中日ドラゴンズから横浜DeNAベイスターズに移籍した京田陽太選手(平29年・日本大学法学部卒)が1月13日、千葉・習志野市内の母校・日大グラウンドで自主トレーニングを公開した。年末年始も休みなく汗を流しており、「今年は勝負の年。休んでいる暇はありません」。かつての新人王も、昨年は出場わずか43試合。新天地での飛躍を誓う。

 

ちょっとVTRを巻き戻してみる。2015年春、東都大学2部リーグ。日大は勝ち点5で優勝し、拓大との入れ替え戦も2勝して、2012年秋以来となる1部昇格を決めた。そのリーグでは打率.407を記録し、入れ替え戦も2試合で9打数3安打2打点と昇格に貢献したのが、当時日大3年で四番を打っていた京田陽太選手だ。

1部昇格で即ベストナイン

「思い出します。入学したときは2部だったので、あの勝ったときの喜びは一番印象に残っていますね。それだけじゃなく、4年の秋には1部で優勝までできましたから……」
戦国といわれる東都で、日大の1部優勝は04年の春以来の快挙だった。キャプテンだった京田選手は「下級生のためにも、なんとか1部残留を」と打率.328の好成績で、Vを置き土産にドラフト2位で中日入り。1年目からショートのポジションを獲得し、球団新人最多記録の149安打で新人王に輝いている。
石川県能美市出身。あの松井秀喜氏と同郷で、市主催の応援ツアーに当選し、当時ニューヨーク・ヤンキースの松井氏と握手したことがある。となると、松井氏の母校である星稜高を志しそうなものだが、「県外での寮生活にあこがれた」京田選手が選んだのは、青森山田高だった。だが、同じ県内の光星学院(現八戸学院光星)高には田村龍弘(現ロッテ)、北條史也(現阪神)らがいて、甲子園には出場できていない。なにしろ光星はその時代、甲子園で3季連続準優勝と盤石だったのだ。
「ほかに同年代では、同じ東北の花巻東(岩手)に大谷翔平がいました。練習試合で対戦したときには、登板はしませんでしたが、打席ではすごい打球を打っていた。こすったような当たりでホームランですから」

新しい環境にむしろ感謝して

渡辺英昭コーチのノックを受ける京田選手。

渡辺英昭コーチのノックを受ける京田選手。

高校ですでに寮生活を経験したから、日大でのそれも苦ではなかった。1年春から2部リーグに出場し、3年春に昇格を決める。秋に初めて経験した1部は、「2部と違い、神宮というすばらしい球場ですし、お客さんも多い。すごい緊張感」と勝手が違ったが、それでもリーグ最多の8盗塁を記録してベストナインに輝くのだから、ただ者じゃない。迎えた、4年春。京田選手は、キャプテンになっていた。こう、明かす。
「3年生まではどちらかというと"自分が、自分が"というタイプ。ですがキャプテンになって、もっと周囲を見て、人の話を聞き、コミュニケーションを取らなくちゃ、と考えを変えたんです。それでなんとか、チームはうまく回るようになったんですが……」
その春、自身の成績は不本意だった。夢であるプロ入りには勝負の年なのに、だ。チームの主力は下級生がほとんどで、それをまとめることに多くのエネルギーを消費したからかもしれない。仲村恒一監督(当時)は、苦しむ京田選手の姿を見かねたのか、こう声をかけたという。自分のことだけ考えて、好きにやっていいから——。ちょうどそのころ、現監督の片岡昭吾氏がグラウンドに来てくれるようになり、打撃改造にも取り組んだ。その成果が、4年秋の優勝と打率.328、そしてプロでの活躍に結びついたといってもいい。

 

中日では、新人王を取った1年目からほぼフル出場を続け、毎年2割5分前後の打率を残してきた。ショートの守備も堅実で、18、19年にはリーグトップの守備率を残してもいる。だが……昨シーズンは、打撃不振もあって出場は自身最少の43試合にとどまり、オフにDeNAへの移籍が決まった。選手会長の移籍はちょっとしたニュースだったが、もう吹っ切れた。

プロ球界だけではなく政・財・官界、文化芸能と各ジャンルに出身者の多い日大。「去年、試合に出られず苦しいときにも、たくさんの方から連絡をいただきました」

プロ球界だけではなく政・財・官界、文化芸能と各ジャンルに出身者の多い日大。「去年、試合に出られず苦しいときにも、たくさんの方から連絡をいただきました」

「プロは結果がすべての世界。トレードは自分のせいだとわかっていますし、むしろ新しい環境を与えてくれたことに感謝したい。2月25日のオープン戦で中日と当たりますので、『ちょっと今年、京田はやばいな』と思ってもらえるようにしたいですね」。
 いまは、打撃の正確性を求め、しっくりきていた大学4年時の感覚を見つめ直しているところだ。懐かしいグラウンドでの自主トレ。京田選手は、当時をこう振り返る。
 
「あのころは毎日毎日、練習が終わったあと、三塁側ダグアウトのわきで壁当てをするのが日課でした。50球、100球、状況を想定して足を動かし、ショートバウンドもシングルキャッチも、かたちを意識しながらコツコツと継続していた。歯磨きのように、それをやらないと気が済まなかったんです。目標はなんでも、そこに向かって根気よくなにかを継続していくこと。いまの学生にアドバイスするとしたら、そこですね」

なるほど。どんなに高い山でも、1歩1歩を地道に進めば、確実に頂上に近づくというわけか。京田選手が、何千球も壁当てしたフェンス。ボールの当たった箇所がよほど黒ずんでいたのか、すでにきれいに塗り直されているという。

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