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初代医学科長 額田 豊 Yutaka Nukada

1878年生~1972年没

額田 豊

明治末年、医学の高等教育機関は東京・京都・九州の3帝国大学医科大学以外には、官立6校・公立3校・私立4校の医学専門学校がありました。

医学部本館前の額田豊先生像

医学部本館前の額田豊先生像

大正7年、帝国大学以外にも大学の設置が認められる「大学令」が公布されると、翌8年に第一号の認可を受けたのは、府立大阪医科大学でした。その後も医学専門学校から医科大学への昇格が続き、大正13年末には、5帝国大学と慶応大学の医学部を含む医科大学16校に対して、医学専門学校は私立の3校のみとなっていました。

これは、大正中期以降の高等学校の拡充に伴い医学部への進学希望者が増加したためと、医学教育は専門学校ではなく大学で実施するべきであるとの、医育統一論の強まりを反映した結果でした。

そうした中、時代に逆行する形で大正14年(1925)3月に設立されたのが、日本大学専門部医学科(現医学部)と帝国女子医学専門学校(現東邦大学医学部)でした。そして前者の初代医学科長、後者の初代理事長となった人物が額田豊(ぬかだゆたか)でした。

ドイツに留学

額田は、明治11年(1878)に岡山県邑久(おく)郡 飯井(いい)村(現瀬戸内市長船町飯井)に医師額田篤太の長男として生まれました。祖父は蘭方医でした。上京して、明治31年に獨逸学協会学校中学(現獨協中学校・高等学校)を卒業、第一高等学校を経て東京帝国大学医科大学へと進みます。

岡山県瀬戸内市の生家跡(平成22年6月撮影)

岡山県瀬戸内市の生家跡(平成22年6月撮影)

学生時代は、ボート部に所属し、授業に出るより向島の合宿所での生活が多いくらいでした。しかし、まだ習っていないドイツ語の原書をも読破するなど成績は優秀で、卒業後は内科第三講座の医局に入って研究を続けることとなりました。

明治40年、自費でドイツに留学し、約2年半をブレスラウ大学(現ポーランド国立ヴロツワフ大学)とミュンヘン大学で学びました。留学中、ドイツの科学的・合理的な生活様式を目の当たりにします。そうした社会を支えるためには、女性の地位の確立が根本であり、日本で遅れている女性への科学的な教育を実践する必要性を痛感。そのための学校を自ら創立する決意を固めました。

額田が自ら著した「額田家記抄録」

額田が自ら著した「額田家記抄録」

帰国後、東京帝国大学医科大学に在学中の長弟晋(すすむ)に協力を求めました。その上で、父の死後に女手一つで弟妹4人を育ててくれた母宇多(うた)に決意を打ちあけると、母はその志をほめ、即座に同意をしてくれました。

医学専門学校創立に向けて

大正2年(1913)に医学博士となり、同年、留学で学んだことの実践と学校創立の資金集めのために、麻布に額田病院を、大正9年には鎌倉に額田保養院を開業しました。新式の設備を備え堅固に作られた両院は、関東大震災の災禍も免れました。

この時期、都会では医師がやや過剰な傾向にありましたが、地方では無医村が珍しくありませんでした。額田は、より多くの臨床医を効率的に養成することが必要であり、医師資格を得るために、中学校卒業後に7年間を要する医科大学ではなく、4年~5年の医学専門学校が適当であると考えていました。

医育統一の時流の中、額田は周囲を説得し、文部省をはじめとする官界や医学界の有力者の理解を得ました。第一高等学校の同窓生で司法官僚であった日本大学理事塩野季彦もその一人で、彼から額田と同郷(岡山県出身)の平沼騏一郎総長、さらには山岡萬之助学長へと話が伝わりました。かねてから、医学教育機関設置の構想を持っていた日本大学では、額田の考えに賛同し、専門部医学科を設置することで話がまとまりました。

大正14年(1925)3月31日に設置認可を受け、専門部歯科・高等工学校と同居の駿河台仮校舎で開講しました。額田は初代医学科長に就任し、翌15年に附属病院が開院すると、病院長も兼任しました。

駿河台仮校舎。右奥は建設中の歯科附属病院(大正14年6月)

駿河台仮校舎。右奥は建設中の歯科附属病院(大正14年6月)

昭和初期の附属病院(絵はがき)

昭和初期の附属病院(絵はがき)

講師には、皇太子(後の昭和天皇)の侍医で昭和12年に侍医頭となる八田善之進(医化学)や、東京帝国大学生理学教室教授の橋田邦彦(昭和15~18年文部大臣)といった、医科大学でも羨望するほどの人材を揃えました。彼らは額田の考え方に共鳴して、安い報酬で講師を引き受けてくれました。

学校経営者として

時を同じくして、ドイツ留学時代から準備を進めていた女性への科学教育実践の第一歩として、帝国女子医学専門学校(現東邦大学医学部)を創立しました。

同校では、校長・医学科長には弟の晋が就任し、額田は理事長として経営面を支えました。その後薬学科を増設し、女子理学専門学校も併設。戦後、新制となって東邦大学が設置されると、初代学長に就任しています。また、母校の経営母体である獨逸学協会の理事長に選ばれ、法人名を改称した獨協学園としての再スタートや、学校法人化に努力しました。

昭和4年に竣工した東邦大学医学部本館と額田宇多女史像

昭和4年に竣工した東邦大学医学部本館と額田宇多女史像

昭和2年(1927)から3年にかけて、私立医学専門学校5校が続けて設置されました。その中には盛岡・久留米といった地方都市の学校も含まれていました。地方の医師不足に対応するために、医科大学ではなく医学専門学校を創るという額田の構想は、まさしく時代の要請に沿っていたといえましょう。

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