就任直後の7月某日。東京ドームのそばにあるBリーグオフィスの入口にて

今の僕の基礎を築いたのは、日大山形と日大法学部の7年間です

2016年に開幕したB.LEAGUE(以下、Bリーグ)は、今年で5シーズン目を迎える国内唯一の男子プロバスケットボールリーグだ。本学卒業生(以下、表)も多数在籍し、NPB、Jリーグに次いで、第3のプロスポーツリーグとして、今注目を集めている。7月1日に就任した新チェアマン、島田慎二さんも、また本学の卒業生だ。ただ、バスケットボール未経験にして、ご本人曰く「スポーツビジネスの素人」の島田さんのモットーは「厨房の見えるラーメン屋であれ」。その真相に、前編・中編・後編の3回に渡って迫ってみたい。

《卒業生現役Bリーグ所属選手》
篠山竜青(文理学部卒・川崎ブレイブサンダース)
太田敦也(文理学部卒・三遠ネオフェニックス)
菊地祥平(経済学部卒・アルバルク東京)
松脇圭志(経済学部卒・富山グラウジーズ)
門馬圭二郎(経済学部・青森ワッツ)
栗原貴宏(経済学部卒・山形ワイヴァンズ)
新号 健(文理学部卒・山形ワイヴァンズ)
上江田勇樹(文理学部卒・群馬クレインサンダース)
古牧昌也(文理学部卒・群馬クレインサンダース)
飛田浩明(文理学部卒・ファイティングイーグルス名古屋)
ジャワラ・ジョゼフ(経済学部卒・ファイティングイーグルス名古屋)
種市幸祐(商学部卒・バンビシャス奈良)
坂田 央(文理学部卒・愛媛オレンジバイキングス)
石川海斗(文理学部卒・熊本ヴォルターズ)
本村亮輔(文理学部卒・熊本ヴォルターズ)

※現在Bリーグは移籍期間中ですので,今後所属チームが変更になる場合があります。
※開幕は10月2日に決定。

“縛られた”高校3年間

「バランス」と「根性」の人だ。そして、人間の「幅が広い」。

島田慎二さん、49歳。Bリーグ三代目チェアマン。
2020年7月1日に就任したばかり新チェアマンのオフィスにお邪魔した。この取材から一週間も経たぬ間に、某国営放送のゴールデンタイムのスポーツ番組で特集され、生インタビューを20分受ける、いわば“時の人”だ。
そんな“時の人”の時計の針を、先ずは30年ほど戻してみたい―。


「すぐそこですからね、私ね」

Bリーグ、正式名称は「公益社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ」。今回の取材の意図を説明していると、矢先、オフィスのあるビルのチェアマン室の窓の外を指さして、島田さんは笑う。

Bリーグオフィスから程ない、東京・水道橋にある本学法学部に通った学生時代は、「とにかく弾けちゃって(笑)」と話すほどやりたいことをやった4年間だった。

理由はある。

「高校時代は下宿生活で、サッカー部に入ったものの、自分とのレベルの違いに愕然としたんです。なので試合に出ることよりも、『サッカー部を辞めないこと』を目標に切り替えました」

高校は二つ上の兄を追いかけて、名門・日大山形に進学。故郷の新潟から越境入学でサッカー部に入部した。

しかし、辞めない、と言っても、4軍まである全国区の強豪チームの練習は厳しく、自分の家ではない下宿先での生活は、「あの時の苦労は大きい」と話すほどだった。

川崎ブレイブサンダースに所属する、日本代表ガードの篠山竜青選手もBリーグ選手。母校でバスケットボール教室も

その上、高校サッカーは正月の「全国高校サッカー選手権大会」出場が目標で、レギュラー以外の3年生も、冬になっても当然、練習に明け暮れた。

「付属校ですから、大学(日本大学)の統一試験が11月くらいにあった。でも、その試験に落ちてしまって(苦笑)。このまま大学行けないのかな、って」

高校選手権が終わって、ようやくサッカー部を引退。大学受験に取り掛かれたのは年明け1月10日過ぎたあたりだった。

「でも統一試験に落ちて、時間が経つにつれ、親に申し訳なくなってきて。一人暮らしはさせてもらって、サッカー部でも公式戦に出られないわ、統一試験は落ちるわ、で、自分って何も取り柄が無いと思って」

奮起した。

付属校の統一試験が通らないのに一般入試なんて受かるはずがない、そんな外野の声には耳を貸さずに、睡眠時間は一日、2、3時間。約2カ月の受験期間中は、「とにかく、死ぬほど勉強した」。

結果、“日東駒専”と呼ばれる大学に、三、四つ合格した。

「それでも、やっぱり日本大学に入ろうと思ったんですよね。兄貴も日大に進学していましたし、今は娘もお世話になっています(笑)」

“弾けた”大学4年間

全国レベルの強豪校で下宿生活の中、3年間サッカーを続け、引退後、死に物狂いで猛勉強して合格をつかみ取ったおかげで、人生の扉は開き365日×4の時間を手にした。

縛られた高校3年間があった分、大学の4年間はその反動で弾けたそうだ。

「大学時代は、遊ぶお金欲しさに警備員や居酒屋、コンビニなど、アルバイトに明け暮れていました(笑)」

様々な人との出会いの中で、その間、本も読み、映画は年間300本くらい観て感受性を鍛えた。すると、いつしか漠然と「一発当てて故郷に錦を飾りたい」と思うようになった。当てる発想もスケールが大きい。芸能界で当てるか、石油を当てるか、それこそビジネスで当てるか。直ぐに、劇団にも入った、石油会社も就活で受けた。中でも一番現実的だったのがビジネスに思えた。

「野心がありましたから、お金持ちになりたい、と(笑)。分かり易いですよね。じゃあ、社長という手段を取って、そのステージを目指そうと思ったんです」

しかし、就職活動は仲間たちよりもだいぶ遅く、4年生の秋からだった。結果、50社受けて49社落ちた。

「まさにモラトリアム(社会人となるべき自信がなく大学の卒業などを延ばしていること)ってやつです。普通に就職した方が良いのか、悶々としていたんですよ。何をすべきなのか、それこそ、何の為にこの世に生を成したのか、と。結構、そうした哲学的なことを考えまくっていたんですよね」

考えすぎて、選択ができなくなっていた。だから、就職活動も皆より遅くなった。

「でも究極、考えて考えて出てきた答えは、考えすぎても仕様がない。やるしかない、ということでした。考えることは大事だけれど、考え過ぎて前に進めないのは意味がない。考えて行動するなら良いけど、考えて行動を狭めるなら、考えることは意味がない。やらないと結果出ないし、やってみないと白黒も出ないし、自分のやっていることが正しいか、正しくないかも分からない」

だったらとにかく一歩踏み出すことが優先なんじゃないか、と悟って就職活動を始めたのが木枯らしの吹く頃だった。

「就職戦線は二次採用みたいな時期に(就職活動を)始めているんで、そもそも逆風なんですけどね(笑)。でも」と島田さんは続ける。

「(30年経った今も)あのときの“縛られた”高校生活と、“弾けた”大学生活の両方を7年間で経験できたことが、社会人3年で有効的に活きて、独立を早められた。そこから色々あって今に至っているから、結局、僕の基礎を築いたのは、あの7年間です」

島田さんの「幅の広さ」が生まれたのは、高校、大学の青春真っただ中にあったようだ。

「このチェアマン室に居ることは取材の時だけ」と広報の方が語るほど、チェアマンはとにかく動く

泥臭いところをやり切れるかどうかが
全てを分ける

田舎から出てきて一旗揚げようと役者の道を志した島田青年は「欽ちゃん劇団」に入り、年間300本の映画を観て感受性を鍛えた。ロバート・デ・ニーロに憧れて、米国のアクターズ・スタジオに「本当に行きたかった」という。しかし、才能は商才の方に傾いた。新卒で入社してから3年で独立、そこから15年足らずで残りの人生に足るだけの資産を作り、セミリタイア。2年と少しのブランクを経て、またビジネスの場に返り咲いた。それも初めて聞く「スポーツビジネス」の世界に。

25歳で起業、39歳でバイアウト

大学4年生で悩んだ挙句、就職活動して1社だけ受かった先は、大手旅行代理店だった。

「旅行業をやらせてもらって良かったのは、旅行業は、利益率が低く、労働集約的な産業で、かつ、地政学的リスクに翻弄され易い。例えば、紛争やテロなどの影響はもろに受けますし、SARS(重症急性呼吸器症候群)や今回の新型コロナも同じですよね。世の中の動きに翻弄される状況下でも、結果を出していかないといけない。そういう意味で、リスク耐性がすごく鍛えられましたね」

入社して3年経った25歳の時、同じ旅行業界で会社の先輩と起業した。今でこそ20代での起業は珍しくないが、当時はまだ少なかった。

「独立することは、大学時代に決めていました。共同経営した会社を30歳の時(2001年)に辞めて、その後、直ぐに自分の会社を立ち上げました」

周りを見ても、経営を教えてくれる“師匠”に当たるような人はいなかった。

「だから、実地で覚えるしか無かったんです。自分でボロボロになりながら、これはダメなんだ、とか、これは良いんだ、とか経験しながら身体で覚えていましたね。だから、時間はかかりました。それが、結果的には血となり、肉となる訳ですけど、その分、精神的なダメージも毎回大きい訳で(苦笑)。でも、そうした経験を繰り返していくことで、人の気持ちや心の有り様、我欲が強いとこうなる、とか、皆の為にという風になるとこうなる、とか。こういうお客様との向き合いをしたらこうなる、とか。少しずつ分かってきて、結果、(人の気持ちの)深いところをキャッチできた。完全に腹落ちして、ああ、経営ってこういうもんだな、って悟ったのは35歳ぐらい時」

それから、約3年後にバイアウト(会社売却)した。大学時代、起業することと同時に「ビジネスで稼いで30代でリタイアする」と決めたことを有言実行して、思い描いた生活を手に入れた。

「しばらくは仕事しないでゆっくりしたかった。実際、2年強ほどの仕事せずに、世界中を旅していました。どこまで遊んだらまた仕事したくなるのか、と思っていたら、ちょうど2年くらいで飽きてきたんです(笑)。さすがに自分でも何やってるんだろう、と思いますし、そろそろもう一回仕事したくなるんですね。離れるとしたくなるんですよ(笑)。仕事が」

そんな時、当時、bjリーグの千葉ジェッツから「社長として経営を建て直して欲しい」声がかかった。

「スポーツはするのは好きでしたが、スポーツビジネスなんて言葉も知らなかった。ジェッツの再建を手伝い始めて、こういう商売があるんだ、と言ったぐらいの話です」

だから、普通の産業と同じように取り組んだ。

あくまでポジティブに泥臭く

「良い商品を作って、良い広報をして、良いマーケティングをして、また商品を磨く。言葉を換えれば、魅力的なチームを作る、来場者が会場に来た時にワクワクする雰囲気を作るというようなことだと思うんですが、それを愚直にやっていればお客さんも入ってくれるんじゃないか、とか、盛り上がってお客さんが入ってくれたら、スポンサーも取れるんじゃないか、と。普通にやってきましたね。だからそんなにスポーツビジネスを語れる男じゃないんです(笑)。普通のことを普通にやってきただけです」

この普通がなかなかできないのが、“普通”だ。

Bリーグ開幕(2016年)後、4年連続でリーグ1位の売上を記録し、破産寸前だった千葉ジェッツを7年間で最終利益1億円にまで成長させた“島田マジック”の本質が垣間見えたのは、その後の言葉だった。

「地域地域にあるクラブだから、地域密着じゃないですか。究極はお客さんが求めることを追求できるのか。汗水たらして、スポンサー回ったり、地域の自治体との関係性を築いたり、ファンとのコミュニケーションを取ったり。結局、勝つのは泥臭いところなんです。泥臭いところをやり切れるかどうかが全てを分ける」

場の空気が瞬時に、熱を帯びた。

今回、島田さんがBリーグチェアマンに就任した際、自身がジェッツを成長させてきた経験値を開示して、勉強会や講演を積極的に行っていく、と明言した。

「今回の新型コロナの影響で傷ついているクラブを救えるものは何か、と考えた時に、リーグとしての財政支援だとか、クラブの資金調達を手助けするだとか、クラブが稼ぎ易いようなルール変更をこの一年間は施行したりだとか。色々やっている中で、私が動くことで少しでも手助けになるのであれば、喜んで動きます」

自身で泥臭いところをやり続けた結果、三顧の礼を持って招かれたチェアマンの椅子。だが、島田さんがその椅子にじっと座っていることはない。

「Bリーグは、今は厳しい状況だけど将来性がある。一番良いですよね。もし他競技団体やリーグだったら、受けていないと思うんです。バスケットボールだから受けた。それくらいバスケットボールは買いだと言って回ってるんです。ただ、千葉ジェッツの時は、厳しい状況な上に、正直、将来性も無かった(笑)。ですからあの時から比べたら、何でもできるという感じですよ(笑)」

ポジティブに泥臭く、普通にやり切る。

島田さんの「根性」は、就職、起業・独立、バイアウト、千葉ジェッツと経験したことで、ゆっくりと“泥臭く”培われてきたようだ。

ロジカルにセオリーを大切に牽引するリーダー像は、令和時代に符号した新たなスタイルなのかも知れない

この競技の人たちの為に頑張ろう、と思えたことが一番の理由です

島田さんが2012年に社長に就任した千葉ジェッツは、以後、7年間で驚異的な成長を遂げた。破産寸前だったチームは、17.6億円の売上を出す成功モデルとなり、Bリーグになってからは4年連続売上リーグ1位を達成。その手腕を周囲が放っておくはずはない。同じB1に所属するライジングゼファー福岡からも経営アドバイザーとして招聘され、異色の全日本テコンドー協会からも理事の打診があり、受けた。「見るのは潜在的な可能性」と言い切る敏腕経営者は、その全てを辞任して、Bリーグチェアマンとなった。

『B.LEAGUE BEYOND 2020』

チェアマンの仕事は忙しい。

「いつも何してるんですか? と聞かれて、何してるんですかね? と自分でも思っているところが正直あって(笑)。Bリーグというプロリーグ、公益社団法人の理事長、それを“チェアマン”という風に呼んでいるんですね。本来の仕事は、公益法人らしく、社会的責任を重く持ちながら、とはいえ、プロリーグなので事業的なビジネスの観点もある。公明正大にしっかりとガバナンスを整えながら、組織運営をしていく。バスケットボールというコンテンツの魅力と価値を最大化し、事業拡大もして、日本のバスケットボールの普及、育成、強化を行っていく、というのが大きな仕事なんだと思うんです」

現在Bリーグは、B1、B2併せて36チームが日本全国に点在している。初代チェアマンの川淵三郎氏、二代目チェアマン・大河正明氏からバトンを受け、島田さんが三代目を引き継いだ。

ちょうど一年前の昨年2019年7月、リーグは『B.LEAGUE BEYOND 2020』という名の中長期計画を発表した。「超えて未来へ」と副題の付いた計画には、「バスケットボールで日本を元気にします!」から始まる、VISION、MISSION、VALUEが書かれている。

VISION
・国民的スポーツとしての認知度向上
・NBAに次ぐリーグとしての地位確保
・憧れの職業NO.1、就職したい起業NO.1

MISSION
・世界に通用する選手やチームの輩出
・エンターテインメント性の追求
・夢のアリーナの実現

VALUE
・BREAK THE BORDER
~前例を笑え、常識を壊せ、限界を超えろ~

 

日本がコロナ禍に遭った今春、リーグの2018-19シーズンは28節(3月15日)を最後に中断し、そのままシーズンは幕を閉じた。

そして、7月1日、『B.LEAGUE BEYOND 2020』を掲げた前チェアマンの大河氏体制から託されて、島田さんは新たなチェアマンとなった。

「リーグが『B.LEAGUE BEYOND 2020』で掲げた中長期計画の方向性は踏襲すると宣言して、そこに含まれている『2026年構想』のデジタルマーケティング、メディアカンパニー、アジア戦略、などは全て進めています。ハード面のアリーナ建設のところだけ、どうしてもコロナ禍で財政基盤が傷んだり、経営強化に転じたので少子化になってアリーナを作る必要があるのか? など不可抗力によって議論が再熱したりもしているので、柔軟にやらないといけない状況になっていますが、方向性は(中長期計画通り)向かっていると思います」

リーダーとしての本領発揮はこれから

チェアマンになってから、早速、全チームの代表に向けてオンラインで所信表明をした。そこで出した宣言は、聴く者に大きなインパクトを与えた。

〇全36チームの1クラブも破綻させない
〇クラブ支援にリーグとして最低7.6億円のコロナ支援金を準備する
〇Bリーグ動画の月間視聴者数を5倍にする
〇万が一、達成出来なかった場合には、未達割合に応じて役員報酬を返上する

苦難に際した時こそ、経営者の資質が問われるのは、世の常。千葉ジェッツでクラブ経営を引き受け、どん底時代からリーグ1の収益を上げてきた島田さんだからこそ、説得力は大いに増してくる。泥臭くやり切るリーダーだからこそ。

「私にとってバスケットボールの魅力は、この競技が好きな選手や関わっている人たちから必要とされていること、この人たちの為なら頑張ろう、と思えたことが一番ですね。どうやったら強くなる、とか、どうやったら競技性として良いのか、とか言うのは、私よりも長けたスペシャリストが沢山いるので、僕の仕事はその人たちが活躍し易い状態を作ること」

あの川淵氏が、一昨年、「大河さんを助けてあげて欲しい」と、当時、千葉ジェッツ代表だった島田さんに、Bリーグの副理事長就任を要請した。「ジェッツの仕事を続けても良いなら」と異例の兼務で引き受けた時に、わざわざジェッツの感謝祭に出向いてジェッツの支援者の前でお詫びをしたという。いかに島田さんがリーグから必要とされていたかが分かるエピソードだ。

今月の7月13日、リーグは2020-21シーズンの開幕日を「2020年10月2日」と発表した。

本来であれば、東京2020オリンピックでバスケットボールも日本代表として、Bリーグ選手たちの戦いの後のシーズンのはずだった今季、リーグにとっても、バスケットボール界にとっても、大きなチャレンジが始まろうとしている。

以前、別のインタビューで、島田さんはこんなことを言っている。

「僕は(中小企業の活躍を通して)地方創生に貢献したいと思っています。そして、日本にはバスケットボールだけでなく、野球、サッカー、バレーボール、卓球など各地に400~500のスポーツチームが点在している。スポーツは地域を活性化できるすごいコンテンツなんです」

社長業を休止し世界中を旅していた時も、スポーツ観戦はゼロ。

「スポーツするのは好きでしたが、観ることには全く興味が無かった。今は違いますけど(笑)」

スポーツの世界もビジネスの世界も、基本は一緒。結局は、誰とやるか、だ。

「この人たちの為なら頑張ろうと思えてしまえば良いんです。皆と一緒にワクワク、ドキドキしながらチャレンジしていく。せっかく人生捧げるなら、そういうメンタリティになれないと全てを注げないですから」

クールなようで熱く、結論を先に言うがプロセスも大事にする。ビジネスライクに聞こえたフレーズに必ず人間味が薫る。縦横無尽に駆け回っていても、頭の中は常に冷静。そんなイメージを与える、正に「バランス」の人だ。

「置かれたところで咲きなさい」
「キラリと光るナイフは誰かが見つけてくれる」

インタビュー中、随所に島田さん語録があった。

新たなBリーグというガラス張りの“厨房”の中で、こんな語録を残す“ラーメン屋の店主”が作る麺が、不味いはずは、ない。

島田慎二(しまだ・しんじ)

1970年(昭和45年)11月5日、新潟県岩船郡朝日村(現村上市)生まれ。
幼少期は野球、中学からサッカーをはじめ日大山形に進学。大学は一般入試で本学法学部新聞学科に入学。卒業後は、マップ・インターナショナル(現HIS)に入社し、3年後の1995年に法人向け旅行会社ウエストシップを立ち上げ共同経営者として起業。2001年、アメリカ同時多発テロ事件を契機に独立し、ハルインターナショナル社長に。2010年、39歳で同社をバイアウトし、セミリタイア後、2012年に千葉ジェッツ社長に就任。2017年にはBリーグ副理事長を兼務し、2020年7月1日より現職。