日本大学の歴史

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日本大学への改称に尽力 戸水 寛人 Hirondo Tomizu

1861年生~1935年没

戸水 寛人

明治30年代、日本法律学校は校名を日本大学と改称し、高等教育機関としての組織拡充を図ります。当時は、松岡康毅(まつおかやすこわ)が学長に就任していましたが、彼の下で平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)、戸水寛人(とみずひろんど)が理事として学校運営を担いました。この時期に、高等師範科の設置、日本大学への改称に尽力したのが戸水寛人でした。

出生から留学まで

戸水寛人は、文久元年(1861)6月、金沢藩士戸水信義の長男として生まれました。幼少期は金沢で漢学者河波有道(かわなみありみち)の私塾で学びましたが、明治期のジャーナリストとして著名な三宅雪嶺(みやけせつれい)も同時期に河波の塾で学んでいました。ちなみに戸水の師である河波は、安政5年(1858)に江戸で村田蔵六(後の大村益次郎)から蘭学を学んでおり、学祖山田顕義と大村益次郎の関係を考えると、戸水と本学の奇縁を感じます。

明治15年(1882)、県費留学生に選抜され、東京大学法学部選科生となりました。その後、本科に転じて明治19年、帝国大学法科大学を卒業し、司法省に出仕して判事となります。明治22年からイギリスに留学し、法学院のミドル・テンプルを卒業後、ドイツ・フランスで法学・政治学を学び、明治27年に帰国しました。帰国後は、東京帝国大学法科大学の教授に就任して、ローマ法・法理学・民法学を担当、明治32年には、法学博士を授与されています。

日本法律学校の運営

戸水は、明治30年(1897)9月から、日本法律学校で民法を講義しました。明治33年9月、創立者の一人である斯波淳六郎が理事を辞任し、戸水が理事に就任しました。日本法律学校は明治31年から財団法人化しており、校長で理事の松岡康毅、平沼騏一郎とともに戸水が理事に就任し、三者協力して学校の運営にあたります。

高等師範科生募集広告(『法政新誌』52号、明治34年11月)

高等師範科生募集広告
(『法政新誌』52号、明治34年11月)

戸水は積極的な学校経営策を推し進めたため、明治30年度と34年度の学校収入を比較すると4倍近くも増加しました。戸水と平沼の学校運営の役割について、当時の新聞は次のように記しています。
「日本大学の二理事は其の性格に於て好箇の対比を為すものといふべく、戸水氏の放膽(ほうたん)、平沼氏の細心、一は奇、一は正、前者は断じ、後者は行ふ、両々相補ふて日本大学は絶好の経営者を有するものと言はざるべからず」(『日本』新聞・明治39年6月20日)

戸水が理事の時期に推進した事業の一つが、高等師範科の設置でした。中等教員の需要が高まるなか、日本法律学校は、修身、法制及び経済の科目を担当する中等教員の養成を計画しました。当初、中央・明治・法政大学(当時は専門学校)と歩調を併せていましたが、協議が進まないため、本学だけで高等師範科設置を申請しました。

修身、法制及び経済の科目の無試験検定資格の付与については、文部省は難色を示しましたが、卒業試験を厳格にすること、出席時間数などを厳しくチェックすることなどを条件に、明治34年10月に設置されました。
当時、東京専門学校(現早稲田大学)なども無試験検定資格を有していましたが、夜間授業では日本法律学校が最初に認可されました。高等師範科は現在の文理学部の前身となる組織で、明治36年からは高等師範部となり、大学部、大学予科、専門部とともに本学の教育組織として発展することとなります。

日本大学への改称

明治36年(1903)、日本法律学校は専門学校令の公布をうけ、大学組織移行のために組織を拡充し、校名を日本大学と改称します。しかし、これについても当時の文部省からはかなりの難色を示されました。

高等師範部の雑誌『師範研究』(昭和10年)

高等師範部の雑誌『師範研究』
(昭和10年)

ある時、戸水が文部省に呼ばれて、日本法律学校ならば日本の法律を教授する学校であるから問題ないが、日本大学だと日本を代表する国立の大学と思われるおそれがあるので、何とか別名にして欲しいと言われました。ところが、戸水は、杉浦重剛(じゅうごう)が創立した日本中学(現日本学園)の名前は良くて、なぜ日本大学は駄目なのか理由をしりたいといって引き下がらなかったといいます。戸水の尽力もあり、明治36年9月より本学は日本大学と改称し、翌年には専門学校令による認可を受けることとなりました。

戸水事件

本学の発展に尽力した戸水でしたが、一方で対露強硬論者としても知られており、明治36年には、主戦論を主張する七博士意見書を発表しました。また、明治38年(1905)には、日露戦争のポーツマス条約に反対する論文を発表して東京帝国大学を休職処分となります。しかし、この処分に対して東京・京都帝国大学の法科大学教授会は、大学の自治、学問の自由を圧迫するものとして反発、政府は東大総長の山川健次郎を依願免職とします。

この処置を不当とした東大・京大の法科大学教授会は辞表提出で対抗した結果、久保田譲文部大臣は引責辞職し、明治39年に戸水は復職しました(戸水事件)。

戸水は東京帝国大学を退官後は弁護士となり、明治41年には第10回総選挙に石川県から立候補して当選し、以後5回の当選を果たしました。

このように、本学が私立法律学校から大学組織へ発展する過程において、戸水寛人の役割は決して小さなものではありませんでした。戸水は東大退官後もしばらく日本大学理事を務め、明治42年1月に辞任しました。松岡校長、平沼理事、戸水理事の三者体制は、本学最初の拡張期といえるでしょう。

日本大学高等師範部要覧(昭和10年)

日本大学高等師範部要覧(昭和10年)

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