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日本大学第三学園初代理事長 鎌田 彦一 Kamata Hikoichi

1886年生~1966年没

鎌田 彦一

昭和初期、総合大学化とともに中等教育機関の拡充を進めていた日本大学は、昭和4(1929)年、経営困難に陥っていた赤坂中学校を傘下に収め、日本大学赤坂中学校を設置しました(翌年日本大学第三中学校と改称)。鎌田彦一は、昭和6年から第三普通部(旧制第三中学校・第三商業学校)の総務、戦後も第三学園(新制第三中学校・高等学校)の理事長・校長として長く教育・経営に携わり、同校を東京の名門校に育て上げました。このほか、日本大学の評議員、維持員、協議員、昭和27(1952)年からは本部顧問も務めています。本学に勤務した50余年の間、負けず嫌いで行動的な性格から、何事にたいしても全力で取り組み、日本大学の発展に貢献しています。

内務省から日本大学へ

鎌田は、明治19(1886)年1月、青森県弘前市在府町で津軽藩士族の家系に生まれました。弘前中学校(現弘前高校)を卒業後、明治39年に内務省に勤務しました。大正4(1915)年、理事水野錬太郎(後の内務大臣)に才幹を認められ、彼の推挙により日本大学職員となりました。以後、本部会計課長・教務課長・庶務課長を歴任し、医学科・歯科・工科の財務監督も兼務するなど事務全般に携わりました。当時の職員は政界進出を志す者が多く、その職を一時的な腰掛けとしていましたが、鎌田は脇目もふらず職務にまい進しています。他方、学生の面倒見もよく、働きながら学ぶ苦学生には特に親切に接し、多くの卒業生から慕われています。

鎌田が撮影した故郷・弘前城 『鎌田彦一先生をしのぶ』より

鎌田が撮影した故郷・弘前城 『鎌田彦一先生をしのぶ』より

この頃の鎌田の際立った功績が二つあります。一つが、大正9年、危ぶまれていた、大学令による大学昇格に際し、理事山岡萬之助を補佐して、文部省への煩瑣な申請書類を不眠不休で仕上げたことです。二つ目は、大正12年の関東大震災後の復興に際して、校舎の新築から、教職員の給与、図書・機材の購入、運動部補助金の工面など、さまざまな仕事を円滑に進めたことです。大学昇格と素早い震災からの復興は、今日の日本大学発展の基礎となっています。

第三普通部・第三学園の発展に尽力

昭和6(1931)年、第三普通部総務に任じられた鎌田は、東京一の学校にするという目標を立て、校紀振粛・教育充実に全力を傾けました。まず、教育方針として、校訓「明・正・強」(明るく、正しく、強く)を掲げました。津軽藩士族の子として生まれた鎌田は、幼い頃から厳しい躾と人間教育を受けて育ちました。この校訓は鎌田の体験から生まれ、自ら実践してきた人生観でした。次に、教育の内容を良くするため、経験豊富で優れた者や新進気鋭で将来性のある者を新たな教員に採用しています。

昭和6年、第三普通部総務に命じられた頃の鎌田(中央)、平江正夫校 長(左)、富岡伊三郎副校長(右)『鎌田彦一先生をしのぶ』より

昭和6年、第三普通部総務に命じられた頃の鎌田(中央)、平江正夫校 長(左)、富岡伊三郎副校長(右)『鎌田彦一先生をしのぶ』より

そして、たびたび授業参観を開催して、保護者や近隣の小学校の教員を招き、学校の方針を繰り返し説明しました。このような努力により、次第に生徒が集まるようになり、老朽化した校舎では生徒を収容しきれなくなりました。しかし、校舎の新築は、財政的に容易なことではありませんでした。この時鎌田は私財も投じ、昭和11年に鉄筋コンクリート4階建て校舎を建設しました。鎌田は、多くの困難に直面しましたが、その都度、持ち前の精神力を発揮して克服し第三普通部を立て直したのです。

戦後、日本大学の体制は大きく変わり、昭和21(1946)年3月、第三普通部は日本大学から財団法人を分離し、日本第三学園(現日本大学第三学園)となりました。この時、鎌田は理事長に就任し、続いて、昭和28年には日本大学第三高等学校長、同中学校長も兼任しています。鎌田は、より一層第三学園の教育に情熱を注ぐようになりました。毎朝、校門に立って登校する生徒を迎え、服装の乱れた生徒や遅れてくる生徒に注意を与えました。また、校内巡視を欠かさず、教室・廊下・トイレに至るまで、掃除を徹底させました。鎌田が教育に情熱を傾けた理由がもう一つありました。それは長男一郎を沖縄戦で失ったことです。鎌田は、この深い悲しみを乗り越え、一郎の代わりに第三学園の生徒一人ひとりに愛情を注いだのです。

昭和11年建設の新校舎『三黌七十年の歩み』より

昭和11年建設の新校舎『三黌七十年の歩み』より

野球への情熱

鎌田は、勉学ばかりでなく、健康のためスポーツも奨励しましたが、特に力を入れたのが野球でした。野球に熱心になったのは、付属になったばかりの学校を立て直すためには、野球を通じた人間形成が必要だと考えたからです。やるからには甲子園出場を目指し、法政大学時代に名捕手として活躍した藤田省三(後プロ野球監督)を監督に招きました。藤田は選手を厳しく指導し、鎌田も練習場に赴き、選手を叱咤激励しました。昭和13(1938)年春の選抜大会に初出場を果たし、同年夏の甲子園に初出場しました。昭和14年の選抜にも2年連続して出場し、昭和15年の夏には準々決勝まで進んでいます。戦時体制が強化されると、公式試合は中止となりましたが、鎌田は、「野球は人間形成のためにやるのであり、大会があろうとなかろうと問題ではない」と述べ、昭和18年秋まで練習を続けさせました。戦時下においても野球を通した教育を実践したのです。

昭和37年、春の選抜大会準優勝の記念写真、中央が鎌田『三黌七十年の歩み』より

昭和37年、春の選抜大会準優勝の記念写真、中央が鎌田『三黌七十年の歩み』より

甲子園での応援指笛『三黌七十年の歩み』より

甲子園での応援指笛『三黌七十年の歩み』より

戦後も野球に対する情熱は衰えることなく、昭和27(1952)年の選抜で、戦後初の甲子園出場を果たし、同年夏も出場しました。昭和30年には、調布に「鎌田球場」(専用球場)が設けられ、選手は落ち着いて練習に打ち込むことができるようになり、昭和37(1962)年の春の選抜では準優勝しています。鎌田は、指笛をピー、ピーと吹き鳴らして応援したことから、「指笛の校長」として甲子園の名物にもなっています。鎌田は、甲子園での全国優勝を待ち望んでいましたが、それを見ることなく、昭和41(1966)年に80歳で亡くなりました。しかし、鎌田の野球に対する精神は、その後も監督、選手に受け継がれ、昭和46年に春の選抜大会で初優勝を遂げ、平成に入り夏の大会2度の制覇という偉業を成し遂げています。

昭和51(1976)年に、第三学園は赤坂から東京都町田市に移転しましたが、第三普通部再建の根本精神であった、校訓「明・正・強」(明確に正義を貫く強い意志)は、教育の基本方針として継承され、学園はさらなる発展を遂げています。グラウンドの横に設置された鎌田の胸像は、三高野球と第三学園を見守り続けています。

野球グラウンドを見つめる鎌田の胸像

野球グラウンドを見つめる鎌田の胸像

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