
柔道家 原田 瑞希 【日本大学】
パリ2024五輪の金メダリストが現役を引退し、女子柔道48kg級は群雄割拠。国際大会の代表選出を巡る争いがより激しくなっている中、4年間で着実に実力と実績を積み重ねてきた原田瑞希選手(スポーツ科学部卒)は、社会人の強豪クラブで柔道家としての新たなスタートを切った。その道の先に思い描くのは2年後の金メダル。大学時代を振り返る静かな語り口から、内に秘めた闘志と決意が垣間見えた。
(取材:2026年3⽉23⽇)
手応えと反省が詰まった銀メダル
今年2月末、学生として最後の試合となった2026グランドスラム(GS)・タシケントは、頂点まであと1歩だった。
「会場では応援のための楽器がいっぱい鳴っていて、最初は自分の柔道に集中するのがちょっと大変だなって思いました」と言う原田。それでも、その騒がしさを前向きに捉え、「大舞台で試合ができているのが楽しいと思えてきて、モチベーションが上がりました」。
1回戦でウズベキスタンの選手に優勢勝ちすると、2回戦の相手は世界ランキング2位でパリ五輪銅メダリストのシリヌ・ブクリ選手(フランス)。「GS東京でも戦っていて(優勢勝ち)、正直もう当たりたくなかったけれど、ここで勝てば自身のアピールにもなると考えました」
だが、ブクリ選手の早い仕掛けに後手に回り、前半のうちに「指導」2つを受けて後がなくなってしまう。「残り時間がまだ2分30秒もあったので、まずいなと思った」という原田は、ここから攻めに転じた。得意の内股で「有効」を奪うと、残り1分を切っての巴投で「技有」を獲得してリードを広げ、優勢勝ちを収めた。「自分の強みである“投げる柔道”を最後まで信じ切れた。2回戦の山を乗り越えられたのが良かったなと思います」
さらに準々決勝は横四方固め、準決勝は「技有」2つの合わせ技で一本勝ち。その勢いをもって決勝では、世界ランク1位のフェイ・シンラン選手(中国)に挑んだが、残り1分余りで「技有」を許してしまい、そのまま優勢負け。「寝技から立ったらポイントになるという新ルールに対応しきれてなく、準備不足だった。『ルールが変わったな』くらいの感覚で、練習でも意識して取り組んでこなかったのが、結果に出てしまったのかなと思います」と反省を口にした。それでも、昨年12月のGS東京(3位)を上回る準優勝は、シニア国際大会では自己最高の成績だった。

GSタシケントでは大歓声の中での試合を経験。「日本人の観客の方々は静かに応援するのが普通なので、そこが海外とは大きく違います。しかし、東京でもそのように盛り上げてもらった方が、自分の気持ちも高まるなって思いました」 【日本大学】
柔道一筋の努力が実りを迎えた
柔道の強豪・柳ヶ浦高校では全国高校選手権、インターハイに出場し活躍したが、意外にも将来は看護師になるつもりだったという。
「高校2年の全国高校選手権で、準決勝でド派手に負けて落ち込んでいる時に上原(優香)コーチ(現監督)に声を掛けていただいたのですが、当時は看護科に入っていて、卒業後に柔道を続けるつもりも、大学にいく気もなかったので、最初はあまり響きませんでした」
その後、日本大学の施設を見学し、指導者たちの話を聞いた。北田(典子)監督(現総監督)からは「日大柔道部女子部門からは、まだ学生日本一の選手が出ていないので、その最初になってほしい」と言われ、「私1人にこんなに熱意を持ってくれるのがいいなと思った」と心が動き、「ここで柔道をやりたいと思うようになりました」。そして高校に戻ると看護科から普通科の体育進学コースへ転科し、柔道で頂点を目指す覚悟を決めた。
2022年、日本大学スポーツ科学部に進学し、柔道部女子部門に入部。「柔道を好きなだけできる環境で、充実した気持ちでやって来れました」と4年間を振り返った原田。高校までは自分の感覚を頼りに練習を積んできたが、上原コーチの指導により、自分を理解した上で練習に取り組むことの大切さを知った。
「技術を言葉にして紙に書き出し、目にして取り組むことで、自分のものになっていく感覚がありました。今まで勢いでやっていた技術の手順などを、1つひとつ丁寧に行うことで、練習でやっていることが試合でそのまま出せるようになりました」
また、「自分のトレーニングを実際にやってみて、それがちゃんと体が使えているかどうかを先生方に見てもらうトレーニング実習の授業で、いろいろ多くのことを学びました」と、スポーツ科学部での学びも生きたと話す。

柔道講道館杯女子48kg級で優勝した原田選手 【共同通信社】
柔道に真摯に向き合い、積み重ねてきた努力は、学年が上がるごとに確かな結果として現れてきた。
‘24年1月のベルギー国際大会で優勝を飾ると、前年3位に終わった学生体重別選手権も強敵を撃破して初優勝。講道館杯でも3位入賞を果たすなど注目を集める存在になった。
国際柔道連盟のワールドツアーに初挑戦した翌‘25年3月の柔道グランプリ・アッパーオーストリア(リンツ)は、2回戦敗退も世界トップクラスとの対戦で貴重な経験を得る。4月、4年生となり主将を任された原田は、全日本体重別選手権は惜しくも準優勝に終わるが、7月のワールドユニバーシティゲームズ(ドイツ)を制し大学生世界一に輝く。持ち味の切れのある投げ技が冴え、「勝ち切れたことが自信につながりました」。
11月の講道館杯でシニアの全国大会初優勝を飾ると、12月のGS東京では3位決定戦を制して銅メダルを獲得。飛躍の1年となったその勢いは、冒頭のGSタシケントでの銀メダルへと続いていく。
「ジュニアの頃の国際大会では、得意技の内股が海外選手には掛からなかったんですが、最近は自分の内股が通用することが分かってきて、その内股が相手に警戒されるようになり、逆に足技が生きるようになってきた」と、自己分析した原田。「精神的な面で焦ることが減ってきたし、負けた後でもすぐ修正することで自分の弱点も少しずつ減ってきた。その点で上原コーチには試合前の不安になる気持ちを支えてもらっていますし、いつも的確なアドバイスをいただいています」と、成長を実感している。

一番苦しかったことは何かを尋ねると、しばらく考えた後で「世界ジュニアの代表になれなかったこと」という答え。「2年生の時、全日本ジュニアの決勝で負けて、最後のチャンスを逃した時が一番落ち込みました。ただ、1ヶ月後にすぐ全日本学生選手権があったので、そこで優勝するという目標を掲げ、気持ちを切り替えました」 【日本大学】
もっと強くなってロス五輪へ
もう1人、原田の成長に不可欠だったのが同じ48kg級で切磋琢磨してきた1学年下の宮木果乃(スポーツ科3・修徳)。‘22年の全日本ジュニア選手権では、高校生の宮木とともに3位だったが、翌年の同大会はチームメイトとなった宮木に決勝で敗れ、世界ジュニア選手権出場のラストチャンスを逃した。
「後輩は高校生の頃から世界の舞台で活躍していて、自分には追いつけないくらいの差があった。周囲の人からは同情的なことを多く言われましたが、自分は全く気にしていなかったし、焦りもなかった」と、当時の心境を話す原田。「一緒に練習したり団体戦を戦ってきた中で、学ぶことがたくさんあったし、気がつけば自分の目標や目線が上がってきて、結果もついてきた。それでも、日頃の練習でまだ追いつけてないなと感じるところがいっぱいあるし、直接対決でも負けている」と後輩へのリスペクトを語り、「今では入部してくれて良かったと思っている」。‘24年の全日本学生体重別選手権を制した翌年、原田の大会連覇を阻止したのもまた宮木だった。

2025年度全日本学生柔道体重別選手権では、準決勝で後輩の宮木に敗れ3位 【日本大学柔道部女子部門】

練習に励む原田選手 【日本大学柔道部女子部門】
4月からはJR東日本女子柔道部に所属。同部の2年先輩に同じ48kg級の第一人者・古賀若菜選手がいるが、「私は追われるより追う立場の方が得意ですし、古賀選手がいる、いないということではなく、いい環境で柔道をやりたいということで選びました」と、柔道家として、社会人としてさらに成長していきたいと語った原田。
最初の大舞台は、4月5日(日)の全日本体重別選手権を前に、「強い相手しかいないので、そこを乗り切ることに集中したい」と意気込んでいたが、準決勝敗退となり今季の世界選手権とアジア大会の代表切符をつかむことはできなかった。しかし、「最終的な目標は2年後のロス五輪で金メダルを獲ること」。
小学生の頃に柔道の指導者から贈られた「雲外蒼天(うんがいそうてん)」という言葉を座右の銘として、世界の頂点を目指す戦いに、強い気持ちで挑んでいく。「努力して困難を乗り越えた先には、すばらしい未来が待っている」

競技成績とともに学業成績も表されて、卒業にあたり学長賞を受賞した原田選手。大学4年間は「ほぼ練習中心という日々」だったが、「たまに温泉施設に行ったり、おいしいご飯やスイーツを食べに行ってリフレッシュしていました」。 【日本大学】
Profile
原田 瑞希[はらだ・みずき]
2003年生まれ。山口県出身。柳ヶ浦高卒。2026年3月、スポーツ科学部卒業。4月よりジェイ・アール東日本に入社。得意技は内股。段位は3段。4歳の時、兄の影響で地元の柔道クラブに入り、すぐに頭角を現す。小・中・高と全国大会に出場し、日大進学後は、48kg級で‘23年の全日本ジュニア体重別選手権の準優勝を皮切りに、数々の国内大会、国際大会で活躍。’25年はFISUワールドユニバーシティゲームズと講道館杯で優勝を飾り、全日本体重別選手権は準優勝、グランドスラム・東京で銅メダル、’26年1月のグランドスラム・タシケントでも銀メダルを獲得した。