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創立者総代 宮崎 道三郎 Michisaburo Miyazaki

1855年生~1928年没

宮崎 道三郎

日本法律学校は、学祖山田顕義と宮崎道三郎、金子堅太郎、上條慎蔵、斯波淳六郎、末岡精一、添田寿一、野田(長森)藤吉郎、樋山資之、平島及平、穂積八束、本多康直の11人の創立者らによって創立されましたが、彼らの中で創立者総代として深く関与していたのが宮崎道三郎です。

宮崎は、安政2年(1855)9月に、伊勢国安濃郡津新道(現三重県津市)で、津藩(藤堂氏)重臣の家老宮崎八郎右衛門(篤斎)の第4子として生まれました。初め藩校有造館で中国古典のほか国史等を学び、明治5年(1872)に上京しています。

漢学や国史を学んだ津藩の藩校有造館の入徳門(正門)

漢学や国史を学んだ津藩の藩校有造館の入徳門(正門)

開成学校時代。明治8年7月、後列左端が宮崎(宮崎家所蔵)

開成学校時代。明治8年7月、後列左端が宮崎(宮崎家所蔵)

中村正直の同人社、ついで開成学校を経て、東京大学法学部に入学しました。13年同校を卒業後、同大学法学研究生となり、文部省御用掛も務めています。翌14年に東京大学御用掛として、和漢法律史の編輯に従事し、同年に東京大学法学部助教授に就任しました。

ドイツ留学

文部省留学生として、明治17年(1884)から21年までドイツに留学しています。この時、留学に向かう船には、森鴎外が同乗していました。ドイツでは、ハイデルベルク大学、ライプチッヒ大学、ゲッチンゲン大学等でローマ法・ゲルマン法などを学びました。

ドイツ留学途上の写真(宮崎家所蔵)。明治17年10月、後列左端が宮崎、2人目が森鴎外

ドイツ留学途上の写真(宮崎家所蔵)。明治17年10月、後列左端が宮崎、2人目が森鴎外

同じ頃、前述した穂積、末岡、本多、樋山、斯波、添田、平島がドイツにおり、日本法律学校設立の構想がここで生まれたとも考えられます。帰国後、帝国大学法科大学教授に就任し、初代の「法制史講座」担当者となりました。

日本法律学校の創立

当時、欧米の外国法による法学教育に対し、日本の法律を教える学校の必要性を感じた創立者らは、山田の全面的な支援のもとに日本法律学校を創立しました。明治23年(1890)9月21日、総理大臣山県有朋以下多数の来賓を迎えて、皇典講究所で挙行された開校式で、宮崎は設立要旨を次のように演説しています。

本校設立の旨趣と申しますのは、別に多言を要しませぬことで、此の日本律学校に於いては、我が日本人民が日本人民として先づ第一番に知らなければならぬ法律を教えるといふ旨趣で御坐います。即ち日本人民の第一に知らなければならぬ言葉は、日本の言葉でありますが、其れと同じことで、日本人民が第一に知らなければならぬ法律は、日本の法律であります。この日本法律を専修する所として、日本法律学校を立てたので御坐います。

日本法律学校の創立に力を注いだ宮崎は、明治23年10月に幹事に就任し、同26年9月まで学校運営にあたっています。

「日本法制史学」の確立

宮崎は、多くの文献を読み込んだ丁寧な実証による研究を行いました。明治30年頃からは、日本の法制に影響を与えた中国の法制との比較研究に着手し、その後、東洋言語の比較検討による研究方法によって、日韓両語の比較研究を始めました。明治36年8月にはこれに関する資料を蒐集するために韓国に赴いています。この研究方法は満州語・蒙古語にまで及び、俗事を避けて毎日大学の図書館に閉じこもり研究を続け、その熱心さは「学界の仙人」と噂される程でした。また、近代的な法制史の確立に多大な貢献をし、「日本法制史研究の鼻祖」といわれています。

明治36年、韓国ソウルにて。前列左から6人目が宮崎(宮崎家所蔵)

明治36年、韓国ソウルにて。前列左から6人目が宮崎(宮崎家所蔵)

明治24年に法学博士を授与され、明治31年には東京学士会院会員に選出されています。大正11年(1922)に東京帝国大学を退官し、昭和3年(1928)4月に74歳で逝去しました。

日本法律学校創立関係者

日本法律学校の創立には、学祖山田顕義とともに、新進気鋭の学者等11名が携わりました。学祖山田顕義、創立者総代宮崎道三郎、初代校長金子堅太郎を除く、その他の創立者について、略歴を紹介します。

穂積 八束(ほづみ やつか)

1860~1912年

伊予国(現愛媛県)宇和島生まれ。明治16年東京大学文学部政治学科を卒業し、17年から22年1月までドイツに留学。同年3月、帝国大学法科大学教授に就任し、憲法講義を担当。明治24年には「民法出デテ忠孝亡ブ」という論文を発表し、民法典論争のきっかけをつくった。明治30年に東京帝国大学法科大学長に就任、32年には貴族院議員となった。大正元年53歳で逝去。

末岡 精一(すえおか せいいち)

1855~1894年

周防国(現山口県)熊毛郡生まれ。明治14年東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業し、文学部講師・法学部准講師となる。明治15年、文部省特別留学生に選ばれ、ドイツ・オーストリアで国法・行政学を学ぶ。明治19年に帰国後、帝国大学法科大学教授に就任。明治24年に法学博士の学位を受けたが、明治27年40歳で逝去。

本多 康直(ほんだ やすなお)

1856~1900年

伊勢国(現三重県)神戸藩主の子として生まれ、近江膳所藩主本多康穣(やすしげ)の養子となる。明治7年、ドイツに私費留学生として渡航し、ゲッチンゲン大学でドクトル(博士号)の称号を得た。明治18年に帰国し、司法省に出仕。明治22年日本法律学校創立に参画し、明治26年に廃校問題が生じた際には、存続のために尽力した。明治33年45歳で逝去。

樋山 資之(ひやま すけゆき)

1859~1920年

群馬に生まれ、館林藩士の養子となる。明治16年、東京大学法学部を卒業し、判事となる。翌年、在官のままドイツに留学し、明治22年に帰国。日本法律学校創立にあたっては、宮崎・野田とともに幹事を務める。明治40年に日本大学基金募集委員として活躍するなど、晩年にいたるまで本学の発展に尽力した。大正9年62歳で逝去。

野田(長森)藤吉郎(のだ とうきちろう)

1860~1920年

佐賀に生まれる。明治13年、司法省法学校に入学し、21年帝国大学法科大学を卒業後、司法省に出仕。長森敬斐の婿養子となり、長森姓を名乗る。日本法律学校創立に際しては幹事として尽力した。明治31年、司法大臣秘書官となり、34年司法官の地位向上に奔走したが、失敗して辞職。同年、大蔵官房長に就任。日本大学の維持員理事として晩年まで本学の発展に寄与した。大正9年61歳で逝去。

斯波 淳六郎(しば じゅんろくろう)

1861~1931年

加賀藩家老津田内蔵助の子として生まれ、後に斯波蕃(しげり)の養弟となる。明治16年東京大学法学部を卒業し、翌年、文部省留学生としてドイツに留学。明治21年に帰国し、帝国大学法科大学教授に就任。日本法律学校創立に参画し、廃校問題にも尽力。明治29年には日本法律学校幹事に就任し、晩年まで本学の発展に尽力した。

上條 慎蔵(かみじょう しんぞう)

1864~1912年

信濃国(現長野県)生まれ。明治13年、司法省法学校に入学し、21年帝国大学法科大学を卒業後、元老院第三課で勤務。日本法律学校創立に参画し、刑事訴訟法の講義を担当した。宮崎県参事官となったが、明治26年ごろから体調を崩し、司法省を退職して郷里で療養した。明治45年49歳で逝去。

添田 寿一(そえだ じゅいち)

1864~1929年

筑前国(現福岡県)生まれ。旧藩主黒田家の貸費生となり、東京大学に入学。明治17年、東京大学文学部政治学科および理財学科を卒業後、大蔵省に出仕。同年、イギリス・ドイツへ留学し、20年に帰国。東京専門学校・専修学校等で講師をする一方、日本法律学校の創立に参画。創立者のうち、添田だけ法学系の学者ではなかった。後に、大蔵省参事官、大蔵大臣秘書官、大蔵次官に就任。大蔵省辞職後は、台湾銀行頭取、日本興行銀行総裁、鉄道院総裁などを歴任した。

平島 及平(ひらしま きゅうへい)

生没年未詳

熊本出身。明治9年に司法省法学校第2期生として入学し、17年に卒業。19年、松岡康毅の欧州実務制度調査に随行してドイツへ渡航。明治21年に帰国し、司法省民事局で勤務するかたわら、東京仏学校、和仏法律学校で講師を務める。明治37年、東京控訴院書記長に就任するが、すぐに休職となる。

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