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戦後復興期を支えた 呉 文炳 Fumiaki Kure

1890年生〜1981年没

呉 文炳

日本における信託制度研究の先駆者で、当代一流の文化人でもあった経済学者呉文炳。終戦後の昭和21(1946)年に日本大学第4代総長に就任し、昭和33年までの約13年間、戦後復興期の本学をけん引し続けました。

生い立ち

呉夫妻(『新家庭』第6巻11号、大正10年)

呉夫妻(『新家庭』第6巻11号、大正10年)

呉文炳は明治23(1890)年5月3日、呉文聰の4男として、麹町区元園町2丁目(現・千代田区麹町3丁目)に生まれました。曾祖父、祖父は医者、父は統計学者という、医者・学者の家系に生まれた呉は、日本中学校(現・日本学園)に進み、その後、東京外国語学校、後に慶應義塾大学法律科に進学します。
大正2(1913)年に卒業して慶應義塾大学助手となり、講師を経て、大正4年に欧米に留学しました。当時、首席で卒業すると大学に残って海外留学ができると知った呉は、大いに勉学に励んだ結果、見事首席で卒業し、民法研究のため米国に留学することとなりました。

留学と信託研究

シカゴ大学に留学中、呉は「人の財産を自分の名義にして管理する」という信託制度を知ります。遠からず日本にもこの制度が導入されると考え、信託の研究に打ち込みました。翌大正5(1916)年1月、父文聰が脳溢血で倒れたため、呉は留学途中で帰国しました。その後、慶應義塾大学講師を辞任し、4月に三菱銀行へ入行して外国為替課勤務となりました。

しかし、「信託」に対する学問的興味を捨てがたい呉は、当時の三菱総帥である岩崎小弥太と面会します。呉から銀行経営の意見と信託制度の将来像を聞いた岩崎は、名目上は呉にニューヨーク支店転勤を命じ、実際は信託研究の留学生となることを認め、さらに滞在費用は銀行から支払われました。ニューヨークのコロンビア大学で信託制度の研究を進めた呉は、一方で演劇の研究も進めました。呉は、若い頃より芝居、寄席に興味を持ち、文学者の坪内逍遥とも交流がありましたが、コロンビア大学では、『日本に於ける操り芝居の発達』という論文も執筆しています。

大正9年に帰国した呉は、大正11年に三菱銀行を退職し、信託研究に没頭しました。昭和2(1927)年、三菱信託株式会社(現在の三菱UFJ信託銀行)が創設されると、呉は同社に入社します。一方で、『信託ノ経済的本質並ニ信託業経営ニ関スル諸問題ノ研究』という学位論文を京都帝国大学に提出し、昭和7年、経済学博士号が授与されました。当時、京都帝国大学で卒業生以外の部外者で学位を授与されるのは異例のことでした。

日本大学教授として

呉講師就任記事(日本大学新聞253号、昭和11年3月20日)

呉講師就任記事(日本大学新聞253号、昭和11年3月20日)

昭和8(1933)年7月、三菱信託株式会社を辞職した呉は、大蔵省・文部省嘱託となり、経済事情・教育事情視察のために3カ月間、欧米を視察しました。帰国後、東京帝国大学、専修大学、法政大学で信託論の講義を行います。
この時期、日本大学は商学部を商経学部と改称し、学部の講義内容を刷新しました。昭和11年には、新任講師として一流の学者を招聘しますが、このとき、統計学の講師として呉が就任しました。その後、昭和14年4月に日本大学商経学部教授となり、同年9月、商経学部長に就任します。昭和19年、商経学部が経済学部と改称しましたが、呉は学部長を退任して経済学部研究所長に就任し、そのまま終戦を迎えます。

総長・会頭として

昭和20(1945)年10月、呉は日本大学理事に就任し、12月には学長に就任しました。昭和21年1月には、山岡萬之助総長が公職追放となり辞意を表明したため、学長の呉が第4代日本大学総長・総裁に就任しました(6月に会頭制となり会頭に就任)。この時期、山岡の他にも、松原寛、圓谷弘など、戦前期に大学運営を担っていた人物が相次いで学園を去ったため、呉は新陣容で戦後の大学復興を進めます。

経済学部校舎付近(昭和20年代)

経済学部校舎付近(昭和20年代)

戦後すぐに直面した問題として、焼失した校舎(板橋病院・芸術科校舎)の再建、戦時下に貸し出されていた校舎(経済学部・桜門ビル)の返還などがあり、資金の捻出が急務となりました。銀行に勤務経験のある呉は、さまざまな人脈を通じて融資を受けることができたといいます(『呉文炳先生傳』)。

戦後の呉は、学外でも目覚ましい活躍を見せます。昭和20年10月、自由党総務委員に就任し、第1次吉田内閣の折、勅選貴族院議員に推薦されました。21年10月には、教育刷新委員会の委員に任命されています。同年12月には、日本私学団体総連合会が結成、初代会長に就任していますが、事務局は本学の桜門ビル内に設置され、私学復興のための施策に尽力しました。そのほか、文部省大学設置委員会委員、私立大学審議会委員、財団法人私学振興会会長、特殊法人私立学校振興会会長、財団法人私学教職員共済会会長などを歴任しました。

戦後の呉の学内外での活躍の要因として、呉の手腕もさることながら、周囲が彼の豊富なアメリカ留学経験とその人脈に期待したことが挙げられます。戦後の教育改革にはGHQの民間情報教育局(CIE)が深く関与しますが、ここにいたアーサー・K・ルーミスは呉がかつて留学したシカゴ大学の博士号を取得していました。ルーミスは、昭和29年、本学初の名誉博士号を授与された人物でもあり、呉との良好な関係があったことがうかがえます。

60周年記念式典

呉の総長2期目となる昭和24(1949)年は、日本大学が60周年を迎える記念の年でもありました。この年、日本大学7学部が新学制に基づく大学設置認可を得て、「日本大学の目的および使命」を制定します。同年8月には、全米水上選手権に参加した古橋廣之進ら本学選手4人の活躍がありました。

昭和天皇をご案内する呉総長(手前左が呉、創立60周年記念式典)

昭和天皇をご案内する呉総長(手前左が呉、創立60周年記念式典)

戦後日本の高等教育の新しい出発点となるこの年に創立60周年を迎えるということで、記念式典に天皇陛下をお迎えしたいという話が持ち上がり、実現については総長の呉に一任されました。私立大学の式典に天皇陛下が行幸されたのは、昭和22年の慶應義塾創立90周年のみでした。神田界隈に陛下をお招きするのは警備上の不安もあり、宮内庁、警視庁も当初は反対の意向を示しましたが、9月10日、宮内庁長官より天皇陛下が行幸される旨が伝えられました。

10月4日の式典当日、天皇陛下は白山通りで降車され、呉の先導のもと、沿道の声援に答えながら徒歩で法文学部講堂まで向かわれました。式典は衆参両院議長、文部大臣、東京、慶應、早稲田大学総長らの祝辞があり、最後に陛下からの「御言葉」を賜って終了しました。

昭和33年6月、呉は日本大学総長、会頭を辞任し、名誉職の総裁に就任しました。晩年は随筆や収集した稀覯書の目録などを執筆しましたが、昭和56年11月、91歳の生涯を終えました。

式辞を述べる呉総長(創立60周年記念式典)

式辞を述べる呉総長(創立60周年記念式典)

呉市名誉市民 呉文炳記念碑(広島県呉市)

呉市名誉市民 呉文炳記念碑(広島県呉市)

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