日本大学の歴史

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第三代総長 山岡 萬之助 Mannosuke Yamaoka

1876年生~1968年没

山岡 萬之助

「日本大学中興の祖」といわれる山岡萬之助は、明治32年(1899)に日本法律学校を卒業、明治43年に日本大学教授となり、大正2年(1913)に学監、大正5年に理事、大正12年に学長、昭和8年(1933)には第3代総長に就任し、昭和21年1月までその任にあたりました。

この間、山岡は大正9年(1920)の大学昇格に関して、その一切を取り仕切り、大正12年の関東大震災によって大きな被害を受けた日本大学をすぐに復興させ、さらに昭和初期の経済不況の中で、人文・社会・自然科学の広い領域に及ぶ教育組織を設置し、現在の総合大学の基盤を築きました。

また、大正期に監獄法の改正や少年法・陪審法など重要法案の作成にかかわり、「刑事法改革の先駆者」とも呼ばれています。

苦学時代

山岡萬之助は、明治9年(1876)4月に長野県諏訪郡湊村(現岡谷市)の農家の次男に生まれました。明治19年に小学校を卒業すると農業の手伝いをしながら、小学校校長の自宅に通って漢学などの勉強に励んでいます。また、夏は製糸工場で働き、冬の農閑期には海苔商売の出稼ぎにも従事して資金を貯め、明治29年(1896)、21歳にして学業のために上京しました。

初めは簿記学校で学び、明治30年(1897)9月に日本法律学校に入学しました。卒業すれば高等試験の受験資格を得られることを知り、大いに発奮して入学したといいます。判事検事登用試験(第一次)受験に際しては、郵便為替貯金管理所に午前7時から午後3時まで勤務し、その後、午後4時から午後11時半まで猛烈に勉強しています。明治32年11月に実施された同試験に合格、司法官試補に任ぜられています。法律の勉強を始めてからわずか2年余という驚異的なスピードでした。

学監就任と大学の経営方針

山岡は、明治34年(1901)に司法官試補の修習を終えると、判事検事登用試験(第二次)に首席で合格、東京区裁判所判事に任ぜられました。明治39年には刑事学・刑事政策学の研究のため、日本大学最初の派遣留学生としてドイツに留学し、ライプチヒ大学からドクトル・ユリス(法学博士)の学位を得ました。帰国後の明治43年に日本大学教授に就任し、昼間は裁判所や司法省に勤務し、夜間は母校で教鞭をとることになりました。

ミュンヘン大学の学生証(山岡記念文化財団蔵)

ミュンヘン大学の学生証(山岡記念文化財団蔵)

大正2年(1913)には初代学監となり、日本大学の経営を任されました。

山岡は、日本大学の経営を安定させるには、学生が好んで入学したいという状況をつくる必要があると考え、①教育内容の充実、②共通科目の設置、③国家・社会の要求する学部・学科の設置が重要であるとして、教育組織の拡充を推進しました。

大学令による昇格

山岡が学監に就任した大正期は、日本の産業革命の進展により、高等教育機関への進学要求が高まっていました。このような動向を受けて、文部省は高等教育機関の拡充を図り、大正7年(1918)に大学令を公布しました。当時私立専門学校は、大学部を設けて「大学」と称していましたが、法律的には専門学校でした。大学令により帝国大学と同等の立場となることができましたが、そのためには、①基本財産の供託、②大学予科の開設、③校舎・図書館など施設整備、④専任教員の配置など厳しい条件が求められました。

この条件を充足させるため山岡は奔走します。特に問題となったのは新校舎の建設と供託金でした。明治29年(1896)に三崎町に独立校舎を設置していましたが十分な建物ではなく、新校舎の建設は必須でした。供託金については、一学部につき50万円という多額なもので、さらに一学部増すごとに10万円が加えられました。日本大学は法文学部と商学部の二学部の設置を考えていたので60万円必要でした。

明治末期から大正初年頃の校舎前で。前列中央が学長松岡康毅、左隣が山岡萬之助(大井照氏蔵)

明治末期から大正初年頃の校舎前で。前列中央が学長松岡康毅、左隣が山岡萬之助(大井照氏蔵)

有力な私立専門学校は、大正9年4月をめざして昇格の準備を進め、大正8年9月頃にはその目途も立っていました。これに対して日本大学は、新校舎の建築に着手したのが大正8年12月中旬で、昇格可能の内示を得たのが翌9年1月でした。しかし、これからが大変で、同年3月までに書類を作成し、供託金を用意しなければなりませんでした。書類は担当事務員と不眠不休で仕上げましたが、困ったのは供託金です。校友などからの募金が思うようには集まらず窮地に追い込まれました。この状況を救ったのは理事鈴木喜三郎(のちの政友会総裁)で、所持していた社債券を供託金として立て替えたのです。ようやく手続きをすませることができたのは3月6日でした。

大正9年に新築した三崎町校

大正9年に新築した三崎町校

大正9年4月15日付で日本大学は、明治、法政、中央、國學院、同志社とともに大学設立の認可を受けることができました。慶應義塾、早稲田はすでに2月5日付で認可を得ていましたが、日本大学は他の有力私立大学と肩を並べて、大学に昇格することができたのです。

法律学校から総合大学へ

日本大学は大学昇格前後に、法文学部や専門部に宗教科・社会科・美学科、高等師範部に国語漢文科を設置し、東洋歯科医学専門学校を合併して専門部歯科とし、さらに高等工学校を設置しました。

震災後の三崎町

震災後の三崎町

しかし、大正12年(1923)9月1日に関東大震災が起こり、大学昇格のために苦労して新築した三崎町校舎をはじめ、駿河台の歯科・高等工学校の校舎などすべての施設を失いました。

山岡は教職員・学生に不安を与えないために、一日も早く大学復興に当たらなければなりませんでした。直ちに三崎町の焼け跡にバラックを建て本部事務所とし、10月1日には他校の校舎を借りて授業を再開しました。11月下旬には、仮校舎のほとんどを完成させ、大正14年9月に工・医歯科系の新校舎が駿河台に、大正15年から昭和2年にかけて文科系の新校舎が三崎町に完成しました。

そして、大正末期から昭和初期にかけて、関東大震災の苦難を乗り越え、法文学部に文学科、商経学部に経済科、工学部を設置し、さらに専門部に文科・経済科・医学科・工科・拓殖科、高等師範部に地理歴史科・英語科を設置しました。その後も戦時下の昭和17年に専門部医学科が医学部に昇格し、昭和18年には農学部を設置しています。

山岡の実弟小坂早五郎(大井照氏蔵)

山岡の実弟小坂早五郎(大井照氏蔵)

以上のように、日本大学は関東大震災をはさむ大正中期から昭和初期にかけて、国家・社会の要請と学術の進展に迅速に対応して、多くの学部・学科を設置しています。その中には多額の経費がかかる理系・医学系の分野も含み、歯科・医学科の設置に関しては実弟小坂早五郎(後に医学科教授)の協力を得ています。

山岡は、大正15年4月の予科入学式で、「本学の特色は古来意気と頑張りにある。如何なる困苦艱難にも堪え忍んで所期の目的を達成するだけの決心がなければならぬ。即ち、総てに進歩的積極的努力を費さねばならぬ」(「日本大学新聞」75号)と述べています。このように総合大学としての発展は、山岡の強靭な精神力と実行力のもと、教職員、学生、校友の「意気と頑張り」で達成したものといえるでしょう。

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