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私大初の心理学専攻を創設 渡邊 徹 Toru Watanabe

1883年生〜1957年没

渡邊 徹

大正中期から昭和初期にかけて、日本大学は山岡萬之助が中心となって、人文・社会・工学・医歯学など諸分野の学科を新設し、総合大学化を推進しました。この時山岡を支えて、人文系分野の創設と発展に貢献したのが渡邊徹です。

渡邊は、大正10(1921)年に学監、大正11年に予科長、昭和3(1928)年に文学科長、昭和5年法文学部学監、昭和10年に文学科学監を務め、予科(文科)や文学科(現文理学部)全体を取りまとめました。渡邊の創設した心理学専攻は、私立大学で最初のものです。研究面では人格心理学の先駆者として、日本応用心理学会や日本心理学会で指導的役割を果たしました。社会的にも多方面で活躍し、なかでも傷痍軍人の救済に尽力しています。

山岡萬之助との出会い

東京帝大生の頃(渡邊徹教授記念事業実行委員会『渡邊徹先生』より)

東京帝大生の頃(渡邊徹教授記念事業実行委員会『渡邊徹先生』より)

渡邊は、明治16(1883)年9月に、福島県南会津郡田島町(現南会津町)に生まれました。明治36(1903)年に第七高等学校造士館に入学し、同校では「館詰め」と呼ばれるほど、図書館に通い勉強しました。明治39年に東京帝国大学文科大学哲学科(心理学専攻)に入学し、日本最初の心理学担当教授元良勇次郎に師事しています。
大学院に進むと、元良を会長とする東京帝国大学の心理学会幹事を務めました。そこで東京控訴院検事で、日本大学教授の山岡萬之助(後の総長)と邂逅することになります。山岡は、刑法学を専門としていたことから、犯罪心理学に興味を持ち、心理学会で「生来犯人」についての講演を行っています。山岡との出会いが、渡邊と日本大学とを結びつけることになり、大正3(1914)年に講師、大正9年には法文学部兼予科教授に就任しました。

予科長・文学科長として

予科長の頃(渡邊徹教授記念事業実行委員会『渡邊徹先生』より)

予科長の頃(渡邊徹教授記念事業実行委員会『渡邊徹先生』より)

大正11(1922)年、予科長に就任した渡邊は、講義内容を向上させるため、優れた教員の招聘に努めています。渡邊の交際は広く、目ぼしをつけた人物は、どこへでも出向いて説得しました。 山岡は、学生の学力と語学力の向上を図るため、予科の講義は原書のテキストを用いる方針を立てました。国文と漢文以外は、心理学・倫理学・西洋史などまで、欧文のテキストを使用させました。渡邊はこの方針に共鳴し、率先して原書を使用しましたが、これを提言したのは渡邊自身だったとも言われています。
一方、心理検査に早くから関心を示し、大正14年度の日本大学予科入学試験で、高等学校レベルにおいて日本で初めての進学適正試験を実施しています。
大正12年の関東大震災により、日本大学は、大学昇格のために建設した新校舎をはじめ、全施設を失うという甚大な被害を受けました。渡邊は、帝国女子専門学校(現相模女子大学)と交渉し、附属の日本高等女学校校舎(小石川区大塚)を借りることができました。この校舎は、かなりの広さがあり、多くの学生を収容できたので、いち早く講義を再開することができました。
大正13(1924)年に、法文学部美学科が文学科に改組され、哲学・倫理学・教育学・心理学・国文学・漢文学・文学芸術学専攻が設置されました。その後、倫理学専攻と教育学専攻が統合されて倫理教育学専攻となり、史学専攻が設置されています。文学芸術学専攻は、英文学専攻と芸術学専攻に分かれ、後者は芸術学科(現芸術学部)として独立しました。
この時も渡邊は、教員を集めるために奔走し、心理学の松本亦太郎・田中寛一、国文学の上田万年・山田孝雄、史学の石田幹之助など、高名な研究者を招聘しています。

昭和2年頃の心理学専攻記念撮影(『心理学科五十年のあゆみ』より)。前列左より田中寛一、渡邊徹、松本亦太郎、山岡萬之助)

昭和2年頃の心理学専攻記念撮影(『心理学科五十年のあゆみ』より)。
前列左より田中寛一、渡邊徹、松本亦太郎、山岡萬之助)

心理学研究室での日々

心理学研究室は、三崎町の法文学部校舎に設けられていました。それは、渡邊が設計したもので、狭いながらも図書と実験器具が備わり、演習も行われました。渡邊は、日曜・祭日、夏休みでも毎日のようにここに詰め、研究と学生の指導に明け暮れました。著名な学者が多く出入りするなど、学生は、研究室の持つ学問的雰囲気から啓発を受け、自主的な研究態度を身に付けました。
当時、文学科の学生のほとんどは勤労学生でしたが、渡邊は手加減することなく厳しく指導し、特に卒業論文は高度な内容を要求しています。そのため心理学専攻の学生は、3年間で卒業することは難しかったといいます。半面、学生の面倒見は良く、あらゆる相談に乗っています。

三崎町校舎の心理学研究室にて(『心理学科五十年のあゆみ』より)

三崎町校舎の心理学研究室にて(『心理学科五十年のあゆみ』より)

傷痍軍人の救済

渡邊は、厚生省から傷痍軍人職業顧問を委嘱されると、昭和12(1937)年に重度戦傷者職業指導研究会を組織し、傷痍軍人の再教育と職場開拓を行いました。なかでも松井新二郎に対する指導は有名です。
松井は、中国戦線で砲弾を受け両目を負傷し、これがもとで25歳のときに完全に失明しました。苦悩の末、大学での学問を志し、正規の学生としての入学を希望しましたが、当時盲人の入学を許可する大学はありませんでした。渡邊は、松井の真剣な態度と研究意欲を知り、昭和15年に軍事保護院の委託学生として日本大学に迎え入れました。
渡邊は、障害者に対しても特別扱いすることなく、何事にも厳しく接し、特に学問は容赦なく指導しました。松井は、多くの教科書や専門書を点字に変換するなど、苦闘を繰り返しながら勉学に励み、昭和20年に、点字の卒業論文「失明傷痍軍人の職業指導に関する心理学的考察」を提出しました。そこには妻糸子の献身的な支えがありました。

日本大学に通う松井新二郎と妻糸子(『盲人福祉の新しい時代―松井新二郎の戦後50年―』より)

日本大学に通う松井新二郎と妻糸子(『盲人福祉の新しい時代―松井新二郎の戦後50年―』より)

以上のように、渡邊は40年間にわたり日本大学と法文学部文学科の発展に寄与する一方、学生を熱心に指導し、社会の多方面で活躍する人物を育てました。名利を求めることなく、何事に対しても徹底的に取り組む姿勢、言い出したらきかない性格、名前の徹などから、親しみを込めて、「テツ先生」「てっちゃん」と呼ばれていたといいます。
昭和32(1957)年1月に73歳で亡くなりましたが、死後1年を経ずして、『渡邊徹先生』(追悼集)が刊行されています。それには、研究仲間、友人、後輩、教え子など80余名によって、渡邊の思い出や逸話が紹介されています。

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