昨年11月、「きこえない・きこえにくいアスリートの国際的な競技会」である東京2025デフリンピックにおいて、テニス女子ダブルスで銀メダルを獲得した宮川百合亜選手(スポーツ科学部卒)。大学ではテニス部員として健聴者に混じって関東リーグ、インカレを戦う一方、デフテニス選手として世界の舞台でも活躍し、実績を残してきた。さらに、自身の経験をもとに講演を行い、デフスポーツの周知活動にも力を注いでいる。大学4年間で経験したこと、学んだこと、そしてこれから目指すところについて話を聞いた。
(取材:2026年3⽉23⽇)

テニス一家に生まれた宮川は、3歳の頃に両耳の聴覚障害が判明。補聴器を着用して日常生活を送る一方、健聴の選手たちに混ざりテニスに打ち込んできた。
転機は高校1年の夏だった。テニスの名門校の一員として関東大会に出場した際、女子ダブルス初戦の対戦相手に、補聴器を着けてプレーをする選手がいた。後に日本代表のチームメイトになる鈴木梨子選手だった。試合後、鈴木選手に声をかけられ、初めてデフテニスを知り、プレーを誘われて俄然興味が湧いた。
「聴覚障害を持って生まれて来たのにも関わらず、デフテニスをやらないという選択肢は自分の中になかった。国際大会に出場できるかもしれないし、デフリンピックという大会の存在を知ってそこを目指したいと思って、デフテニスに挑戦することを決めました」

「デフテニス」は、一般のテニスとルールは同じ。だが、コートでは補聴器や人工内耳を外し、音の聞こえない状態でプレーをしなければならない。「音がある時には、自分のストローク音が気持ちいいと感じる時は調子がいいのですが、デフテニスでは音が無いので、ボールを打つタイミングがズレてしまうところが難しい。常に調子の悪い状態のようになって、気持ち良くストロークを打つことができません」
それでも宮川は、「音が聞こえれば気持ちのいいテニスを見つけることができ、逆に音が聞こえない時はよりそのプレーに集中できるというメリットがあります」と、テニスとデフテニスでの感覚の違いを語り、「切り替えの大変さはあまり感じません」という。
しかし、ダブルスでは、通常パートナーと声を出しながら状況判断をするが、「音の聞こえない中だとパートナーの声、打球音などが聞こえないので、パートナーのことをよく知り、どう動くのか見ることが大事。目ですべての状況判断をしなければなりません」と、シングルスよりも難易度が増すという。

高校でのテニスとデフテニスの二刀流に取り組んだ宮川はすぐに頭角を現し、高校3年時にブラジルで開催されるデフリンピックの日本代表に選出されるまでに成長。しかし、新型コロナの影響により大会の開催延期、さらにデフテニス代表選手団の派遣辞退が決まり、悔しい思いが募った。

その一方で、「テニスとデフテニスを両立しながら、自分のレベルを上げていきたい」という考えで、進学先としてスポーツ関係の学部を探していた時に、日本大学スポーツ科学部を知った。
「他競技とのディスカッションや戦術、技術、フィジカル、トレーニングなど、興味深い授業があることと、怪我が多かったのでもっと身体のことを知りたいと思い、スポーツマッサージにも興味を持ちました。また、高校1年生の時からテニス部の練習に参加させてもらっていて、部の雰囲気や練習内容に惹かれて、進学を決めました」

入部して感じたのは、「練習の質が高校の時よりも上がった」ということ。「今までよりもレベルの高い環境下で練習することができ、好きな時間にいつでも練習できる。先輩方も優しいながらライバルとして切磋琢磨し合える関係性がとても良かった。大学に入ってから戦績が伸び、インカレにも出場することができました」

卒業にあたり大学4年間を振り返ると、「どの場面においても、コミュニケーションが一番大事だと感じました」という。元々、人見知りの性格で、相手の言っていることが聞き取れない時でも、「聞き返すことが苦手で、あまり人と話すことができなかった」。しかし、「言葉にしないと伝わらないし、授業はディスカッションが多いので、常に自分の意見を持って話すように心掛けることで話が広がった。競技でも、自分の気持ちを声に出すことで、同期や先輩、後輩たちが助けてくれたり助けたりと、良好な関係を築くことができたし、周りからも頼られる存在になりました」と語り、そこに自らの成長を感じるという。

そのきっかけになったのは「怪我」だった。
入学後すぐの春季関東学生トーナメントで、「関東学生になる(予選突破)」という最初の目標を達成すると、1部昇格を目指す関東大学リーグ戦に向けて、「もっと頑張ろうと思い、練習量や質を無理に上げてしまった」と、右手首を故障。痛みでラケットを握ることさえできなくなり、リーグ戦はメンバー外になった。周囲の部員がテニスをしている中で、自分だけテニスができない状況下にいることが「4年間で1番苦しかった」。しかし、「先輩方が話を聞いてくださったり、リハビリに行ってしっかり休むことで、3ヶ月後には完全復帰することができました」。

2年生の夏には、インカレ期間中の試合で右膝を痛めてしまう。曲げ伸ばしも、歩くこともができなくなり、「チームにものすごく迷惑を掛けました」。それでも「何としてでも出て欲しいと言われていたので」と、リハビリに通って、できる練習をし、テーピングをして試合に強行出場。「何とかチームに貢献することができました」

一番の思い出は「4年生のリーグ戦(3部)です」と答えた宮川。5校との対戦でシングルス・ダブルスの出場9試合で8勝を挙げてチームに貢献した。「2部昇格はできませんでしたが、同期と話し合ってメンバーを決めたり、本音でぶつかり合ったからこそ、悔いのない試合をすることができたと思います」

勉学面でも「印象に残る授業が多かった」という。「たとえば、『競技スポーツ習得実習』では、コツやカンについて類似する他競技の選手とのディスカッションを通して自分の競技に採り入れることができた。『体力・戦術・技術トレーニング演習』では、テニスの根本的な理解をスライドや言葉にすることで、より深く競技について考えることに役に立ったと思う。また、車椅子や義足の難しさを体感するなどパラスポーツに触れる機会もあり、自分自身がデフという立場もあるので、パラスポーツの魅力やパラスポーツ選手の努力というものをより感じることができ、とても興味深いものでした」
また、「遠征などで登校できない時でも、オンデマンド授業やレジュメなどを送ってくださるので、それを見てレポート課題を行うなどの対応をしていただき、競技と勉強の両立がとてもしやすい環境でした」と振り返った。

世界で経験した喜びと悔しさを糧として

大学での部活と並行して活動していたデフテニスでは、世界の舞台で経験と実績を積み重ねていった。
「海外の選手には体格が大きい人もいて、1・2球ではポイントを取れないので、しっかりラリーをしてチャンスを作ることが大事。また、混合ダブルスでは、男子のサーブやプレーの仕方に負けない戦い方を常に考えています」

’23年11月、ギリシャで開催された世界デフテニス選手権に初出場した宮川は、女子シングルスで準優勝、決勝が日本人ペア対決となったダブルスでも準優勝。さらに世界デフテニスチーム選手権の4試合に出場し、シングルス4戦4勝で日本チームの初優勝に貢献した。さらに翌年1月には、全豪オープンテニスの新たなカテゴリーとして追加されたデフテニス部門(AO DHoH Championships 2024)に、世界ランキング2位として招待され参加。女子シングルス準優勝、ダブルス優勝という結果を残した。

’24年は、11月に日本で初めて開催されたデフテニス国際大会「グローバルチャレンジ大会」でも、女子シングルスとダブルスでの準優勝に加え、混合ダブルスでも優勝を飾った。この時ペアを組んだのが、テニススクールのコーチをしていた次兄・宮川楓雅選手。前年の世界選手権の混合ダブルスでペアを組んだ男子選手が年下だったため「本音で話すことができなかった」と言い、格下の相手に敗れベスト16で終わったことが悔しかった。「兄とならもっと上に行ける。強い相手に勝てる」と思った宮川が、自身よりも聴力が弱く、参加資格を満たす兄をデフテニスに誘い入れた。

「プレーにおいて信頼できることが兄妹ペアのメリット」と話す宮川。「私がボレーにいて、相手にストレートを抜かれてしまったり、私が取れなそうな前に落とされたボールも、兄が足の速さを生かし取ってくれることが多い。そこを信頼して任せられることで、やりたいプレーをできるし、兄も私に任せてくれるところがあるので、2人で自由にテニスをできます」。そして何より、「兄妹だからこそ本音で話すことができるのが大きいと思います」。
その反面、「互いのプレーに納得がいかないと険悪な空気になりやすい」と言い、試合中でも互いに口を聞かなくなる。「イライラしながら次に行ってしまい、有利な状況が一転して不利な状況に陥って負けてしまうことがある。デフの中では大切なコミュニケーションが欠けてしまうことがデメリット」と笑う。

それでもペア結成からわずか8ヶ月で初優勝を飾り、互いに世界で戦える手応をつかんだ。「兄にたくさん助けられた場面がありました。優勝できたことはとても自信につながりました」と、妹は素直な感想をSNSに綴った。

そして迎えた’25年11月の東京2025デフリンピック。競技を始めた時から目標だった大会に日本代表として3種目に出場した宮川は、女子ダブルスで銀メダルを獲得。「3年前の世界選手権と比べてレベルが上がっていて、苦しい試合が多かった」と、金メダルを目指したシングルスはベスト16、また兄とのペアで挑んだ混合ダブルスもベスト16で涙を飲んだ。

大会後、SNSで応援してくれた人々への感謝と、「自分自身の戦い方を見直し、次に向けてリベンジができるように頑張りたい」という決意を示した宮川。目指すは3年後のアテネデフリンピックだ。

デフアスリートとして、できることを考えていきたい

初めてのデフリンピックを経験して感じたこともあった。
その1つが世界共通ではない手話についてで、「私はまだ日本語の手話もままならないですが、国際手話への理解も必要だと感じました。挨拶やありがとうなどの簡単な国際手話をするだけでも意思疎通ができるため、コミュニケーションが大事ということを改めて実感しました」。
そして、「海外、特に欧州ではデフスポーツが浸透しており、国際大会も欧州で多く開催されています。参加選手の数もかなり多くいて、中にはデフスポーツのプロとして活動している人もいる。そういう環境や姿勢が、日本でも広まっていけばいいなと思います」と、デフスポーツのこれからにも期待を寄せる。

また、デフリンピック出場に関連して、競技以外でも新たな経験や出会いもあった。
「デフリンピックでメダルが期待される選手」としてのテレビ取材やイベント参加のほか、学校等での講演を依頼されるようになり、「デフスポーツ、そして私自身をもっと知ってもらうため」と、依頼にはできる限り応えてきた。
「講演では、選手としての私と、ふだんの私生活とのギャップを見せることで興味を惹き、皆さんを笑顔にすることを意識しています。私自身が手話を使って生活をしているわけではありませんが、その根本的な理由などを話すことによって『こういう難聴者もいるんだよ』というのを知ってもらうきっかけになればいい。特にスポーツ体験の企画では、デフスポーツの難しさを理解してもらうために、楽しく取り組んでもらうための工夫も大事なのだと知ることができました」

当初は「デフスポーツ自体の認知度の低さを実感した」というが、講演やイベントへの参加を重ねていくうちに、「興味を持っている人が多数いるということが身に染みてわかってきた」。だが、「講演先で声を掛けてくださったり、サインを求められることもありました。そうした応援してくださる方々に、デフリンピックでメダルを獲って恩返しがしたいと思うようになった。デフリンピック後も、地方などでデフスポーツの認知度が上がるような活動をしていきたいと考えるようになりました」と、心の内も変化していった。

卒業後は、社会人として働きながらデフテニス選手としての挑戦を続けていく。仕事がフルタイムであるため、練習は格段に減ることになるが、「身体づくりを徹底的に行い、競技力をあまり落とさないように頑張ります」と言い、3年後のアテネデフリンピックでの「全カテゴリーメダル獲得」を目標として掲げた。同時に「今後も講演会やSNSなどを通じて、デフスポーツの発信にも力を入れていきたい。学校などでのデフ体験授業などができたらいいなと思っているので、依頼があればぜひ挑戦してみたい」という意気込みを語った宮川。また新たな二刀流へと挑んでいく。

Profile
宮川 百合亜(みやがわ・ゆりあ)
2003年生まれ。神奈川県出身。橘学苑高卒。2026年3月、スポーツ科学部卒。3歳の時にテニスを始めるが、同時期に聴覚障害が発覚。高校1年時にデフテニスに取り組み始める。大学入学後はインカレ出場を目指す一方、デフテニスの国際大会で活躍。’23年の世界デフテニス選手権は女子シングルス、ダブルスで準優勝、混合ダブルスでベスト16。世界チーム選手権でも優勝に貢献した。’24年、全豪オープンテニスのデフテニス部門(AO DHoH Championships 2024)で女子シングルス準優勝、ダブルス優勝。さらにデフリンピック予選を兼ねたグローバルチャレンジ大会では女子シングルスとダブルスでの準優勝に加え、兄・楓雅とペアを組んだ混合ダブルスで優勝を飾る。’25年の関東ろう者体育大会で女子シングルス3連覇を達成。’25年11月開催の東京2025デフリンピック日本代表として出場し、女子ダブルスで銀メダルを獲得した。

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