自転車部の監督になることは、宿命だったのかもしれない。高校3年生の11月、前任の竹花敏監督のもとを訪れ、「一般受験で合格したら自転車部に入れてください」とお願いした。「君が井上君か」と言った監督の二言目は、「卒業したら、大学に残って手伝ってほしい」だった。驚きと共に、4年も先のことなので途惑うばかりだった。
翌年、晴れて自転車部に入部したものの、「正直言うと、レベルが違いすぎて大変でした。同級生もインターハイや国体で表彰台に乗っている選手ばかりで」。しかし、日々の練習を休まずに努力した結果、4年生でユニバーシアード代表に選ばれるまでに成長し、インカレ総合優勝の主力としても活躍した。奇しくもこの年が30連覇の始まりだった。
卒業後は、約束通りコーチとして後輩の指導にあたり、20連覇まで勝利の美酒を味わい続けた。だがそれは、コーチという立場だから良かった。
満70歳を迎えた竹花監督が勇退することになった時、OB会から監督就任を依頼されたが、最初ははっきりと断った。「僕は竹花監督のお手伝いをするために大学に残ったのであって、監督をやりたくで残ったわけではないから」。
結局、監督を引き受けることになったが、その時の気持ちを聞くと意外な答えが返ってきた。
「優勝する喜びは20連覇まで。それを過ぎてもプレッシャーはあったけれど、むしろ早く負けないかなと思っていました」
若い頃は何が何でも勝たなくてはと、強引な指導もやっていた。10連覇は死にものぐるいで達成し、20連覇までは「絶対勝てる」という完璧な自信を持って取り組んでいた。レギュラー選手もキャプテンもすべて自らが決め、選手の意見を採り入れることはなかった。しかし、20連覇達成後、あるOBから言われた言葉に考えが大きく変わった。
「学生はリモコンカーじゃない」
確かに、今までの勝利は自分が思い描いたシナリオを、選手たちが実現してくれていたに過ぎないと気付いた。「選手をそんな風に育ててきたのか。これはちょっと違うかな」と、それを境に勝ち続けるためだけの強引な指導は止めた。
「勝ちたいならば、どうすればいいか、自分たちでやりなさい」と、キャプテンの選出もインカレの選手起用も、選手たちに任せるようにした。毎朝必ず選手の顔を見てから練習に送り出し、公道に出る時は「安全のため」と車でついて行き後ろから見守る。試合の時は自ら選手の脚にアップオイルを塗り、メカニックもすべて手掛ける。「監督はとてもタフな人、スーパー監督」(沢田選手)と評する選手たちも、その思いに応えてさらに10年間勝ち続けていった。
「学生は優勝を目指してやっていますが、30連覇までは続かないと思っていたし、僕は連覇とか勝たなきゃというのは絶対に口にしなかった。負けた先に何があるのかと考えていました」
2013年、ついに連覇が途絶えた。「負けたらトラブルとかいろいろありましたね。立て直すのに4年かかったし、いろんな意味でつらかった」と当時を振り返るも、5年ぶりのインカレ制覇には「勝ったのは選手たちだから」。
自転車部の長い歴史の中で、今も選手たちの心の礎となっているのが、初代監督の浜中一泰先生が掲げた部訓『何くそ精神』だ。
「自転車は、自分が踏むのを止めたらそこで終わって負けるので、結局自分との闘いなんです。だから、最後まであきらめずに努力し続けることが必要。社会人になってもそれは同じで、自分が努力を止めればそこで負ける。努力を怠らずに、きちんと最後まで頑張り抜くっていうことが、すべてにおいて大切だということですね」という考えは、35年間で朝練を休んだことがないという逸話からも伺い知れる。
「出張で不在の時を除けば欠席はゼロ。熱が出た時に朝練に出て、そのあと仕事を休んだことはありますけど(笑)」
試合に勝つこと以外の喜びは「学生たちが自分にあった道を探しながら、ちゃんと卒業していくこと」という井上監督。「昔に比べてめちゃくちゃ優しくなりました」と話すその笑顔が、選手たちに勇気と安心のエールを贈り続けている。
Profile
井上 由大[いのうえ・よしひろ]
1961年生まれ。神奈川県出身。
1983年商学部卒。日大3年時に全日本大学選手権のロードレースで優勝を果たし、4年時はユニバーシアード代表。卒業と同時に自転車部コーチに就任し、2004年4月から監督に就任。2012年には前人未踏のインカレ30連覇(通算50回)を達成。2017年に5年ぶりとなる大学日本一にチームを導いた。