アスリートインタビュー

柔道の男子7階級の中でも、代表争いが最も熾烈と言われる90kg級。
リオ五輪王者や、2018年世界選手権銅メダリストら強敵が揃う中、4月の全日本選抜体重別選手権を制したのは社会人2年目の向選手。
今夏に東京で開かれる世界選手権代表の座をつかみ、五輪選考レースを大きくリードするチャンスを得た。
「もう負けられない」…向選手は五輪メダリストへの一本道を突き進んでいく。

覚悟を決めて臨んだ体重別選手権。

今年2月、柔道グランドスラム(GS)パリ大会。向選手は90kg級3位決定戦で、最大のライバルと目される長澤憲大選手と対戦したが、延長戦の末に長澤選手の横四方固めに屈して5位に終わった。

―GSパリ大会で長澤選手に敗れた時は?


その瞬間は単純に「負けたな」と思っただけでしたが、次の日になって「ちょっとやばいかもしれない」とほんとに思いました。「東京五輪が相当遠のいた」って諦めかけたことも。でも、今まで応援してくれた人たちの顔が頭に浮かんできて、ここで諦めたら申し訳ない、やらなきゃいけないって…。

―そこから2ヵ月後の体重別選手権に向けては?

大会の前までに、納得できるところまで自分を追い込んでみようと。金野先生(金野潤・日大柔道部監督)からも「1年生の時にはもっとやっていたぞ」と言われていましたし、自分でもどこか練習にリミッターを付けていたので、一度そういうのをリセットして、もらえるアドバイスは全部聞いて、練習量で物を言わせようと思ったので、ものすごくやりました。金野先生がよく「量が質に変わる」とおっしゃいますが、本当にその通りなんだろうなという感じで、「ここまでやってダメならしょうがない」という気持ちで体重別に臨みました。

そうして始まった体重別選手権。1回戦では、相手を攻めあぐねているうちに、先に指導2つを受けてしまう。もう1回指導をもらうと反則負け。しかし、この窮地を救ったのは、会場後ろの通路で試合を見守っていた後輩の声だった。

―本戦2分以上を残して指導2になった…


いよいよやばいかなって思いましたね。ただその時、付き人をやってもらっている後輩の前濵(忠大・文理学部4年)の声がすごい耳に入ってきました。「落ち着けぇ!」って怒鳴り散らされて…後輩にですよ(笑)。でも、それで我に返ることができて、逆に焦らなくなりました。もう攻めるしかないって。延長で勝った時は「あぁ、勝ったな」というだけでした。前濵には「今の感じがいい」って言われて、自分もその言葉で落ち着きを取り戻せました。

準決勝も一本勝ちした向選手は、決勝でパリで敗れた長澤選手と再び相まみえることになった。

―パリのリベンジという気持ちが大きかった?


そうですね。ここで負けたら、もう本当に何もかも失ってしまうなって感じていました。長澤選手も強い思いがあったでしょうが、自分はそれ以上に背負うものが違う、応援してくれる方々の本気度が違うんだって、自分で思い込んでいたし、やらなきゃいけないって強く思っていました。

本戦4分間で決着がつかず、両者指導2で延長戦へ。立て続けの背負い投げで攻めの姿勢を見せる向選手に対し、長澤選手は次第に防戦一方となっていく。そして延長1分44秒、向選手の投げ技から倒れこんだ両者が立ち上がると、主審が長澤選手に柔道着を直すよう指示。3つ目の指導は長澤選手だけに与えられ、向選手の反則勝ちとなった。その瞬間、向選手は顔を手で覆い、後ろを向いて膝から崩れ落ちた。

体重別選手権・長澤選手との決勝。延長戦に入ってからの積極的な攻めが勝利を呼び込んだ。

―決勝の試合を振り返ってみると?

焦りは全くなくて、もっと前にいかなきゃ、技を掛けていかなきゃという気持ちでしたね。最後の「指導」は、技を掛けたのは自分だと思っていたので、自分には来ないと確信していました。

―勝った瞬間の気持ちは?あの涙は?

やってきたことが正しかったと思ったのと、オリンピックに向けて首の皮1枚つながってホッとしたというか、これでスタートラインに立つことができたなって。いつもは試合後にあれほど喜ぶことはないんですが、パリで負けてからの苦しさがあって、結構追い込まれていたので感情が昂りました。金野先生や前濱だったり、支えてくれた人たちへの感謝がこみ上げてきて「本当に有り難うございました」っていう思いでいっぱいでした。

周囲に支えられて、ここまで来れた。

大学4年の時、日頃の行状を咎められ、金野監督から柔道部への“出入り禁止"という荒療治を受けた。1人で柔道をすることの厳しさを身をもって実感した日々。心の転機だった。

―“出禁"を経て感じたことは?


今は社会人としていろいろできますが、その時は私生活も全部自分でやらなければいけなかったので、めちゃめちゃ大変でした。寮にいれば食事は作ってもらえるし、道場があって練習相手がいる、トレーニング環境もある。そういうのがすべて当たり前のことじゃないんだって思い知らされました。講道館杯で優勝して先生に謝りに行き、「分かってくれたんだったら良かった」と言って頂いた時は、すごい有難く思いました。

「この明るさは昔からです」という向選手。「日本の柔道の何かを変えなきゃいけないって、ずっと思っています(笑)」

―世界選手権に向けての課題は?

5月のGSバグー大会で、負ける相手ではないと思っていた選手に負けてしまった。それは自分の心の甘さだったり気持ちの弱さだと思っています。
8月までに海外での大会に出場するつもりですが、そこで何を得て何を次の試合に活かせるか、そこが重要だと考えています。

―優勝すれば五輪代表も見えて来ますね?

そうですね、やはり世界選手権でチャンピオンにならないと意味がないですから。前回大会は団体戦で出場しましたが、今回は初めての個人戦なので、自分自身との戦いになるし、甘えられないですね。

―東京五輪の代表に選ばれたとしたら?

ただひと言「優勝」。目指すのはそれしかないんですが、単にNo.1になるということじゃなくて、今まで迷惑をかけた人たち…金野先生、親、後輩、チームメイト…皆さんに恩返しの意味を込めての優勝。そういう気持ちで頑張っていきたいと思います。

Profile

向 翔一郎[むかい・しょういちろう]
1996年生まれ。富山県出身。2018年法学部卒。綜合警備保障(ALSOK)所属。
小学4年生の時に柔道を始める。高岡第一高3年時にインターハイに出場(81kg級・5位)。2014年の日大入学後に頭角を現し、全日本ジュニア体重別選手権90kg級で優勝し、翌年も連覇。2016年、講道館杯全日本柔道体重別選手権90kg級3位、グランドスラムにも東京大会で初出場。2017年4月の全日本選抜柔道体重別選手権90kgで初優勝、その後もアジア選手権90kg級3位、ユニバーシアード(台北)個人戦3位、講道館杯90級優勝、グランドスラム・東京90kg級3位と活躍。2018年2月のグランドスラム・パリ90kg級で念願の初優勝を飾ると、11月のグランドスラム・大阪でも優勝。今年4月の体重別選手権90kg級で優勝を果たし、世界選手権(8月・東京)の代表に選出された。好きな言葉は「無事之名馬(ぶじこれめいば)」。