史上初の快挙に日本中が湧いた。東京2020オリンピック競技大会のフェンシング男子エペ団体戦、日本チームは決勝でロシア・オリンピック委員会(ROC)を破り、男女を通じて初めての金メダルを獲得。その中で全試合に出場し、チームのムードメーカーとして勝利に貢献したのが、本学校友の山田優選手(2017年文理学部卒)。その日、世界の頂点に立つまでにどんなことがあったのか。そして、金メダリストになった今、何を思っているのか。五輪での戦いと、自らの「新たな挑戦」について、熱く語ってもらった。

金メダル獲得、おめでとうございます。今、どういう心境でしょうか?
ありがとうございます。もう半年くらい経ちますが、あまり実感は湧いてないんです。今まで五輪のメダルって見たことも触ったこともなく、まったく手の届かないものだったのに、いきなり金メダルが自分の手元に来たので、その貴重さっていうのかな、何か変な感じがしちゃうんですよね。これってそんなに凄いものなのかなって。表彰台に立った時も、その大会のチャンピオンになったという思いはあったのですが、五輪のチャンピオンになったという実感はなかったですし、未だに何だかふわふわしているような感じが若干あります。
五輪後、ご自身や周囲の変化などはありましたか?
正直、周囲の反応というのは思ったほどではありませんでしたね。フェンシングって常にマスクを被っていて顔がわからないので、街を歩いていて「あー、山田選手!」みたいになることはあまりなく、地元(鳥羽市)のスーパーで声を掛けていただいたりすることはあっても、ほんと地元近辺だけです(笑)。前フェンシング協会会長の太田(雄貴)さんがよく「メダル獲ったら人生変わるぞ」って言っていて、テレビ出演などいろんなことを経験させていただので、そこは確かに変わるなと。ただ、変わると言っても、そこから何か行動を起こした人が変わるだけであって、待っていても何かが変わるわけではないので、自分もここからがスタートであって、もっともっと頑張らないといけないと思っています。

「チームメイトの言葉に救われた」個人戦敗退を糧として団体戦へ。

選手村に入ってからは、試合に向けて気持ちの昂りなどありましたか?
選手村って、何か五輪の雰囲気というのがやっぱりあるんですよね。そういうのを感じて極度に緊張してしまい、個人戦の試合まで何日かあったんですけれど、ストレスでお腹を壊しました(笑)。対戦相手が直前まで発表されなかったことも緊張の1つになったし、発表されたらされたで、もっと強い選手と当たると予想していたのに、出場選手中では1番格下のような選手と当たることになり、絶対に負けられないっていうプレッシャーで余計に緊張してしまって。余裕がなくてソワソワしてた中で個人戦が始まり、1回戦は自分本来のプレーの50%も出せないような、内容の悪い試合をしてしまいました。「どうにかしないといけない」って思って臨んだ2回戦からは、相手がどんどん強い選手になっていき、それがやりがいとなって緊張がほぐれ、気持ちよくできて良かったんですけど。
個人戦は惜しくもメダルに届きませんでした(6位入賞)が…。
メダルが賭かった準々決勝の試合、通常なら後半に入って4点差あればひっくり返されないのに、そこから逆転負けしたというのは、メダルがちらついて欲が出てしまったのと、大きな勝負に出て失敗し、自信をなくしてしまったんですね。やっぱり欲を出したのが敗因だなって思いましたが、それを学べたからこそ、団体戦ではメダルが確定しても欲を出さずに普段通りのプレーができた。そういう意味では、いい教訓になったと思っています。
団体戦※へ向けて気持ちの立て直しはできていたんですか?
やはりメダル目前だっただけに、すごい引きずりはしました。でも、このまま凹んでいたら団体戦に響いて良くないなと思っていましたし、そんな時にチームメートが声を掛けてくれて、勝負に出た自分のプレーについても「あの判断は間違っていなかった。ちょっとだけズレていて、たまたま外しただけだよ」って言ってくれたんです。その言葉で気持ちが楽になりましたし、自信を取り戻すことができましたから、チームメイトの存在がとても大きかったなと思いますね。
※ 1チーム3名が総当たりで戦い、3分間で5ポイント先取を1試合とし、9試合で45ポイント先取またはトータルポイントでリードしているチームが勝利となる。
初戦のアメリカ戦は見事な逆転勝ち(45-39)でした。
実力的には格下だったので、絶対に負けられないというプレッシャーもありましたし、苦しい戦いでした。後半に入って最大7ポイントもリードされていたので、全く余裕はありませんでした。宇山(賢)選手がメンバーチェンジで入った時も、流れが変わってほしいと思う反面、変わると思えなかったのが正直なところです。だから、逆転勝ちできた時は、喜びというよりも、ただ安心したという感じで、試合後はみんなもほっとするような感じでした。ただ、この試合を乗り越えたことで、みんな気持ちがすっと楽になって、そのあとは試合を楽しむようにやっていました。ここで気持ちをしっかり整えられたっていうのが良かったんだなと思いますね。
準々決勝は世界ランク1位のフランスを相手に、大接戦の末に勝利(45-44)しました。
実は、それまでフランスとの試合はほとんど勝っていたんですよね。相性が悪くない相手なので、いつも通りに戦えば勝てるなって思っていたんですが、1試合目で僕が良くない流れを作ってしまって、それをチームが引きずってしまったので、正直まずいなっていう感じでした。何とか勝たなきゃいけないっていう意識は強かったんですが、僕はポイント的にプラスマイナス0にしかならない試合しかできなかった。でも最年少ながらエースの加納(虹輝)選手が、最後まであきらめずに1点でも多く取ってくるんだっていう気持ちで戦ってくれたので、最後は勝つことができました。あの試合はもう、チームの力っていうよりも加納様さまでしたね(笑)。
準決勝の韓国戦(45-38)は、勝てば金か銀が決まるということで気持ちの変化はありましたか?
みんな、「ここまで来たら行くしかないよね」という感覚でしたし、何だか行ける気はしてたんですよね。「このまま行っちゃうか」みたいな、すごい軽いノリの、そういう空気でした。これまでW杯で優勝した時も、どこかで必ず1回は苦しい試合をするんですが、そういうきつい試合のあとは意外にすごい点差をつけて勝ったりするんですよ。だから、韓国戦もそういう楽な気持ちで臨めたことが勝因だったのかなと思います。

「実は足をけがしていて…」覚悟を決めて頂点に挑んだ。

ROC(ロシア・オリンピック委員会)との決勝戦、試合前はどんなことを考えていましたか?
正直、もう自分たちは五輪のメダリストなんだよなって、その時点で「やったっ!」て気分でしたね。だから金メダルが賭かっているとか変に意識をしなかったですし、浮かれていたっていうのは、ある意味良かったのかもしれないですね。そこで「金メダル、金メダル」となっていたら、たぶん緊張してチームの雰囲気が悪くなっていたと思います。僕たちはガンガン前のめりになるとダメなタイプなんで。みんな緊張する様子もなく、リラックスして休んでいましたから、それが自分たちらしくて良かったのかなと思います。
試合展開としてはどうだったのでしょう?
いつもと違う順番でしたが、コーチの作戦で1試合目に僕が出ていくことになり、相手もエースが最初に出てくるので、倒してしまえばこっちに流れを持ってこれるなって。1ポイントでもいいから多く取ろうと思っていたんですが、4対4になりどちらが5ポイント目を取るかという展開で、自分の1番得意な技…個人戦で最後に失敗してしまった技を仕掛けて、それが決まった。あれでチームに流れを持ってこれたので、あの第1試合はすごく大事だったなって思います。ピストを降りても、いつものように「イェーイ!」みたいな感じで、「いいぞ、いいぞ」というような特別に熱くなる感じではなかったですね。
流れを持ってこれたことで日本チームは点を重ねていき、後半も優位に試合が進みました。
そうですね。点差はあまり開いていませんでしたが、心に余裕があったので、たぶんもういけるって、みんなが本当は思っていたんでしょうね。誰も疑ってなかった。「五輪には魔物がいる」とよく言われますけど、五輪だって意識しすぎるとたぶん食われてしまうんで…だから自分たちらしくW杯と同じぐらいのテンションでいこうっていうのは、事前に話をしていたんです。「伸び伸びと楽しくやっていれば絶対いけるから」って、キャプテンの見延(和靖)先輩からも話があったので。そういう意味ではずっと、最初から最後までいい流れの中で戦えたかなと思います。
4点リードで最後の第9試合を迎え、昂りはありましたか?
対戦した加納選手は、個人戦で負けた選手が相手だったので気合が入っていましたが、そこから逆転されることもあるので最後の1点まで気を抜かず、「ちゃんとちゃんと、抑えて抑えて」と思っていました。横にいる2人が「金メダル、金メダル」ってソワソワしていたけれど、僕だけはそういう気持ちを抑えて、ちょっと冷静にいようと思いながら後ろで見ていました。
金メダルが決まった瞬間、喜びが爆発しました。
最後に決まった瞬間は、もうめちゃくちゃうれしかったです。そういう時、1番最初にバッと飛び出していくのはだいたい僕なんで(笑)。あの時はもう爆発していたし、そんなに覚えてはないですけど。みんなで喜んでぴょんぴょんはねてる時に…実は初戦のアメリカ戦で相手の膝が腿に入ってちょっとけがをしてしまい、ぐるぐる巻きにテーピングをして戦っていたんですけど、ぴょんぴょん跳ねていたら急に力が入らなくなり、そのままズッコケちゃって。だから喜びもある一方で、このあと足のことをどうしようかなっていうのも考えたりしていました。
けがをしていた?その後の試合に影響はなかったんですか?
初戦で選手交代の権利を使っていて、もう変更することはできませんから、たとえ立っているだけになっても僕が出るしかない。できるだけの治療をしながら、その中でやるしかないって覚悟を決めて、みんなには「こういう状況だけれど、ちゃんと最後までやるんで…」と伝えました。試合ではやっぱり、先の先を読んだ動きができなくて、攻撃した後にがたついて体勢を戻せない。だから1発目の攻撃で決めたかったんです。実際、アメリカ戦のあと、ポイントを決めた時はほとんどが1発で決まる技でいっています。なるべく接近戦でガチャガチやらないようにして、常にフィニッシュ狙いで勝負していました。いつもとはちょっと違いましたが、その分、思い切ってできたので結構成功率も高くなって、結果的には足をけがして良かったかもなんて思うんですが…。相手はたぶん気づいていないと思うし、調子いいなくらいに思っていたのかもしれませんね(笑)。

金メダルを手にして思った。「これからは夢を見させる立場なんだ」

この歴史的快挙への原動力となったのは何でしょうか?
大学在学中に目指していたリオ五輪への出場がかなわず、当時はとても悔しい気持ちでした。でも今は、正直出られなくて良かったという気持ちです。たぶん、リオ五輪に出て中途半端な結果を残していたら、今回のような結果にはならなかったと思うんですよね。練習パートナーとしてですがチームに帯同して五輪の雰囲気をちゃんと味わえたし、競技者の側にいると感じづらいこともありました。そういう五輪の舞台を知っているという経験も自分の力になったと思うし、金メダルを獲れた要因の1つだと考えます。
もう1つは、結婚して子供もできたので、自分だけのためじゃなくて、誰かのために頑張るっていうのもありました。妻も五輪を目指していたフェンシング選手だったので、その夢の分まで頑張れるっていうのも、自分自身を強くしてくれたのだと思いますね。
昨年末に、自衛隊を辞めて所属先を新たにされましたが、その理由は?
今までは「金メダルを獲りたい」という自分の夢のためだけにフェンシングをやってきたんですが、実際に金メダルを獲って思ったのは、「これからは自分のためだけにフェンシングをやるのは違うな」ってことでした。フェンシングの金メダルを見て、「僕も頑張りたい」って言ってくれたり、新たにフェンシングを始めたいっていう子どもたちが出てくると思うので、イベントなどを通じてそういう子らを増やしていき、競技の普及・発展に力を入れていくという、“夢を見る立場”から “夢を見させる立場”になるのかなって思ったんです。もちろん、僕自身もまだまだ夢を追いかけるつもりですけど、その一方で違う立場でやるべきこともあると気づいたんです。そういう新しいことは僕がやるしかないなと思いましたし、いろいろチャレンジしていくためには環境を変えるしかないって決断しました。周囲には大反対されましたが(笑)、最終的には自分の気持ちを理解してもらえて良かったと思います。
それが「新たな挑戦」と表現されていたことなんですね。
そうですね。そういったところから始めて、どうしたらフェンシングをもっと発展させられるかというのを、現役選手としての自分と同時進行でやっていきたいなと思いました。さらに、アスリートだってスポーツだけやっていればいいわけじゃなくて、ちゃんと社会のことを知っておく必要があると思うので、イベントなどの機会を設けていろいろな企業の方からお話を聞かせていただいてしっかり外の情報を吸収し、そこからできることを考えたり、後輩の選手たちにもそういうことを教えたりして…、企業と共に成長していくっていうことも今後は大切だなと感じたんです。
地元の鳥羽市で子どもたちとの交流イベントもされていましたね。
五輪直後に地元に帰った時、飲食店で出会った女の子に金メダルをかけてあげたらすごい喜んでくれて、「私もこれが欲しいからフェンシングを始める」と言って、その日のイベントにも来てくれました。そこで「今度は僕に金メダルをかけてね」っていう話をしたんですが、それがすごいうれしかったし、思い出に残っています。こういうことを少しずつでもやっていけたらいいなって。今は「スマートフェンシング」というアプリを使って楽しめる玩具みたいなものがあるので、それを使ったイベントなどを開催してみたいと思っていますし、そこから将来的にフェンシングの方につながってくれたらいいなと考えています。

「フェンシングがどんどん好きに」新たな挑戦が始まる。

改めて、日大での4年間はどういう時代でしたか?
最初は文理学部の社会学科に入りましたが、競技と勉強を両立させるために体育学科に転科しました。そうしたら、僕が遠征などで授業に出られなかったり困った時などに、周りのみんなも同じような状況にあってわかるのですごい助けてくれたんです。その時は、日大ってとても仲間意識が強くて、助け合いができる大学なんだって強く感じました。フェンシング部の部員もいっぱいいて、みんなでまとまって何かをやることがすごい楽しいなって思ったし、日大での4年間で、何かを成し遂げるための仲間の大切さっていうことを学べたと思っています。その部分をもっと追求したいと思って入った自衛隊体育学校では、他の競技のアスリートたちと励ましあい、切磋琢磨しながらやってきましたし、次に新しい仲間を作るとしたら、今度は企業やさまざまなジャンルに広げていけたらもっと面白いなって考えて今回の決断になったんです。だから、新しい挑戦の元々のものっていうのは、日本大学が作ってくれたんだと思いますね。
次のパリ五輪も視野に入っているんですね?
もちろんです。五輪まであと2年半ほどなので、代表選考があと1年ぐらいで始まってきますが、今の世界ランキング(3位・2022年2月現在)を維持することと、五輪の前に世界選手権(11月・カイロ)でメダルを獲りたいなって思っています。世界選手権で日本の男子エペはまだメダルを獲ったことがないので、まずそこの1人目になれるように頑張りたいですし、獲れるタイミングは今回かなって思っているんで。そしてパリ五輪では今回獲れなかった個人戦でのメダル獲得と団体戦2連覇も目指していきます。
世界も研究してくると思いますが、どう対策や強化をしていきますか?
僕のプレースタイルは大きなリスクを背負うようなタイプではないのですが、もう少し駆け引きができるようになる必要がありますね。強化という点では筋力面。もうちょっと脚力を上げてしっかりしたフットワークを使えるようになれば、相手を誘い込む動きをしたり、強弱を使っていろいろできるようになると思うので、そこを課題に練習していこうかなと考えています。
最後に、山田選手にとってフェンシングとはどういうものでしょうか?
難しいですけど一言で言えば、ありきたりですけど「人生」ですかね。子どもの頃、体がすごい弱くて喘息持ちだったので、やりたかったいろいろなスポーツから全部断られました。その中でフェンシングだけが受け入れてくれたんです。フェンシングをやっていくうちに喘息も治りましたし、フェンシングを中心に中学はここ、高校はここって決めてきて、大学は日本大学に声をかけていただき、さらに自衛隊に入ってと…全部フェンシングに絡んだ人生なんですよね。だからこそ、どんどん、どんどんフェンシングが好きになってきました。なのでこれからは、フェンシングが自分だけの人生ではなく、みんなの人生に関わって「希望」のようなものになるように努めていきたいと思っています。
これからの活躍を期待しています。ありがとうございました。

Profile

山田 優[やまだ・まさる]

1994年生まれ。三重県出身。県立鳥羽高卒。2017年文理部卒。山一商事所属。長身を活かしたダイナミックな攻撃が持ち味で、本学在学中の2014年に世界ジュニア選手権で日本人初となる優勝を飾り、4年時にはインカレ個人戦でも優勝。卒業後は自衛隊に所属し、2019年はW杯エペ団体優勝に続き、アジア選手権で金メダルを獲得。2020年にはW杯グランプリ大会(ブダペスト)で、シニアの国際大会で初優勝を果たす。東京オリンピックでは個人戦で6位入賞を果たし、エペ団体で金メダルを獲得。五輪後の9月、国際フェンシング連盟発表のエペ個人世界ランキングでは自身初の1位となった。

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