
未経験から日本代表まで登りつめたラグビー人生。今後は普及担当としてラグビーの魅力を発信していく
「灰になってもまだ燃える」まで走り続けた足跡と、これからのこと
「品位」「情熱」「結束」「規律」「尊重」。
ラグビーの統括団体・ワールドラグビーが定める競技規則の前段に、「ラグビー憲章」というラグビーの基本原則となる五つの価値が明記されている。
このたび42歳で引退することになった日本代表歴代最多の98キャップ(国際試合出場数)、W杯に3度の出場した大野均さん。グラウンド内外で、その一挙手一投足はどれをとってもラグビーが大事にする価値にあてはまる。
「品位」:礼儀正しさ
「情熱」:ピッチ上でのタフな動き
「結束」「規律」:自分の痛みより仲間を優先するプレー
「尊重」:周りへの気遣い
「大野均」と書いて「ラグビー」。そんなルビを敬意を表して振ってみたい。
本来であれば感謝のフラッシュライトに照らされるはずだった引退会見は、オンラインで行われた。
16年前の入社三年目、アメフト映画の予告編で見た台詞から信条の言葉に決めた「灰になってもまだ燃える」。言葉通りに走り続けたこれまでの足跡と、これからのキャリアについて聞いた。

東北の方々が震災や台風被害に遭ってもたくましく立ち上がって前に進む姿から力をもらったと感謝を忘れない
ふるさと・福島の自然で培われた頑丈さ。
1978年5月6日、4人姉弟の3番目として誕生した大野さん。福島県郡山市で農業と酪農を営む両親のもとで育った。「小さい頃から農作業の手伝い、実家で作ったお米を食べ、育てた牛乳をよく飲んで」自然を食べて育った。
「現役19年で手術、メスを入れるケガは一度もありません」
その源は福島の恵みと「東北の人の我慢強さです」と即答する。
目に浮かぶのは、朝早くから夕方までずっと農作業や牛の世話していた両親の背中。「特別何かを言われたわけではないですが、背中を見て育ちました」。
必然的に、引退の報告を一番先に伝えたのは、一番影響を受けた人に挙げた、ご両親だった。
ラグビーではなく野球少年
大野さんが小学校に上がると、地元にスポーツ少年団ができ、父親も野球をやっていたことから野球を始める。中学時代は野球部の朝練前に母に勧められた新聞配達をこなし、多忙な生活を送る。「いま考えれば、新聞配達、部活の朝練、授業、部活とよくやったと思います(笑)」
野球に明け暮れながらも「もともと機械を触るのが好きで、普通科と違い実習があった方が楽しい」という理由で、県立清陵情報高校工業科電子機械科に入学。高校3年間、野球部で白球を追いながら、電子機械科ではトップの成績だったこともあり、日大工学部へ推薦の道が開けた。
まさか、が現実に
ここで運命が大きく動き出す。
日大工学部機械工学科に入学。大学でも野球を続けようと歩いていたところ、屈強なラグビー部の先輩に両脇を抱えられる。そのまま部室に連れられていき、名前と連絡先を書くことになる。その後の熱心な勧誘に惹かれ、ラグビー部の練習を見に行くことにした。
そこで初めて触れた楕円球。
「高校3年時に高校ラグビー福島県大会の決勝、花園の決勝を見て、同年代の選手がコンタクトスポーツで熱戦を繰り広げているのはカッコイイと思っていました。まさか自分がやるとは思いもしませんでしたが」
そのまさかが現実となり、コンタクトスポーツの楽しさに惹かれ入部を決めた。
工学部のラグビー部は4年生が抜けると試合に必要な15人が揃わなくなる。
「新入部員獲得が死活問題でした」
ラグビー部の顧問が体育の教員の方だったこともあり、ラグビー経験者がリストアップされ、先輩からの指令で「半ば強引にでも連れてこい」と、自身が先輩に両脇をかかえられたあの日のように、仲間を集めた。

6月24日、工学部・根本修克学部長より感謝状が贈られた(提供:工学部)
こうして大野さんのラグビー人生の幕が、ふるさと福島の地で開けることになった。
その時は後に、桜のジャージーと呼ばれるラグビー日本代表として戦うとは知らずに。

大学時代のアルバイトは、居酒屋の調理場、家庭教師(中学の数学、社会)、新幹線の線路に上ってケーブルを張り替える仕事など、色々なことを経験した
卒業後の進路は機械部品のエンジニアか消防士
先輩の熱烈な勧誘によりラグビーに引き込まれた大野さん。
ラグビーボールは不規則にバウンドすることで「人生の縮図」と例えられるが、大野さんの楕円球人生ここからは真っ直ぐ転がりだす。
工学部ラグビー部は、学部の特性で研究や実習が多く、練習では全員が揃わないことがほとんど。自然と走り込みの練習が多かった。
「身体のどこかが痛いからと練習を休むとチームに迷惑をかけるので、少し痛くてもグラウンドに立つ」。福島の自然で培った頑丈さと、ラグビーを続けられた根底にあるタフさ、仲間を思いやる気持ちは工学部ラグビー部で教わった。
一方ゼミでは「石炭液化油」をディーゼルエンジンに適用に関する研究を進めた。検証するのに、毎回同じ状態テストするために、エンジンを分解して中まできれいにしてまた組み立てる作業を繰り返した。
「研究して夕方にラグビー部の練習に出て、また研究に戻ってデータまとめるということをやっていました。研究室の仲間がいい人たちで、人の縁でいい学生生活を送れたと思います」
4年生になると早々に機械部品の設計会社へ内定をもらい、並行して消防士を目指し勉強をしていた。
楕円球がつないだ人の縁
そんな折、国体の福島代表に選ばれる。そこで出会ったFWコーチが「身体が大きくて走れるやつがいる」と大学の同期であった薫田真広氏(現東芝GM、元日本代表主将)に声を掛けたことで、大野さんが東芝のトライアウトに参加できることになる。
名門・東芝で参加した練習は「その年で一番きつい練習」だった。そう入部後に先輩から聞きかされた。コンタクトも激しかった。その練習で大野さんは肩を亜脱臼してしまう。
しかし。
「わざわざ福島から呼んでもらって練習に参加させてもらい、『肩が痛いので抜けます』はあまりにも情けないと思って、最後まで練習にくらいつきました。根性だけ認めてもらって、東芝に採用してもらいました」
福島で育った頑丈さ、タフさで東芝ラグビー部の門をたたくことになった。
その後の活躍は書くまでもない。
2004年、日本代表へ初招集。走力を見込まれ自身も驚いたWTB・バックス(※注)での起用だったが、目の前のことに集中して、日本代表歴代最多98キャップを積み重ねた。
そして東芝入部から19年、膝の状態が回復せず引退を決意した。

初心、積み重ね、挑戦
引退後、普及担当としてチームに残ることが発表された。役割、今後についても聞いた。
「東芝ブレイブルーパスの魅力、ひいてはラグビーの魅力、これまでラグビーに触れたことのない人にも届けられるように出来ればと考えています。ラグビーは体の小さな選手でも気持ちさえあれば、大きい選手をタックルで止められます。どういう人でもラグビーではできるポジションがある。多くの人に知ってもらいたい。これまではラグビーは痛い、というイメージのスポーツだったと思いますが、昨年のW杯でラグビー選手が持つ精神性、自己犠牲が伝わってあれだけの盛り上がりになったと。ラグビーのよさを多くの人に伝えたい」
伝えたいことの一つに、自身が野球からラグビーに競技を変えた、新しいことに挑戦することを挙げた。
「新しいことに挑戦することに魅力を感じています。最初に感じた魅力を大事に感じていられるように、初心を忘れない。私はラグビーで変わりません。チームの役に立ちたいという思い、自分に与えられた目の前の練習に100%出し切ろう、という気持ちは代表に入っても変わらずにやっていました。それが代表98試合、現役19年につながったのかもしれません」
初心、積み重ねの大切さを伝えられるのは、大野さんの経験ならでは。
自分にしかできない経験をさせてもらったからこそ発信できるものがある、と続けた。
「大学に入って出会ったラグビーで人生を送ってこられた。学生・若い人もいま出会っていない何かで自分の人生を形づくるチャンスがある。いろんなことにチャレンジして、学生時代に失敗はないので、経験したことすべてが身になるのでチャレンジしてほしい」
「いま、多くの方が困難に直面している中で、自分自身が経験したどんなにキツイ練習、合宿も必ず終わりが来ました。いつか終わるのであれば、その時間を少しでも自分の身になる時間にして、必ず成長できると思ってやってきました。ここまで、野球で身について役に立ったこともあるので、いままで自分がやってきたことが0になることはありません。必ずどこかで役に立つので、いま自分の目の前にあることに100%力を出し切ってほしいと思います」。

東芝一筋。日本代表だった先輩方をみて自身も成長した。今度は自身の背中を後輩に見せ、新たなキャリアを踏み出した。
丁寧な語り口調の奥から、熱気を帯びたメッセージが続いた。
「灰になってもまだ燃える」。
新たなスタートを切った大野さんの心の炎は、まだまだ燃えている。
大野 均(おおの・ひとし)
1978年(昭和53年)5月6日、福島県郡山市生まれ。清陵情報高校時代は野球部。
日大工学部進学後にラグビーを始める。トライアウトで認められ2001年に東芝ブレイブルーパス入り。
07年フランス大会、11年ニュージーランド大会、15年イングランド大会と3度のW杯に出場を果たした。代表キャップ98は歴代1位。192㎝、105㎏、ポジションはロック。
現在は東芝ブレイブルーパス普及担当。