日大ゴルフ部OB会の会長を務めていた2002年。当時の竹田昭夫監督から部の面倒を見てほしいと請われた。その頃のゴルフ部を「甚だ心許ないというか、昔ながらの精神論が優先されているみたいで、何やってんだ」と感じていたこともあり、会長の座を譲ってコーチとして現場に戻った。52歳の時だった。

「現場に戻って初めて、なぜ勝てないのかがよく分かった。いろんな仕組みが崩壊していた」という驚きの中で試行錯誤していたが、まさかのことに秋季対抗戦を前にして恩師・竹田監督が急逝してしまう。後を託され代理監督になったものの、部の再建は「さらに大変な状況になってしまった」と焦燥した。

新興の大学などはすでに、様々な点で若い世代に見合った革新的な試みを始めており、当初の数年はそういう仕組み作りに力を注いだ。今でも忘れられないのが、ある付属高校の先生に「私の目の黒いうちは選手を日大には行かせない」と言われ、大きなショックを受けたこと。悪気があっての言葉ではないと分かっていたが、選手を大学に送る苦労を知り、また大学・部の受け入れにも問題があったことを知った。その反省から、付属校のみならず全国の高校を訪ね歩いて「監督さんたちといろんな話をさせてもらった。日大に来てもらうにはどうしたらいいかを一生懸命話し合った」。地道な努力は、やがて付属高校との交流戦「日本大学ゴルフフェスティバル」につながっていった。

2005年に一度、代理監督を辞したが、2006年に正式に監督に就任。「部内で個人間の競争を引き出すのが上手かった」という竹田監督のやり方を根底に受け継ぎながら、自分流の考えも採り入れて選手たちとのふれあいを大事にしてきた。中でも和田監督が大事にしているのが“チームワーク”。

「ゴルフは“個”の競技。でもチームは単に個の集合体ではなく組織だと考えている。だから毎年チーム作りをする段階で、チームワークの大切さを認識するため、選手たちがみんなで徹底的に話し合う」

さらに「何のために日大ゴルフ部にいるのかという意識を明確に持たないまま上級生になってしまうと、チームワークが成り立たなくなる」という考えから、新チームの4年生たちに作らせる年間スローガンと部の基本方針を、ミーティングの度に全員で唱和する。

一般企業に勤める和田監督は、平日は仕事があるため選手指導を専任コーチに任せているが、選手たちの状況は毎日のように報告が入る。合宿があれば詳細なパーソナルデータが送られてきて、それを仕事の合間に読む。練習方法の具体的な指示は出さず、データに基づいた個人目標を掲げさせ、「自分たちで考えなさい」と選手個々が課題に沿った練習をするに任せている。選手たちを大人扱いすることも、自らが経験した竹田監督のやり方である。そして月例競技の結果により、部内の3チームの中で入れ替えを行う。成績が良ければ入学したばかりの1年生でもレギュラーに起用し、落ちた選手たちは今の実力を認識し、その悔しさを糧にまた練習に励む。「競争を起こすことで、組織はもっと強くなる」。

夢を尋ねると「選手を海外へゴルフ留学させること」だと言う。

「アメリカやオーストラリアの提携大学に、うちの選手が1・2年行って、向こうの試合に日大の看板を背負って出られたらいい。そのためにはまず語学なので、選手たちには語学を一生懸命勉強しなさいと言っている」

監督としての喜びは勝つことではなく、「1年間いい成績を挙げて、4年生を卒部式で送り出す時が一番」と穏やかに笑う和田監督。「勝つのは一瞬ですし、良かったねと握手した瞬間に次の戦いが始まるので…」。監督就任13年目、次なる勝利へ向けて、まだまだ意気軒昂だ。

Profile

和田 光司[わだ・こうじ]

1950年生まれ。東京都出身。
1972年商学部卒。ゴルフ部第一期黄金時代の中で4年間を過ごし、卒業後は4年間コーチを務める。1976年、全日本クラブチャンピオンズ 報知アマゴルフ選手権優勝。2002年にコーチとして復帰したが、竹田昭夫監督急逝に伴い監督代行を務める。2006年に正式に監督に就任。監督として主要7大会での優勝は団体・個人を合わせて男子29回、女子14回を数える。(株)日本財産コンサルタンツ取締役専務。

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