつながりがあったからこそ、チームは生き残れたのです」

2016年のBリーグ発足も追い風となった。選手としてチームを高みに導き、経営面では健全化を図る。チケット販売の拡充、スポンサーの獲得だけでなく徹底的なコスト削減にも踏み切った。努力の甲斐もあり2018年には債務超過も解消。今ではレバンガ北海道は経営面でも優秀な成績を残すクラブとなっている。

引退会見はオンラインでの実施となったが多くのメディアが集まった。これまでの日本のバスケットボール界への貢献は計り知れないが、同時に今後の活躍にも期待が寄せられている。

勝ち負け以上の価値を提供
バスケットボールをもっとメジャーに

華々しく開幕したBリーグは日本のバスケットボールを変えた。一歩、アリーナに足を踏み入れれば、そこはエンターテインメント性に溢れる非日常的な空間。バスケットボールに詳しい人はもちろん、初めて観る人でも楽しめる。人気は今も拡大中だ。

2019年、折茂さんは49歳で引退を発表した。かつて日本の実業団バスケットボールが「日本リーグ」と呼ばれていた時代から「Bリーグ」までプレーした選手は折茂さんただひとり。これからはその経験を伝えていくつもりだ。

ずっと持ちつづけている夢がある。それは「バスケットボールをメジャースポーツにしたい」という思い。実業団時代、チームが日本一になってもスポーツニュースで流れるのは10秒程度。日本代表になっても街で声をかけられる場面はなかった。当時の意識は「勝つこと」のみにあり、その先にバスケットボールの人気拡大があると思っていた。しかし今は違う。

「勝ち負けだけにこだわっていた自分が北海道に来て学んだのは、それがすべてではないという事実です。スポーツですから当然、勝利を目指しますし、それでファンの皆さんに笑顔になってもらうのが一番いいのは間違いありません。しかし負ける日もあります。その時に来ていただいたお客さんに何を与えられるのかが大切だと思うのです。全力を尽くし、喜んでいただく。また応援したいと言っていただけるような戦いを見せる。そこに価値があると思っています。私たちの仕事はバスケットを通じ、世の中を笑顔にすることなのです」

道内ではレバンガ北海道の知名度は高く、プロ野球の北海道日本ハムファイターズやJリーグの北海道コンサドーレ札幌とも肩を並べる。ただ全国的にはまだバスケット人気の低い地域も多い。そこも何とかしたいと折茂さんは考える。それもあり2020年7月にはBリーグナビゲーターに就任。今後はレバンガ北海道だけではなくBリーグの普及・発展に向けた広報活動にも取り組んでいく。そして他にもやりたいことが山積みだ。

「若い選手の育成強化も課題です。私自身、日本代表としてプレーした時に世界のレベルの高さを痛感しました。プロリーグができたことで確実に日本人選手のレベルは上がっていますが、まだ世界との差があります。時間はかかるでしょう。しかし時間をかけてもいいので、確実に世界に追いつく強化が必要です。そこでも力になれればと思っています」

「まだ始まったばかりなんですよ」レジェンドはそう言って笑う。折茂さんだけが見てきた風景、折茂さんだけが感じてきたことがある。これから新しい時代を作りたいと意欲を見せる。

選手の肩書は外れたが、より一層忙しくなるに違いない。しかし折茂さんは変わらず走り続けるだろう。この国のバスケットボールの未来のために。

折茂 武彦(おりも・たけひこ)

1970年(昭和45年)5月14日、埼玉県出身。
中学校でバスケットボールを始め、埼玉栄高校に進学。日本大学経済学部経済学科に進み、4年時には全日本大学バスケットボール選手権(通称インターカレッジ、インカレ)で優勝を果たす。
卒業後の1993年、トヨタ自動車に入社。同年日本代表入りを果たし、広島アジア大会や1998年世界選手権など、国際大会を数多く経験した。
2007年にレラカムイ北海道へ移籍、2011年にレバンガ北海道を創設し、選手兼代表を昨年まで務めた。2020年の引退後も代表取締役社長としてクラブを経営しながら「Bリーグナビゲーター」も務めている。