1888年生~1949年没
大学昇格前後から総合大学を構想する山岡萬之助のもとで、本学理工系教育の基礎となった高等工学校(現理工学部)をはじめ、社会科・美学科(現芸術学部)といった特色ある学科新増設の実務的責任者として活躍し、学監として長く本学の発展に貢献したのが、圓谷弘です。
圓谷は明治21(1888)年、秋田県仙北郡角館町に旧佐竹藩士の家に生まれました。小学生の頃から、警察巡査であった厳父久米蔵の命で町内の練武場で剣道を学び、一日たりとも休むことはなかったといいます。39年に県立横手中学校(旧制)を卒業、代用教員を経て42年に日本大学法律科に進学したものの、大正元(1912)年に中退し小笠原諸島の大村尋常高等小学校の教員となり、次いで4年京都帝国大学文学部史学科に入学、翌年哲学科(社会学専攻)に転科しました。8年7月卒業後、文部省の嘱託となり実業学務局に勤務する中で、当時理事であった山岡の知遇を得て本学に奉職することになったのです。
第一次世界大戦で、日本は一時的な大戦景気に沸きました。しかし、大戦下における資本主義の発展は同時に労働組合の結成、ストライキの頻発を招き、また、ロシア革命に端を発する社会主義思想の影響で、東京帝国大学新人会、早稲田大学民人同盟会、法政大学扶信会、慶応大学反逆社、明治大学オーロラ協会などが次々にでき、学生運動が活発になっていました。いわゆるデモクラシーの思潮はわが国の思想界・教育界に多大な影響を与えることになり、労働問題・社会問題の研究は学問的にも現実的にも急務の問題となっていたのです。
こうした社会情勢を鋭く感じ取り、他大学に先駆けていち早く社会の要請に応じようと、大正9年4月、私立大学で初めて社会科を開設しました。
文部省実業学務局に勤務して私立大学の発展に関心のあった圓谷が、社会思想の善導・社会生活の安定・労使協調などを学問的に基礎付けることが急務ではないかと山岡萬之助に進言し、社会科の開設が実現しました。山岡は、社会思想の研究は社会主義者の養成にならないかと懸念しましたが、今後の大学の発展や山岡自身の総合的大学構想には必要であると判断したのです。圓谷は文部省嘱託のまま日本大学教授社会科主任となりました。
同年6月に新設された高等工学校の設立に関与したのも圓谷弘でした。高等工学校の新設について初代校長となった佐野利器は、およそ次のように回想しています。
当時の科学技術教育の向上を目指し、全国に高等工業学校を新設する方針を打ち出した政府の文教政策をいち早く取り入れた結果といえます。
大正10年(1921)、法文学部に芸術学部の前身である美学科を開設しましたが、新設にあたって美学科の創設を提唱し実務にあたったのも圓谷弘でした。美学や芸術に関する学問分野の学科を大正時代に設けたことは本学の大きな特色となりました。また、多忙な圓谷は京都帝国大学時代の同期生で大阪毎日新聞の記者をしていた松原寛を美学科教授に迎え、以後、松原を中心に芸術学部の基礎がつくられていきます。
このように次々と新学科を生み出した圓谷を、門下の一人馬場明男(元社会学科教授)は「独創精神に富む」「時勢を認識する鋭利な判断力」と評していますが、まさに剛毅果断の人物といえるでしょう。
昭和12年7月、盧溝橋事件が勃発し日中戦争が始まります。戦争は拡大長期化し、13年には国家総動員法が制定され、「東亜新秩序建設」声明が発表されると、文部省は学校教育を実践的精神教育重視へと転換し、集団勤労作業運動が奨励され、各部科校に奉仕隊や学校報国団が結成されていきます。
大正9年社会科主任として教鞭をとると同時に学監に就任して以来、本学の運営に積極的に関わってきた圓谷も、時局への対応に迫られます。
『日本大学新聞』に載る圓谷の言動を見ると、「世界制覇の戦士として」(第301号)・「大理想の下に働け」(第312号)・「国家的の人材たれ」(第338号)・「豪雨を冒し専工の野外教練」(第343号)等々の見出しで、予科長・学校長としての訓辞が毎号のように載っています。工学科・予科の報国団長、督学、練成監に就任など、学園の先頭に立って国家の要請に応え得る学徒を育てる気概が感じられます。
圓谷門下の海野力元教授が「言葉は悪いが、いわゆる親分肌であり、学者タイプという方ではなかった。だから、日大全体の運営に能力を発揮し得たのだと思う、いわゆる巨木的存在感があった」と回顧しているように、日本大学を支える「巨木的存在」だったのです。
このような圓谷を象徴するかのように、終戦直後の昭和21年7月、本学は理事長制を創設し、圓谷は初代理事長に就任することになりました。
昭和24年11月、圓谷は学園からはなれ証券会社重役として活躍していましたが、心臓マヒで急逝。享年62歳でした。(『日本大学新聞』第259号)
圓谷は学生時代、法文学部で山岡の刑法の講義を聞き、その哲学的な内容に刺激を受け、京都大学に転じて歴史学と社会学を学んだが、歴史学では内藤湖南(東洋史学者)の薫陶があったようで、後年中国を訪問して「支那社会の測量」を出版した。昭和9年5月に「集団社会学の研究」で文学博士を授与された。