1868年生~1945年没
日本法律学校の廃校問題が浮上した明治26年(1893)、日本法律学校の講師となったのが、帝国大学を卒業したばかりの松波仁一郎(まつなみにいちろう)でした。松波はのちに東京帝国大学教授となりますが、昭和18年(1943)に日本大学法文学部長を退任するまでの約50年間、本学の教壇に立ち続けました。苦難の時期に講義を受け持った松波の回顧からは、日本法律学校時代の様子や明治20年代の本学の様子なども垣間見ることができます。
松波仁一郎は、慶応4年(1868)岸和田藩士の長男に生まれ、明治14年に同志社英学校普通科に入学しました。その後、帝国大学予備門を経て帝国大学法科大学英法科に進学して、明治26年首席で卒業しました。同年秋より、松波は日本法律学校で講義を開始します。
卒業後は法典調査会起草委員の補助として民法編纂に携わり、明治33年(1900)、東京帝国大学教授に就任して、商法・海法講座などを担当しました。大正12年(1923)には日本大学初代商学部長を兼任し、昭和3年(1928)、東京帝国大学定年退官後は、日本大学教授に就任して商経学部長・法文学部長などを歴任しました。
この間、明治32年のロンドン万国海法会議では副議長を務めるなど、我が国海事法学の創始者として活躍し、のちに帝国学士院会員に挙げられました。また、海法とともに国旗にも造詣が深く、『日章旗』などの著作を残しています。昭和20年11月に77歳で死去しました。
明治26年の秋、松岡康毅(後の日本法律学校第2代校長)と中村元嘉(大審院部長)が松波仁一郎宅を訪れ、日本法律学校講師就任を打診しました。最初は断った松波でしたが、同郷出身の中村が再度訪れたため松波もついに了承しました。中村から講師は無報酬であると伝えられた松波でしたが、それでも引き受けて自ら車代を払って講義を続けました。
この当時の状況について、後年、松波は次のように回想しています。
明治26年秋の時点では、松岡康毅はまだ校長には就任していませんでしたが、実質的には学校運営の中心となっていた様子が伺えます。そして、松波などの若手講師陣を無報酬、あるいは安い講義料で招聘したことは、後に思わぬ効果を生むこととなります。
松波ら若手講師陣は、金銭のために講義を引き受けたわけではなく、講義に熱心で、休講も多くありませんでした。彼らは十数年後には著名な学者となっていきますが、学者としての産声をあげた本学との関係を大事にしました。本学は、明治40年頃には「最も多く学界の流行児を講師として有する」学校として評判を呼ぶこととなります。
日本法律学校は、創立当初、飯田町(現在の飯田橋付近)にあった皇典講究所の一室を借りて授業を行いました。しかし、明治28年秋、皇典講究所が使用できなくなったため、独立校舎取得までの間、神田一ツ橋にあった大日本教育会の一室を借りて授業を開始しました。
大日本教育会での講義はあまり良い環境ではなかったようで、松波は次のように回顧しています。
大日本教育会で授業が実施されている間も当時校長だった松岡康毅は、校舎建設地を探し続けました。明治29年6月、ついに日本法律学校は三崎町に初の独立校舎を建設しました。
このように、明治20年代の日本法律学校は充分な設備が整った学校ではありませんでした。しかし、松波をはじめとする若手講師陣らの熱心な授業が世間の評判を呼び、学生数も着実に増加することとなります。松岡校長や松波ら若手講師陣らの教育への熱意は、廃校問題が浮上するほど校運振るわなかった日本法律学校を大きく飛躍させたといえましょう。
しばらく無報酬で講義をしていた松波でしたが、数年後には講師料が支払われたといいます。
講師に支払われた謝礼を「取り上げ」ないでも済むようになったのは、『日本大学百年史』によると明治33年9月頃であるため、松波は約7年もの間、無報酬講義を行っていたことになります。