年号 | 西暦 | 月 | 日大の歩み | 世の中の動き |
---|---|---|---|---|
明治15年 | 1882 | 8月 | 皇典講究所創設 | |
明治22年 | 1889 | 2月 | 大日本帝国憲法公布 | |
10月 | 日本法律学校(現・法学部)創立 | |||
明治23年 | 1890 | 9月 | 東京・飯田橋の皇典講究所で開校式挙行 | |
明治24年 | 1891 | 5月 | 大津事件 | |
明治26年 | 1893 | 7月 | 日本法律学校第1回卒業式挙行 | |
12月 | 日本法律学校が司法省指定学校となり、 判事検事登用試験の受験資格を与えられる |
|||
校友会を設置 | ||||
明治27年 | 1894 | 7月 | 日清戦争(~明治28年4月) | |
明治28年 | 1895 | 10月 | 校舎を大日本教育会(神田区一ツ橋通)内に移転 | |
明治29年 | 1896 | 6月 | 東京・神田三崎町に初の 校舎落成 | |
明治31年 | 1898 | 3月 | 高等専攻科を設置 | |
12月 | 財団法人組織となる | |||
明治34年 | 1901 | 10月 | 高等師範科(現・文理学部)設置 | |
明治36年 | 1903 | 2月 | 高等予備科・高等法学科設置 | |
8月 | 校名を日本大学と改称する | |||
徽章、制服、制帽を制定 | ||||
10月 | 外国語専修部(英語・ドイツ語専修科)を設置 | |||
明治37年 | 1904 | 2月 | 日露戦争(~明治38年9月) | |
3月 | 専門学校令による大学となる | |||
大学部に政治科・商科(現・経済学部ならびに商学部)を設置 | ||||
明治38年 | 1905 | 9月 | 専門部に外国語科設置 | |
明治39年 | 1906 | 1月 | 学年制を廃止し学科目制を採用 | |
8月 | 初の留学生を欧州に送る(山岡萬之助) | |||
10月 | 初の創立記念式典を挙行 | |||
明治41年 | 1908 | 2月 | 日本高等予備校設置 | |
明治43年 | 1910 | 3月 | 高等師範部研究科設置 | |
6月 | 幸徳秋水逮捕される(大逆事件) | |||
大正2年 | 1913 | 2月 | 中学校を設置(現・一高、一中) | |
大正3年 | 1914 | 4月 | 「建学の主旨及綱領」を制定 | |
7月 | 第一次世界大戦 (~大正7年11月) |
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大正6年 | 1917 | 4月 | 専門部に宗教科設置 | |
大正7年 | 1918 | 8月 | 米騒動 | |
12月 | 大学令公布 |
年号 | 西暦 | 月 | 日大の歩み | 世の中の動き |
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大正9年 | 1920 | 1月 | 国際連盟発足 | |
4月 | 大学令による大学設立 初めて女子の入学許可 |
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5月 | 校歌を制定 | |||
6月 | 高等工学校を設置(現・理工学部) | |||
9月 | 本学初の女子学生大会を開催 | |||
大正10年 | 1921 | 3月 | 美学科(現・芸術学部)設置 | |
4月 | 東洋歯科医学専門学校を合併(創立は大正5年、現・歯学部) | |||
9月 | スクール・カラーを制定 | |||
10月 | 日大新聞(現「日本大学新聞」)を創刊 | |||
11月 | ワシントン会議 (~大正11年2月) |
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大正11年 | 1922 | 3月 | 大学旗を作製 | |
総長制を創設 | ||||
12月 | ソビエト社会主義共和国連邦成立 | |||
大正12年 | 1923 | 3月 | 校歌を改定 | |
5月 | 初の全学陸上大運動会を開催 | |||
9月 | 関東大震災により本学施設の 大部分を焼失 |
関東大震災 | ||
三崎町の焼け跡で学生大会開催 | ||||
大正14年 | 1925 | 3月 | 専門部医学科(現・医学部)設置 | |
日本大学専門学校を大阪に設置(現・近畿大学) | ||||
5月 | 普通選挙法公布 | |||
大正15年 | 1926 | 11月 | 医学科付属病院開院(現・日本大学病院) | |
昭和2年 | 1927 | 3月 | 第二中学校を設置(現・二高、二中) 大阪中学校を設置(現・大阪高) |
|
4月 | 兵役法公布 | |||
9月 | 三崎町新校舎落成式挙行 | |||
12月 | 幼稚園を設置 | |||
昭和4年 | 1929 | 3月 | 工業学校を設置(現・習志野高) | |
5月 | 新校歌を制定(現在の校歌) | |||
10月 | 赤坂中学校を合併(現・三高、三中) | |||
昭和5年 | 1930 | 3月 | 第四中学校を設置(現・日大高、中) | |
4月 | ロンドン海軍軍縮条約調印 | |||
昭和6年 | 1931 | 9月 | 満州事変 | |
昭和7年 | 1932 | 1月 | 駿河台病院附属看護婦養成所を設置 (現・医学部附属看護専門学校) |
|
5月 | 犬養首相暗殺される(5・15事件) | |||
昭和8年 | 1933 | 3月 | 日本が国際連盟を脱退 | |
昭和10年 | 1935 | 1月 | 東京箱根駅伝競走大会で本学チームが初優勝 | |
2月 | 天皇機関説事件 | |||
5月 | 医学科付属板橋病院開院(現・医学部付属板橋病院) | |||
昭和11年 | 1936 | 2月 | 図書館を開設 | |
2・26事件起こる | ||||
3月 | 大学旗・科旗・校旗を制定 | |||
昭和12年 | 1937 | 1月 | 大阪に日本工学校を設置 | |
3月 | 板橋病院附属看護婦養成所を設置 | |||
7月 | 盧溝橋事件(日中戦争) | |||
12月 | 世田谷予科を開設 | |||
昭和13年 | 1938 | 4月 | 国家総動員法公布 | |
10月 | 創立50年記念式典を挙行 | |||
昭和14年 | 1939 | 1月 | 大阪に日本工業学校を設置 | |
9月 | 第二次世界大戦始まる | |||
昭和15年 | 1940 | 2月 | 日本大学大阪専門学校を、財団法人大阪専門学校へ移管(現・近畿大学) | |
昭和16年 | 1941 | 12月 | 日米開戦(~昭和20年) | |
昭和18年 | 1943 | 5月 | 農学部を神奈川県藤沢市に設置(現・生物資源科学部) | |
10月 | 文部省主催出陣学徒壮行会挙行 (神宮外苑競技場) |
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昭和20年 | 1945 | 3月 | 東京大空襲により 神田一帯焦土と化す |
|
8月 | ポツダム宣言受諾 |
年号 | 西暦 | 月 | 日大の歩み | 世の中の動き |
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昭和21年 | 1946 | 4月 | 三島予科を静岡県三島市に設置 | |
5月 | 東京裁判開廷 | |||
7月 | 理事長制を創設 | |||
11月 | 日本国憲法公布 | |||
昭和22年 | 1947 | 3月 | 専門部工科(現・工学部)を福島県郡山市に移転 | 教育基本法・学校教育法公布(6・3・3・4制) |
昭和23年 | 1948 | 11月 | 通信講座(現・通信教育部)を設置 | |
昭和24年 | 1949 | 2月 | 新学制に移行(第一部の7学部34学科) | |
3月 | 新学制に移行(第二部の4学部15学科) 農林高校を設置(現・藤沢高) |
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4月 | 「建学の主旨及綱領」を改め「目的および使命」を制定 | |||
8月 | 全米水上選手権に本学から 古橋廣之進ら4名が出場 |
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10月 | 創立60周年記念式典を挙行 | |||
12月 | 私立学校法公布 | |||
昭和25年 | 1950 | 2月 | 世田谷高校を設置(現・櫻丘高) | |
3月 | 短期大学を設置(現・短期大学部) | |||
6月 | 朝鮮戦争(~昭和28年) | |||
昭和26年 | 1951 | 2月 | 学校法人組織となる東北工業高校を設置(現・東北高) | |
4月 | 大学院を設置 | |||
9月 | サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約調印 | |||
10月 | 東京獣医畜産大学付属高等学校を合併、 鶴ヶ丘高校と名称変更 |
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11月 | 農学部に東京獣医畜産大学を吸収合併 | |||
昭和27年 | 1952 | 2月 | 医学部医学科、歯学部歯学科が新学制に移行 工学部に薬学科(現・薬学部)および工業経営学科(後の第一工学部、現・生産工学部)設置 |
|
3月 | 農学部に獣医学科を増設し、農獣医学部と改称 | |||
10月 | 初の「総合大学祭」を開催 | |||
昭和29年 | 1954 | 4月 | 歯学部附属歯科技工士養成所を設置 (現・歯学部付属歯科技工専門学校) |
|
8月 | 豊山高校・中学校を合併(現・豊山高、中) | |||
昭和31年 | 1956 | 4月 | 卓球世界選手権(東京)で 荻村伊智朗が男子シングルスで優勝 |
|
10月 | 日ソ共同宣言(国交回復) | |||
12月 | 日本、国際連合に加盟 | |||
昭和32年 | 1957 | 12月 | 三島高校を設置 | |
昭和33年 | 1958 | 1月 | 文学部に中国文学科、地理学科、数学科、物理学科を増設し文理学部と改称 工学部に物理学科を増設し理工学部と改称 |
|
4月 | 歯科衛生士養成所を設置 (現・歯学部附属歯科衛生専門学校) |
|||
6月 | 日本大学講堂を設置 | |||
12月 | 東京タワー完工 | |||
昭和34年 | 1959 | 9月 | 「目的および使命」を改正 | |
10月 | 創立70周年記念式典を挙行 | |||
昭和35年 | 1960 | 4月 | 明誠高校を設置 | |
5月 | 60年安保闘争(~6月) | |||
昭和37年 | 1962 | 10月 | キューバ危機 | |
11月 | 山形第一高校を合併(現・山形高) | |||
昭和38年 | 1963 | 4月 | 商学部砧校舎開設 | |
12月 | 原子力研究所を設置 | |||
昭和39年 | 1964 | 10月 | オリンピック東京大会、日本代表選手・役員として52名が参加 | 東京オリンピック開催 |
東海道新幹線開業 | ||||
昭和41年 | 1966 | 1月 | 第一工学部を生産工学部と改称、 第二工学部を工学部と改称 |
|
2月 | 「リネット号」が日本最初の 人力飛行に成功 |
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3月 | 豊山女子高校を設置 | |||
昭和44年 | 1969 | 7月 | アポロ11号月面に着陸 | |
11月 | 最初の日本大学付属高等学校統一テスト実施 | |||
昭和45年 | 1970 | 3月 | 大阪で日本万国博覧会開幕 | |
昭和46年 | 1971 | 2月 | 日本大学松戸歯科大学を設置(現・松戸歯学部) | |
6月 | 沖縄返還協定調印 | |||
昭和47年 | 1972 | 9月 | 日中国交正常化 | |
昭和48年 | 1973 | この年、第1次オイルショック | ||
昭和49年 | 1974 | 4月 | 松戸歯科大学附属歯科衛生専門学校を設置 (現・松戸歯学部附属歯科衛生専門学校) |
|
昭和50年 | 1975 | 10月 | 日本大学松戸歯科大学を廃止し、松戸歯学部を設置 | |
昭和53年 | 1978 | 4月 | 日本大学北極遠征隊が北極点に到達 | |
5月 | 新東京国際空港(成田空港)開港 | |||
12月 | 国際関係学部設置 | |||
昭和54年 | 1979 | 1月 | 国公立大学共通一次試験開始 | |
4月 | 人口研究所設置 | |||
7月 | 医学部付属総合健診センター開設 | |||
9月 | 「顕義園」を学祖生誕地・山口県萩市に開設 | この年、第2次オイルショック | ||
昭和57年 | 1982 | 2月 | 生産工学部実籾校舎を開設 | |
7月 | 日本大学会館が落成 | |||
昭和60年 | 1985 | 10月 | 豊山女子中学校を設置 | |
11月 | 「大学発祥記念碑」を皇典講究所跡地に建立 | |||
昭和62年 | 1987 | 4月 | 国鉄分割民営化、JR各社開業 | |
5月 | マサチューセッツ工科大学(アメリカ)と 共同研究プログラム契約に調印 |
|||
12月 | 薬学部を設置 | |||
昭和63年 | 1988 | 11月 | 山形中学校を設置 |
年号 | 西暦 | 月 | 日大の歩み | 世の中の動き |
---|---|---|---|---|
平成元年 | 1989 | 4月 | 「山田顕義終焉之地」記念碑を兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市生野町)に建立 | |
6月 | 天安門事件 | |||
7月 | 学祖山田顕義墓所(文京区・護国寺)改修、開眼法要を挙行 | |||
10月 | 創立100周年記念式典を挙行 | |||
11月 | 法学部創設100周年記念式典を挙行 | |||
平成2年 | 1990 | 1月 | 大学入試センター試験開始 | |
10月 | 東西ドイツ統一 | |||
平成3年 | 1991 | 4月 | 長崎日本大学中学校設置 | |
12月 | ソビエト連邦崩壊 | |||
平成6年 | 1994 | 10月 | 総合学術情報センター開設 | |
平成7年 | 1995 | 1月 | 阪神・淡路大震災 | |
12月 | 農獣医学部を生物資源科学部と名称変更 | |||
平成8年 | 1996 | 1月 | 本学エベレスト登山隊一九九五が朝日スポーツ賞を受賞 | |
平成10年 | 1998 | 6月 | ケンブリッジ大学(イギリス)ペンブルック・ カレッジ共同学寮落成 |
|
11月 | NUBIC(国際産業技術・ビジネス育成センター)を開設(現・産官学連携知財センター) | |||
平成11年 | 1999 | 4月 | 大学院総合社会情報研究科(通信制大学院)、 大学院グローバル・ビジネス研究科を設置 |
|
平成13年 | 2001 | 4月 | 日大iクラブ発足 | |
9月 | アメリカで同時多発テロ事件 | |||
11月 | 文理学部創設100周年記念式典を挙行 | |||
平成14年 | 2002 | 1月 | EU(欧州連合)で、単一通貨ユーロ使用開始 | |
平成15年 | 2003 | 3月 | 三島中学校を設置、土浦日本大学中学校、 札幌日本大学中学校を設置 |
|
平成16年 | 2004 | 4月 | 大学院法務研究科(ロースクール)設置 | |
総合生涯学習センターを開設 | ||||
長野日本大学中学校を設置 | ||||
10月 | 新潟県中越地震 | |||
11月 | 山田顕義生誕160年記念植樹式(萩:顕義園にて) | |||
経済学部・商学部創設100周年記念式典を挙行 | ||||
平成17年 | 2005 | 2月 | 京都議定書発効 | |
3月 | 日本国際博覧会〔愛知万博〕開催(~9月) | |||
平成18年 | 2006 | 4月 | 薬学部薬学科(6年制)を設置 | |
平成19年 | 2007 | 6月 | 本学の教育理念を「自主創造」とし、新ロゴ及びキャッチフレーズを決定 | |
平成20年 | 2008 | 10月 | この年より、世界金融危機が始まる | |
平成21年 | 2009 | 3月 | 藤沢中学校を設置 | |
平成22年 | 2010 | 6月 | 桜門会館を開設 | |
平成23年 | 2011 | 3月 | 東日本大震災 | |
平成25年 | 2013 | 4月 | 総長制から学長制に移行 | |
平成26年 | 2014 | 4月 | 消費税8%に | |
10月 | 日本大学病院開院 | |||
平成27年 | 2015 | 3月 | 北陸新幹線開業 | |
4月 | 藤沢小学校開校 | |||
6月 | 選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げ | |||
平成28年 | 2016 | 3月 | 北海道新幹線開業 | |
4月 | 「危機管理学部」「スポーツ科学部」を開設 | 熊本地震 | ||
12月 | 日本大学教育憲章の制定 | |||
平成29年 | 2017 | 4月 | 日本大学認定こども園を開園 | |
12月 | 学校法人日出学園と準付属契約を締結 | |||
平成30年 | 2018 | 9月 | 北海道地震 | |
平成31年 | 2019 | 4月 | 日出中学校・高等学校・幼稚園が目黒日本大学中学校・高等学校・幼稚園と校名変更 | 天皇在位30年、のちに退位 |
令和元年 | 2019 | 5月 | 新天皇即位 | |
新年号「令和」 | ||||
10月 | 創立130周年記念式典を挙行 | |||
令和2年 | 2020 | 4月 | 緊急事態宣言のため入学式を中止 | 新型コロナウイルス対策特別措置法に基づく緊急事態宣言発出 |
5月 | 前学期の授業をオンラインで開始 | |||
令和3年 | 2021 | 6月 | 新型コロナウイルスワクチン大学拠点接種をお茶の水、芸術学部の2会場で開始 | |
令和5年 | 2023 | 4月 | 生物資源科学部を改組し新学科体制に移行 | |
4月 | 大学院危機管理学研究科、大学院スポーツ科学研究科設置 | |||
4月 | 日本大学ダイバーシティ推進宣言を表明 | |||
5月 | 新型コロナウイルス感染症の分類が「5類」に引き下げられる | |||
10月 | 日本大学違法薬物追放宣言を表明 |
明治22年(1889)10月4日、時の司法大臣山田顕義と宮﨑道三郎・金子堅太郎など11名の若手学者の尽力により、日本大学の前身である日本法律学校が誕生しました。欧米諸国の法律を教える法律学校がほとんどだった当時、日本法律を教授する学校の誕生は、大いに独自性を発揮しました。創立当初は飯田町(現飯田橋)にあった皇典講究所を借りて開講されました。
学祖山田顕義が死去した翌年の明治26年(1893)、日本法律学校は廃校の危機に立たされました。このとき、教職員らとともに学校存続に尽力したのが、第一回日本法律学校卒業生たちでした。廃校の難局を乗り切った明治26年12月、学校存続に尽力した講師・学生・卒業生合同の慰労会が開催され、この席上、本学の校友会が誕生することとなりました。
創立当初より皇典講究所の建物を借りて開講していた日本法律学校でしたが、明治29年(1896)6月、ついに神田三崎町の地に初の校舎を建設しました。当時、三崎町練兵場跡地は、三菱の岩崎家が所有していましたが、その土地を借り受け、建物は駿河台の小松宮邸の付属家屋を譲り受けました。
明治36年(1903)3月、専門学校の認可基準を定めた最初の統一的法規として専門学校令が公布されました。これに伴い、公私立の専門学校は、法的根拠に基づく正式な高等教育機関としての地位を獲得しました。
日本法律学校は、大学組織に移行する前段階として、明治36年、高等予備科・高等法学科を設置し、大学組織への移行を進めて、学則改正の認可申請を文部大臣に申請しました。明治36年8月19日、校名を「日本大学」と改称します。
しかし、日本法律学校が日本大学と改称するにあたり、文部省はかなり難色を示しましたが、戸水寛人(ひろんど)らの熱心な運動により、明治36年9月から本学は無事に「日本大学」と呼称することができ、翌年には専門学校令による認可を受けることとなりました。
明治39年(1906)、刑法・刑事訴訟法研究のため、校友山岡萬之助がドイツ留学に派遣されました。山岡は、帰国後の明治43年(1910)より本学教授となり、後に第3代総長に就任しました。また、山岡は司法省にも出仕して監獄局長・刑事局長等を務め、旧少年法の成立や監獄法改正作業などに尽力しました。
大正7年(1918)の大学令公布により、官立の帝国大学以外に公立・私立の大学の設置が認められたことで、本学も大正9年に大学令による「日本大学」設置が認可されました。そして、創立30周年記念校舎として建築された新校舎が大正9年(1920)に完成し、大学昇格祝賀会・大正8年度卒業式などが開催されました。しかし、大正12年の関東大震災により、わずか3年で全壊しました。
最初の校歌は、大正9年(1920)5月16日に行われた大学令による大学昇格祝賀会で歌うために、学生の発案でその前日から一晩でつくられたものに過ぎませんでした。
そうした事情から、正式な校歌制定を求める声が上がり、大正12年(1923)2月には、作詞を一般学生から公募することになりました。その結果、学生3名の作品が選ばれ、3作の歌詞を合作した上で、音楽家の梁田貞(やなだただし)に作曲を依頼し、正式な校歌が制定されたのです。そのため、この校歌には特定の作詞者は存在しません。
現在の校歌は、昭和4年5月に誕生しました。自然主義派の詩人・相馬御風(そうま ぎょふう)、日本を代表する作曲家・山田耕筰(やまだこうさく)の手によるものです。初代、二代の校歌の精神を受け継いだ詩に斬新さが加わり、曲は明るく軽快で、しかも荘重さを帯びています。当時は歌詞が難解だとの声もあったと聞きますが、今では校歌集のなかでも名曲のひとつとなっています。
スクールカラーは大学昇格翌年の大正10年(1921)に選定され、当初は「紅(こう)」でした。大正11年制定の大学旗(当時は校旗)にもその色が使われましたが、昭和33年(1958)にあらためて「緋」色と定められました。運動競技で目にする「ピンク(桜色)」については、大正11年、箱根駅伝に初参加した際に、すでに「赤」を使用している大学があったため、混同しないために使用したのが始まりとされています。
大正10年(1921)10月、『日大新聞』が創刊されました。普通新聞紙大で4ページ、月2回発行、1部5銭(年間1円20銭)でした。大学新聞としては、慶應義塾大学の『三田新聞』・東京帝国大学の『帝国大学新聞』に続く3番目の早さでした。日大新聞学会が主催した政治問題・社会問題に関する講座や講演会の反響が大きく、学生や教員から機関新聞の発行の声が盛り上がり、学生たちの熱意が実って創刊されたものです。
大正12年(1923)5月27日、前年に取得した府中のグラウンドで本学初の全学陸上大運動会を開催しました。100m走をはじめ、スプーンレース、仮装行列、近隣小学校生徒の200m走など、趣向を凝らした種目が実施されました。この運動会は、日頃顔を合わせない他科の学生との交流を深め、学生の士気を鼓舞するのに重要な役割を果たしました。
大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災は、新たなスタートを切ろうとしていた本学にも甚大な被害を与えました。三崎町新校舎・駿河台校舎・建設中の付属中学校舎など施設の全焼、松岡康毅総長の遭難死と悲劇に襲われましたが、すぐさま授業再開を目指して復興委員会が組織され、学生救護班の活躍もあって10月1日には授業再開が実現したのです。
日本大学が箱根駅伝に参加したのは第3回大会(大正11年)からでした。しばらく成績は振るいませんでしたが、選手・陸上部OBの懸命な努力と大学の一体となっての応援が実り、第16回大会(昭和10年)で悲願の初優勝を成し遂げました。その後19回大会(昭和13年)まで4連覇を達成し、「駅伝王国」の地位を築きました。
戦時下にあっても高等教育機関在学生は徴兵が猶予されていましたが、昭和18年(1943)10月2日、文系専攻の学徒に対しては徴兵猶予が停止されることになり、21日、文部省と学校報国団主催の「出陣学徒壮行会」が神宮外苑競技場において催されました。さらに日本大学では11月17日、小石川の後楽園球場で独自の学徒出陣壮行式を開催しました。
昭和24年(1949)8月、日本が国際水泳連盟復帰後初の国際大会である全米水上選手権に、本学から古橋廣之進・橋爪四郎など4名が参加しました。とくに古橋は400m、800m、1600m、800mリレーで世界新記録を樹立しました。水泳王国アメリカで開催された大会で、日本人選手が次々に世界新記録を更新する姿は、敗戦で沈んでいた日本人の心に大きな希望の光をもたらしました。
昭和22年(1947)に公布された「学校教育法」により、日本大学は新制大学として再スタートすることになりました。24年に法・文・経済・芸術・工・農・第二工の7学部が認可され(医・歯学部は27年に認可)、通信教育も開講しました。同年10月には昭和天皇をお迎えしての「創立60周年記念式典」も挙行され、新たな時代の幕開けとなりました。
戦後初の全学一体の行事は昭和21年(1946)10月に実施された陸上体育大会でした。大学祭については、各学部の事情を踏まえ、順次開催されたため、日程や内容なども各学部によって異なっていました。昭和25年頃になると、個別的な学部祭を廃して全学統一の学園祭を実施したいという学生の声が上がりました。
昭和27年10月20日から、1週間にわたり、本学初の「総合大学祭」が開催されることとなりました。各学部の展示会や講演会などは従来どおり各部科校の施設を利用して実施されましたが、学生が一同に会して神田共立講堂で実施された統一芸能祭は、とくに注目を集めました。芸能祭は、各部科校が合同で演劇・音楽・舞踏などの演目を実施し、午後1時、午後5時の2部構成で3日間にわたり開催されました。
総合大学祭は、経済面や会場などの条件が整わず、翌28年、29年は部科校ごとの大学祭となりましたが、昭和30年からは「統一大学祭」と称して再開され、日大紛争が顕在化する昭和42年度まで毎年開催されました。
現在は学部ごとで開催しています。
学部 | 学部祭名 | 学部 | 学部祭名 |
---|---|---|---|
法学部 | 法桜祭 | 生産工学部 | 桜泉祭 |
文理学部 | 桜麗祭 | 工学部 | 北桜祭 |
経済学部 | 三崎祭 | 医学部 | 翠心祭 |
商学部 | 砧祭 | 歯学部 | 桜歯祭 |
芸術学部 | 日芸祭 | 松戸歯学部 | 松戸祭 |
国際関係学部 | 富桜祭 | 生物資源科学部 | 藤桜祭 |
危機管理学部・スポーツ科学部 | 三茶祭 | 薬学部 | 桜薬祭 |
理工学部(駿河台) | 青駿祭 | ||
理工学部(船橋) | 習志野祭 |
この時期の本学卓球部は、荻村伊智郎と田中利明という世界レベルの選手を2人輩出しています。昭和29年~32年までの世界選手権男子シングルスで、荻村は昭和29・31年、田中は昭和30・32年と4年連続世界一の王座を日本大学関係者が独占しました。とくに、昭和31年に東京で開催された世界選手権は荻村と田中の決勝戦となり、熱戦の末、荻村が優勝を果たします。彼らの活躍もあり、日本に空前の卓球ブームが沸き起こりました。
多くの学部を擁する日本大学は、入学式や卒業式など全学で統一した式典が挙行できる大講堂を設けることが念願でした。昭和33年(1958)に日本相撲協会から旧国技館(墨田区両国)を購入し、それを実現することができました。日本大学講堂は、巨大ドーム式の特徴ある建築様式で、日本大学を象徴する建物として有名になりました。昭和58年、老朽化のため取り壊されました。
「日本法律学校設立主意書」に記されている日本法律学校の創立目的を要約すると、日本の法律は新旧を問わず学ぶ、海外の法律を参考として長所を取り入れる、日本法学という学問を提唱するという3点です。欧米法教育が主流な時代にあって、日本法律を教育する学校の誕生は、大いに独自性を発揮することとなりました。
その後、明治36年(1903)には、校名を日本大学として大学組織にあらため、翌37年、専門学校令による認可を受けました。大正3年(1914)、「日本大学建学の主旨及び綱領」が制定され、日本大学の建学の理想と教学方針が示されました。この主旨及び綱領は、戦時下において、時代背景に応じた数度の改編が行われました。大正9年(1920)、大学令による大学となり、本学は総合大学への道を歩むこととなりました。
昭和24年(1949)、新制大学として再スタートした本学は、「日本大学の目的及び使命」を制定しています。しかし、この目的及び使命は、教育基本法に準じたものではあるが本学の伝統から離れており、私学の独自性が発揮されないという意見が出されました。これにより、「日本大学の目的及び使命」改訂の検討がなされ、昭和34年(1959)、本学70周年を迎える際に、現在の表現に改訂しました。
昭和30年代に入ると、世界的に原子力の平和利用が進められるようになりました。日本大学はいち早く原子力研究に着手し、日本で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹を顧問に迎え、昭和32年(1957)に工学部(現・理工学部)に原子力研究所を発足し、昭和38年には本部直属となりました。原子力研究所は、当時最先端の研究であった核融合に注目し、昭和37年に日本で最初の高温プラズマの発生に成功しました。
昭和39年(1964)に開催されたオリンピック東京大会には、本学から45人の選手と7人の役員が参加しました。日本代表選手団は男女併せて355名でしたので、実に12%強の選手が本学関係者でした。
体操団体では、本学から遠藤幸雄・早田卓次(はやたたくじ)が出場して、見事に金メダルを獲得し、個人種目でも、遠藤が個人総合・平行棒、早田がつり輪で金メダルを獲得しました。レスリングでは、吉田義勝がフリーのフライ級で優勝しています。
オリンピック東京大会(1964年)本学関係入賞者
競技種目 | 選手 |
---|---|
【優勝(金メダル)】 体操・団体総合(男子) 体操・個人総合 体操・つり輪 体操・平行棒 レスリング・フリー・フライ級 |
遠藤幸雄・早田卓次 遠藤幸雄 早田卓次 遠藤幸雄 吉田義勝 |
【2位(銀メダル)】 体操・床運動 |
遠藤幸雄 |
【3位(銅メダル)】 レスリング・フリー・フライ級 バレーボール・男子 |
堀内岩雄 佐藤安孝 |
【4位】 水泳・200m背泳 水泳・400mリレー |
福島滋雄 後藤忠治 |
【5位】 水泳・400mメドレーリレー 体操・鉄棒 レスリング・フリー・ミドル級 |
福島滋雄・中島功・石川健二 遠藤幸雄 佐々木龍雄 |
【6位】 体操・つり輪 体操・跳馬 |
遠藤幸雄 遠藤幸雄 |
本学教員の木村秀政は飛行機好きの学生と人力飛行機の作製に挑戦しました。しかし、高い技術が要求されるため失敗の連続でした。ようやく昭和41年(1966)に「リネット号」が、わずか15mでしたが日本最初の人力飛行に成功しました。その後、先輩から後輩へと改良が積み重ねられ、昭和51年に飛行距離の日本記録、翌52年には世界記録を樹立しました。
昭和53年(1978)4月28日、日本大学北極点遠征隊が、日本人として初めて北極点に到達しました。カナダ最北端エルズミーア島ヘクラ岬のベースキャンプを出発して48日目、782kmを犬ぞりで走破した多和田、大島、中村、ペアリー、クリスチャンセンのアタック隊5名が極点に到達。日本・デンマーク・カナダ国旗とともに日大旗が翻りました。
昭和54年(1979)に設置された人口研究所は、日本で唯一の大学の人口問題に関する研究機関です。人口問題解決に貢献するため、研究のフィールドは国内だけでなく世界におよんでいます。とくにアジアに視点をおいて調査・研究を行い、その活動は社会的に高い評価を得ています。
千代田区三崎町にあった本部棟は老朽化が進み、また手狭でもあったので十分に機能しなくなりました。そこで、昭和57年(1982)に創立90周年記念事業の一環として、千代田区九段南に日本大学会館を建設しました。同会館は、本部と学部・付属校の有機的な結びつきを図るとともに、国際交流を促進し、教育・研究の発展に寄与するセンター的な存在としての役割をになっています。
創立100周年に当たる平成元年(1989)10月4日、品川の高輪プリンスホテルに天皇・皇后両陛下をお迎えして、記念式典が行われました。関連して同年には、護国寺にある山田顕義の墓所改装や、兵庫県生野での「山田顕義終焉之地」記念碑除幕式などの各種事業・式典が行われました。
第8代木下総長は、「世界の日本大学」の実現に向けて、国際化と情報化に対応した教育改革に取り組み、平成6年(1994)には、創立100周年記念事業の一環として「総合学術情報センター」を設置しました。これにより分散しているキャンパスをつなぐ学内の情報ネットワークが整備され、本学が総合性を発揮するうえでの基盤が整ったのです。
日本大学は、平成元年(1989)10月に創立百周年を迎えましたが、少子化社会など、大学を取り巻く状況の急速的変化に対応し、21世紀に向けた世界的総合大学に発展すべく、さまざまな取り組みを開始しました。
そのひとつとして、平成19年(2007年)に、グローバリゼーションに対応できる人材を育成するための、「日本大学の目的および使命」に記載されている「自主創造」を、本学の教育理念としました。
「日本大学桜門会館」は、校友が一堂に会して親睦を深め、校友同士または校友と学生が有益な情報交換を行うための新活動拠点として、平成22年(2010年)6月30日に開館しました。
異なる分野で事業を行う校友同士が出会うことによって新たなビジネスチャンスが生まれ、学生にとっては就職活動の、校友にとっては人材発掘の場となるような、まさに市場活動に 直結する交流の拠点ですが、今後は政治の分野にも注力し、松下政経塾のような組織をつくって将来の日本を担う政治家を育成するというプランも視野に入れています。
2019年10月、創立130周年記念式典が帝国ホテル東京で開催され、式典に約820人、その後の祝賀会には約1,500人が参加した。
創立130周年記念事業としてこれまで、新病院開院、認定こども園、小学校や危機管理学部、スポーツ科学部の二つの学部を開設、地方からの学生に対する経済的支援として、学生寮も新設。また毎年度1,000名を対象とした大規模な給付型奨学金制度(創立130周年記念奨学金)もスタートした。