
2018シーズンに続き、2019シーズンのペナントレースも優勝し、連覇したライオンズ。ファンは歓喜した
好きな言葉の“守・破・離”は大学時代に学んだ人生の教訓です
1979年から埼玉県所沢市を本拠にしてきた埼玉西武ライオンズは、以来リーグ優勝18回、日本一10回を成し遂げてきた、言わずと知れたパシフィックリーグの名門チームだ。昨年はシーズン観客動員数1,821,519人、1試合平均25,299人、公式ファンクラブ会員数も11万8004人と、いずれも球団記録を伸ばし、名実ともに、日本を代表する球団に成長してきた。右肩上がりの数字を支えるのが事業部、その事業部をまとめるのが部長の井上純一さんだ。

井上さんが2013年に事業部長となってから、観客動員、ファンクラブ会員数も堅調に増加してきた
在学時に五輪2大会連続出場
井上さんは本学在学時(2年生)の1992年に、冬季五輪のアルベールビル大会に男子スピードスケート500m代表として出場し、初出場にして銅メダルを獲得。20歳と51日でのメダル獲得は、当時の国内最年少記録となった。
「三つ上の黒岩敏幸さん(現・本学コーチ)が2位で銀メダル。2人で表彰台に乗って、国旗が左右から掲揚されたときには、『日本ではどんな感じで観ているのかな』と思っていました。でも、そのときになって初めて、『やっぱりポールの真ん中に(国旗を)揚げたいな』と思いましたね」

冬季オリンピック・アルベールビル大会で銅メダルを獲得した井上さん(写真右)と3つ上の先輩・黒岩敏之さん(銀メダル獲得)。当時の日本大学新聞より
アルベールビル大会の2年後、4年生になった井上さんは、リレハンメル大会にも500m、1,000mの代表として出場した。コンディションは最高の状態だったが、入賞はした(500m=6位、1,000m =8位)ものの惜しくもメダルには手が届かなかった。
「国内のオリンピック代表選考会が本大会の1週間前にようやく決まる激戦の年だったので、そこにピークを合わせてしまったのかもしれません」
当時、大学の後輩には清水宏保(のちに1998年長野大会500m金メダル)や専修大の堀井学(リレハンメル大会500m銅メダル)ら世界トップレベルのスプリンターが名を連ね、日本は「スピードスケート短距離王国」と呼ばれるほど、高水準の選手たちがしのぎを削っていた。
「でも、大学時代はインカレで負けたことがなかったので、国内で勝つ自信はありました」
井上さんは500m、1,000mの両方で代表に選ばれ、オリンピック2大会連続出場を果たした。
「八幡山の寮から2度もオリンピックに出られたことは、大学が与えてくれた環境に感謝しかないですね」
秩父からオリンピックへ
中学1年生の時、サラエボオリンピック(1984年)を見て「オリンピックに出たい」とスピードスケートに魅了された井上少年は、近所にあるスケートリンクで本格的に練習を始めた。高校でもスケート部に入ったが、使っていた近所のスケートリンクが閉鎖されてしまう。すると、
「顧問の先生が、それまで乗っていたスポーツカーをワンボックスカーに買い替えてきてくれた。それからシーズン初めの11月くらいからは毎週3日は学校が終わってから先生のワンボックスでスケートリンクのある軽井沢まで2時間半かけて練習に行って、帰りはいつも夜中でした」
井上さんの「オリンピックに出たい」という想いに、顧問の先生も乗ってくれたんだという。
部員も6人だったが、それぞれから刺激を受けた。一人はスケートは速くないが、陸上の基礎トレーニングが自分より長けていたり、別の一人は「スケートは楽しい」とハードな練習も楽しんでする雰囲気を作ったり。年下の後輩は「井上先輩を越えたい」と言って刺激してくれた。
そうして練習に励んだ結果、インターハイで3位となり、本学に進学。そこからは先述の通りだ。
井上さんの競技者人生には、最初に「想い」があり、それを支えてくれる「環境」があった。「想い」が「環境」を生んだ、とも言えるかもしれない。
しかし、「想い」はしばしば、厳しい現実を前に薄れていく―。

弱冠20歳と51日で銅メダルを獲得。当時の国内最年少記録となった
切符を手にした「諦めない」気持ち
銅メダルを獲得したアルベールビル大会の直前、毎年年末に行われるインカレで優勝を飾った井上さんは、リレーでアンカーを務めたレース後、突然、ギックリ腰で立てなくなった。
「年末に横浜の港湾病院に緊急入院しました。コルセットを着けた時には、正直、オリンピックは『もうダメかな』と一旦、諦めました。でも2、3日すると少しずつ回復してきて、1週間で退院できました」
年が明けて10日後に迫った国内オリンピック最終選考会。何とか出場した初日の結果は芳しくなく「8位か9位」だった。2日目、もう優勝しかチャンスは無いとなった最後のレース、井上さんは、起死回生の滑りを見せて見事優勝。フランス行きの切符を手に入れた。2週間前には病院のベッドで動けず、3週間ほぼ練習ができなかったとは思えない、鮮やかな勝ちっぷりだった。
「自信は1割もなかったと思います。ただ、最後まで諦めないことだけは、決めていました」
薄れかけた「想い」は、「諦めない」ことで、実を結んだ。中学一年生で想い描いた「オリンピック出場」の夢には、「メダル」のおまけまで付いた。
あれから28年。「西武ライオンズ事業部長」の肩書を持ち、名門チームを支える井上さんにとって、今も教訓としている言葉がある。
「私は『守・破・離』※という言葉が好きなんですが、これは大学時代のこうした経験に教えられたと思っています」
トップレベルのスピードスケートの世界から、野球の世界へ。教えである「守・破・離」を実践するメダリストの本領発揮は、まだまだこれからなのかもしれない。
※「守・破・離(しゅ・は・り) 剣道や茶道で、修業上の段階を示したもの。守は、師や流派の独自な教え、型、技を確実に身につける段階、破は、他の師や流派の教えについて考え、良いもの、望んでいる方向へと発展する段階、離は、一つの流派から離れて、独自の新しいものを確立する段階」(『日本国語大辞典』より)

2018、2019シーズンのペナントレースを連覇中のライオンズ。次なる目標はもちろん日本一奪還

ライオンズの地域コミュニティ活動「L-FRIENDS」の一環として“こども支援”と“地域活性”になれば、と県内の小学生に帽子を寄贈。写真は大学の後輩にあたる投手の十亀剣選手(経済学部経済学科卒)。同じ投手の森脇亮介(文理学部体育学科卒)も一昨年加入した
野球って大きく言えば、国力をつける、国力を上げられる、それぐらいのものだと思っています
ライオンズに関わるまでは、実は野球よりサッカーの方が好きだった。地元埼玉の雄・浦和レッズだ。しかし、関わっていくうちに気持ちは変わり、今では野球のとりこになった。ライオンズ命名70周年だった今年、新型コロナの影響で決まっていたイベントも中止を余儀なくされた。「『withコロナ』から『ニューノーマル』、そして『アフターコロナ』。完全に元に戻るとは思っていません」。来年3月に竣工予定の「ボールパーク化」は順調に進んでいる。「諦めない」男は、今日もゆく。
8年間の人事部配属の先に
1994年に大学を卒業すると同時に入社した西武グループでは、冬季五輪競技の施設が完備され、恵まれた環境下で競技を続けた。
オリンピックと現役へのこだわりは、1998年の長野大会までと決めていた。自身が26歳なったその年、3大会連続出場は成し遂げたものの、大会で滑ることは叶わず、2年後の2000年、スケート靴を脱いだ。入社から7年後のことだった。
仕事では、関連会社の人事部に配属された。
「最初は人事の仕事が『スケートしかやって来なかった自分ができるのか』と不安もありました。業務内容は福利厚生的な仕事でした。そのうち社会保険や雇用保険など固いことをやって。例えば、『給料からどうやって社会保険事務所へのお金を納付するか』やグループ内にいた大勢の離職者の方の手続きをしたり、社会保険労務士の真似事みたいなことをやっていました」

スラッと高い身長は180cm。しかし、あの太かった太腿の面影はない。落ち着いた語り口はまさにインテリそのもの
当時はまだ一人に一台パソコンがあるような時代ではなかった。座っているより動いて覚えた。競技生活と並行して「諦めず」に目の前の業務に打ち込んだ。
「キャリアを積んでいく中で、そのうち処遇や制度系のこともやらせてもらいました」
こうした人事・労務面の経験と知識は、今の事業の礎になっている。
競技引退後も、仕事は変わらず人事・労務、管理部門のスペシャリストとして10年を経た2013年のある日、辞令が出た。
グループが持つプロ野球チーム、西武ライオンズ事業部長のポストだった。
「『スポーツビジネス』が盛んになっていた時期だった。正直、自分は全く勉強していなかったので『ついていけるのか?』と不安の方が大きかったし、実際、(ここまでくるのに)時間もかかりました」
ビジネスチャンスと社会貢献
最初の4年間は、勉強の毎日だった。
「そもそも『ライオンズがどうやってファンを作ってきて、どうやって収益を上げて、どうやってチームに還元して』という体型的な流れをキャッチアップするのに、相当時間がかかりました」
独学で本を読み、歩いては他球団やメジャーのチームを視察して、自分の目と耳と勘で覚えた。
「そうして勉強していくうちに、野球の深さ、力がとても大きいものだと感じるようになりました」
一つはビジネスチャンスとして。もう一つは、社会貢献活動として、だ。

2021年3月完成予定の「メットライフドーム」の「ボールパーク化」計画予想図 ©SEIBU Lions
「例えば、スポンサーを得るに当たっては、野球は攻守がハッキリしていて、休憩時間がある。それを1試合平均2万5000人の観客にPR活動できる。これだけでも大きなビジネスチャンス」
一方、社会貢献活動はスケールが大きい。
「野球って大きく言えば、国力をつける、国力を上げられる。それぐらいのものだと思っています」
例えるなら、かつて第1回WBC(2006年)の決勝戦の対キューバ戦は、瞬間最高視聴率56.0%(関東地区)を記録し、王貞治監督の胴上げに日本中が熱狂した。
昨年のプロ野球の全公式戦観客動員数は2650万人(史上最多)で、日本の全人口の5分の1以上に当たる数字。
確かに、野球の持つ力は甚大だ。
「先ずは、埼玉県民を全員ライオンズファンにしたい。そして、ホームゲームでスタジアムを全試合満員にしたい。そのために、やれること、できることはどんどんやっていきたい」
より地域に根差した連携を、と県内の50自治体と協定を結んだ。県と組んで2018年にはライオンズのキャップを全域の小学生約30万人に配布した。
「子どもたちにも最終的にはライオンズファンになってもらいたいですが、先ずは帽子をかぶって外遊びに出て欲しい、と。野球以外でも良いから運動して欲しい、そう思って配布させてもらいました」
先の見えない新型コロナの影響
県内のプロ野球チーム、ソフトボールチーム(埼玉西武ライオンズ、埼玉アストライア=女子プロ野球、埼玉武蔵ヒートベアーズ=BCリーグ、戸田中央総合病院メディックス=ソフトボール)と組んで立ち上げた「PLAY-BALL! 埼玉」も、野球・ソフトボールをする子どもが減っていたことへの危機感が、プロジェクトへと繋がった。活動としては、野球・ソフトボールの競技の楽しさ・魅力を体験できるプログラムを実施している。
井上さんが管轄する事業部では、対消費者向けの「チケット」「グッズ」「ファンクラブ」などの事業を担っており、売上は球団収入の約半分を占める。
「チケット」では、“試合の価値の違い”に着目し、平日と休日、対戦カードや季節など、需給バランスを反映した結果、一律でなく料金に差をつける「フレックス制」を導入してから、収益が上がってきた。

子どもの遊戯施設や選手が練習する「練習場」にもファンが入れるエリアを作り、試合だけでない楽しみ方を提案する ©SEIBU Lions
「グッズ」では、試合日に偏っていた売上を、試合日以外に販売を強化していくか、に注力し、ECサイトの作り込みも常に変化・改善してきた。
「ファンクラブ」では、元々あったライオンズ「友の会」を引き継ぎ、CRM(顧客管理)を使って、しっかりとコントロール。現在、会員数11万人を超えるなど年々、増加傾向にある。
ほかにも「スタジアムグルメ」なども含め、少しずつ時間をかけて、全体を上手く整えてきた結果が、全て数字に表れてきていた。
それが、今年はほとんどが無くなった。
7月21日から有観客で始まる本拠地「メットライフドーム」での興行も、まだ不確定要素が山積している。
「これまでライオンズファンになって頂いて、メットライフドームに足を運んで下さっていたファンの方々が遠くなる。球場に来なくてもライオンズを応援して下さる方々をいかに作っていけるか」
プリンスホテルとコラボレーション
打開策が必要なのは、球団ばかりではない。系列会社のプリンスホテルから提案があった。
「川越プリンスホテルには『ライオンズコラボルーム』を作り、まるで球場さながらの部屋の中で、試合日にテレビの前で応援していただき、同じ観戦プランを利用しているファンの方同士をオンラインで繋いで一緒に観戦して頂いた」
オンラインではMCも付けて応援を盛り上げるほか、この企画のために撮影した選手メッセージも届けるなどコラボレーション施策は大当たり。企画は継続予定だ。

川越プリンスホテルにある1室限定の「ライオンズコラボレーションルーム(ノベルティグッズ付き)」
「私のいる事業部でも、チケットやグッズ、ファンクラブとそれぞれ担当者がいます。改めて会社って人でできていて、その人とどう向き合うか、だと思う。適材適所の人材に上手く動いてもらいながら、成長させることができるか。スケートや会社の人事部で教わったことは、すごく勉強になりました」
高校時代、たった6人の部員と恩師に後押しされ、大学へ。その大学でも指導者に恵まれ、仲間と切磋琢磨し、国内の頂点に立って、世界でも3本の指にも入った。西武グループ入社後も、不慣れな事務方の仕事で、組織と社員両方に向き合い、学んできた。
学んだことを見直し、一度手放して、新たに独自のものを作る。教訓とする「守・破・離」そのもののように、井上さんは、師と仲間から教わり、自ら学び・研究し、新たな形を作ってきた。
ライオンズが新たに描く「ボールパーク化」(2021年3月竣工予定)構想にも、井上さんの存在は欠かせない。
「とにかく一人でも多くの方にライオンズファンになってもらって、野球の力でもっともっと社会に貢献していきたい」
そのためにも「まだまだ諦めない」。そんな井上さんの声が聞こえた気がした。
井上純一(いのうえ・じゅんいち)
1971年(昭和46年)12月26日、埼玉県秩父郡荒川生まれ。
中学1年からスピードスケートを本格的にはじめ、県立秩父農工高校3年時にインターハイ3位となり、本学文理学部体育学科に進学。在籍した4年間、国内ではインカレ4連覇を飾り、1992年冬季オリンピック・アルベールビル大会では500mで銅メダル獲得。続く、リレハンメル大会では、500mで6位、1,000mで8位と2大会連続入賞を果たした。3大会連続出場となった長野大会では、代表入りも本戦出場なし。ワールドカップ通算3勝。2000年に現役を引退し、西武グループ入社。関連会社で人事部門などを経て、2013年に現職。