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初代芸術科長 松原 寛 Kan Matsubara

1892年生〜1957年没

松原 寛

日本初の総合芸術大学を目指して誕生した本学の美学科。現在は芸術学部として発展していますが、その影には大正から昭和期に芸術科を牽引した松原寛の苦難の歴史がありました。今回は本学芸術学部の発展に寄与した松原寛を紹介します。

生い立ち

松原寛は、明治25年(1892)、長崎県南高来郡有家村(現南島原市)に松原佐一の次男として誕生しました。小学生の頃に家が長崎市に移転し、ミッション系の私立中学東山学院を首席で卒業します。その後、父親の反対を押し切り第一高等学校に合格して上京。卒業後は東京帝国大学英文学科に進みましたが、哲学者西田幾多郎を慕って大正5年に京都帝国大学哲学科へ転入学します。同期には、松原が日本大学で働くきっかけを作った円谷弘や玉川学園創立者の小原国芳などがいました。

本郷金助町時代の校舎(昭和8~14年)

本郷金助町時代の校舎
(昭和8~14年)

大正7年7月に卒業し、銀行に勤めた後、友人のすすめで大阪毎日新聞社の学芸部記者となりました。この記者時代に取材の名目で上京した松原は、京大の同期である円谷弘と銀座の街頭で偶然出会います。この時期、円谷が中心となって本学に美学科が設置されましたが、円谷はヨーロッパ留学を志していたため、留守を預かる適任者を探していました。旧友との邂逅は、松原が日本大学で働くきっかけとなりました。

日本大学芸術科

大正10年(1921)8月、松原は日本大学教授に就任して美学科主任教授となります。この美学科は芸術に関する一般的常識の涵養と実技とを教学の目的としていましたが、関東大震災による校舎焼失もあり、実技を行う設備は充分なものではありませんでした。大正13年、文学科設置に伴い、美学科は文学科の中の文学芸術専攻(のちに芸術学専攻)と改組されますが、依然応募者数が少ない状況が続きました。

芸術科主催全国中等学校美術展(昭和11年)

芸術科主催全国中等学校美術展(昭和11年)

芸術教育は理論よりも実技に重点を置くべきと考えた松原は、昭和4年にカリキュラムを改正して実習時間を増やし、日本の大学で初めて映画を教科の課程に採用します。これで、法文学部文学科芸術学専攻及び専門部文科文学芸術専攻は、音楽、美術、文学(純文学)、演劇、映画の五部門を学べることになりました。

しかし、実技教育の重視によって、思わぬところから反対の声が上がりました。ピアノがうるさくて他の教室が迷惑する、神聖な大学の教場でモデルをつかって絵を書いているなどの非難が学内で高まったのです。やむなく、音楽美術の実習は駿河台の文化学院の教室を借りて実施しましたが、学生の赤化問題も生じて、ついには文学芸術専攻廃止という意見も浮上しました。このまま三崎町校舎を使用することはできないため、別の地に校舎を獲得することが急務となりました。ちょうどこの時、神田駿河台鈴木町にあった成立商業が移転することを聞きつけ、借り入れに成功します。

本郷金助町時代の芸術科案内(昭和12年頃)

本郷金助町時代の
芸術科案内(昭和12年頃)

総合芸術祭のポスター(昭和10年)

総合芸術祭のポスター
(昭和10年)

独立校舎取得を皮切りに、文科の専攻から外れて単独で「日本大学芸術科」と看板を掲げて学生募集をしたところ、数百名の応募がありました。学生も増加して何とか廃止を免れた「芸術科」でしたが、学生の増加によって再び設備不足の問題が浮上します。さらに文部省は芸術の大学など前例がないということで学則改正も聞き入れられず、再び苦難の道を歩むこととなります。

本郷金助町への移転

昭和8年7月、本郷金助町にあった第一外国語学校校舎を取得し、芸術科がこの地に移転します。学部芸術科、専門部芸術科の外に邦楽舞踊科、児童学園を新設して「日本大学芸術学園」と名づけました。昭和9年8月、松原は芸術学園科長となり、総合芸術祭や全国中等学校美術展などの行事も実施し、芸術学園は活発化していきます。文部省も昭和12年3月、ついに芸術科の学則改正を認可し、名実共に「芸術科」が誕生しました。

昭和14年4月からは現在の芸術学部所在地である江古田の新校舎に移転します。これを機に宣伝芸術科、写真科、商工美術科の三科を増設し、さらなる飛躍を図りました。しかし、戦局の悪化により、またしても芸術科は危機を迎えることになります。

江古田移転当時(昭和14年)

江古田移転当時(昭和14年)

板橋工科への転換

昭和18年10月、教育に関する戦時非常措置方策の閣議決定により、理科系大学・専門部の拡充と文科系大学・専門部の縮小という方針が示されました。本学では文科系専門部を全廃することに決定しましたが、最も大きな打撃を受けたのは、学部生が少なく専門部生が多かった芸術科でした。
そこで松原らは、芸術科を理工系の専門部へ転換するという奇策を打ち出します。
映画科を映画工業科、写真科を写真工業科とし、芸術科を「専門部板橋工科」と通称するというもので、文部省は難色を示しましたが、3ヶ月に及ぶ交渉の末、ついに認可を得ることができました。昭和20年4月からは音響器械科、光学器械科を増設しますが、終戦を迎えたため、昭和21年からは従来の芸術科が復活することとなります。

昭和19年9月、松原は転落により右足膝関節に重傷を負い、その後体調不良が続きました。終戦後、GHQによる教職追放政策をうけて、松原は昭和21年3月に日本大学教授、芸術科長を休職となり、ともに大学を運営してきた山岡萬之助、円谷弘なども本学から離れることとなりました。
昭和24年、新学制による日本大学が認可され芸術学部が誕生しました。すでに学内には松原の姿はなく、昭和32年9月、65歳で亡くなりました。美学科、芸術科を支え続けた松原寛の努力は、現在、個性的人材を多く輩出する芸術学部として実を結んでいます。

松原寛という人

松原寛(昭和12年頃)

松原寛(昭和12年頃)

伝記である『松原寛』には、教え子や友人・同僚が記した「思い出の記」が二百頁にわって掲載されており、そこには松原寛の人物像が活き活きと描かれています。

松原は、紺羽織、袴、白足袋という和装姿にステッキを持って学内を闊歩していました。学生個人の相談にも気軽に応じていたようで、松原の独身時代は家に学生がいつも集まっていました。講義は学生たちに人気で、話がはずむと口角泡を飛ばして熱弁を振るい、すぐに感激する「感激居士」でもあったそうです。友人の評には「不羈奔放」「天真爛漫」「妥協なんていうことが毛虫より嫌い」「スケールの大きいハッタリ屋」という語が並び、一見すると粗雑な人物と思われそうですが、人間的魅力があったようで、困難になると友人たちは彼を積極的に支援しました。

大正から戦中の苦難の時期を芸術科が乗り越えられることができたのは、松原寛の経営手腕や教育力もありますが、周辺人物を惹き付けた彼の熱意と魅力という要因が一番大きかったのかもしれません。

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