日本大学の歴史

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高度経済成長期の日本大学を牽引 古田 重二良 Jujiro Furuta

1901年生〜1970年没

古田 重二良

日本大学は、戦前において第3代総長山岡萬之助を中心に、人文・社会・芸術・工学・医学・農学など広い領域にわたる学部・学科を創設し、総合大学の基盤を築きました。そして、戦後において会頭古田重二良を中心に、「世界的総合大学」をめざして、理系の学部・学科を中心に増設し、財政基盤の確立に努めました。

古田は、明治34(1901)年6月に、秋田県河辺郡下北手村(現秋田市)に生まれました。大正13(1924)年に日本大学専門部法律科を卒業し、翌14年同郷の法文学部教授圓谷弘の勧めにより、日本大学職員となりました。昭和20(1945)年に工学部(現理工学部)事務長となり、その後、理事・理事長・理事会長を経て、33年に会頭、44年に会長に就任しています。この間、私立大学連盟理事、私立大学審議会会長として、私学全体の振興にも尽力しています。

古田の大学構想

戦後の国際社会は、資本主義と社会主義が激しく対立する中、科学が飛躍的に進歩し、産業の発達が国家の命運を決定する状況となりました。そこで各国は科学技術の開発のため、理系の高等教育の充実に力を注いでいました。昭和31(1956)年、古田は日本大学企画委員会総会において、「今日の内外の情勢から観ての大学の在り方」と題して講演を行いました。その中で、「近年の急速な科学の進歩に対し、日本が世界の進運に遅れないためには、大学の研究と教育が重要である」と強調しています。その上で、「日本の大学は世界から遅れており、日本の実社会にも対応できていない」と危機感をあらわにしています。続けて、日本大学について、「理系学部の割合が高いが、内容は世界の一流大学には程遠く、日本の大学の中でも、学部・学科は多様であるが、内容はすべての点において良いとは言えない」と指摘しています。

このような点を踏まえて、古田は、昭和34年の創立70周年を機に日本大学を、①社会の変化に対応した教育・研究体制に改善する、②各学部が創意工夫して、私立大学の中でトップをめざす、③国内の大学と競争するだけでなく、「世界的総合大学」の水準にまで発展させる、という目標を立てました。大学の大衆化が進み、団塊の世代が高校・大学に入学する昭和30年代中期から40年代初期を、2度と来ない絶好の機会と捉え、35年から3カ年計画、38年からは5カ年計画を実施し、教育・研究の内容、施設の整備、教職員の待遇など、あらゆる面にわたって改善に努めました。

日本大学創立70周年記念式典(昭和34年)

日本大学創立70周年記念式典(昭和34年)

教育組織の拡充

高度経済成長が始まり、高等教育への進学率が急速に高まると、日本大学は新時代の要望する学部・学科を増設しました。昭和32(1957)年に経済学部の商業学科を独立させて商学部を設置し、昭和33年に物理学科を設置して理工学部、中高教員の養成を目的に文理学部を発足させました。さらに、昭和40年に工業技術と経営学の知識を身につけた人材を養成するため第一工学部(翌年生産工学部と改称)を設置しました。同学部では、いち早く生産実習(インターンシップ)を取り入れています。このほかにも既存の学部に学科を増設し、多くの付属高校も併設しています。

また、古田は、科学の進歩による物質文明の弊害、世界諸文化の流入による思想の混乱、資本主義と共産主義との対立などを解決するためには、領域を超えた総合的研究が必要と考え、綜合科学研究所、精神文化研究所、原子力研究所(現量子科学研究所)を基盤として、総合大学院を構想しています。同大学院では、日本大学の独自性を打ち出すような高度な研究をめざしましたが、大学紛争により実現できませんでした。一方、国際交流を推進するため、昭和35年にアイゼンハワー米国大統領、37年にはロバート・ケネディ米国司法長官に名誉学位を贈呈しています。

ロバート・ケネディ米国司法長官への名誉学位贈呈式(昭和37年)

ロバート・ケネディ米国司法長官への名誉学位贈呈式(昭和37年)

産学連携の推進

当時、大学は実務教育の場ではなく、産業界とは関係なく独自の研究を行うべきであるとの考えが社会の趨勢でした。また、産学連携(当時は協同)は大学の自治を犯すものとして警戒されてもいました。しかし、古田は、大学は社会の中にあって、社会とともに発展するもので、象牙の塔に立てこもることは許されず、特に私立大学は産業界に多くの卒業生を送っていることから、積極的に産学連携を推進すべきであると考えました。

昭和37年3月に、財界・産業界の有力者によって日本大学教育事業後援会を組織し、10月には、銀行・会社などの事務系社員に、科学技術の再教育を行うため科学技術研修所を設置しました。これはリカレント教育の先駆ともなっています。前述した生産工学部の生産実習は、職業意識の育成という教育効果に加え、産業界との連携・交流をめざしたものです。

科学技術研修所終了式

科学技術研修所終了式

財政基盤の確立

私学は建学の精神を継承し、自主的な運営を行い、有為な人材を社会に送り出していますが、財政的には常に苦しい状態にありました。古田は、教育・研究と経営は一体であり、自ら財政基盤を強固にし、自立的な経営をなし得ぬかぎり、私学における学問の自由や研究の成果を期待することはできないと考え、財政基盤の確立に最大限の努力を注いでいます。戦後混乱期の日本大学の財政難を救うため、資金集めに奔走した古田ならではの考えでした。当時私学に対して国家からの助成金がほとんどなかったため、収入の増加をはかるために、学科の増設、学生数の増加、授業料の値上げを、時には思い切った方法で実施し、日本大学の財政を安定化させました。反面、急速な規模拡大は教育環境を悪化させ、日大紛争の要因ともなりました。

古田の先見性

日本大学体育祭で挨拶する古田会頭(昭和30年代)

日本大学体育祭で挨拶する古田会頭(昭和30年代)

以上のように、世界水準をめざした教育・研究の改革、国際交流の推進、「経営戦略」の重視、産学連携の推進、領域を超えた総合的研究、インターンシップ・リカレント教育の導入など、古田の大学構想は、後年の大学改革の多くを先取りしていました。財政を重視する大学運営は、「経営主義」として批判を受けることもありましたが、現在大学には「経営戦略」が不可欠となっています。産学連携については、教育と研究に加えた、大学の第三の使命としての社会貢献の重要な柱となっています。

また、世界的大学と対抗するために拡充した教育組織、苦心して取得した広大な校地は、現在日本大学の大きな資産となっています。

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