日本大学の歴史

  • 日本大学の軌跡
  • 沿革
  • 日大ヒストリア
  • 学祖 山田顕義
  • 日大をつくった先人たち
  • 歴代の理事長・学長
  • 動画で見る日大

戦後の通信教育を牽引 會田 範治 Hanji Aida

1881年生〜1974年没

會田 範治

「百科事典」「範治親分」「法学部の大久保彦左衛門」——。豪放磊落・博覧強記な名物教授として学生、教職員から慕われた會田は、84歳まで日本大学教授として本学の教育に携わり続けました。今回は法文学部教授、通信教育部長として本学をけん引した會田範治を紹介します。

生い立ち

妻子との写真(大正2年)

妻子との写真(大正2年)

會田範治は、明治14年(1881)、福島県西白河郡矢吹村(現・矢吹町)に誕生しました。石川高等小学校、石川義塾(後の石川中学校)を卒業後、日本法律学校に入学します。当時、日本法律学校は3年時編入試験を実施していたため、會田はこれに合格して3年生となり、すぐに卒業を迎えます。同期には、後に衆議院議長、厚生大臣などを歴任した秋田清がいました。日本法律学校は司法省指定学校であったため、卒業すると判事検事登用試験の受験資格を得ることができました。會田もこのために入学し、明治34年に卒業を迎えますが、3年以上の在学実績が無ければ受験資格を得ることができないことを知らされます。結局、補習料を支払って在学し、明治37年に受験資格を得ました。

明治38年には鉄道会社に入社、明治40年に判事検事第一回登用試験に合格し、司法官試補に任じられ東京地方裁判所で勤務しますが、すぐに退官して弁護士となります。このとき同じく退官して弁護士となった三木武吉(政治家)とは終生の友人だったそうです。大正9年(1920)からは発電会社、電燈会社で法律関係事務に従事し、昭和2年(1927)4月、46歳で日本大学の講師に就任しました。

法文学部教授として

昭和4年、會田は日本大学法文学部の教授に就任しました。この頃から研究活動が本格化し、『聖徳太子憲法と法王帝説の研究』「日本法制史料(養老令の註解)」などを執筆しています。日本法制史だけでなく、中国法制史、法哲学、論理学などにも造詣が深く、その幅広い知識に対して「百科事典」とあだ名を付けられていました。

大学院で會田に法制史の薫陶を受けた布施弥平治教授は、常々次のように言われたと当時の様子を振り返っています。

「法律から法制史に入って行ったのが東京大学派。歴史から法制史に入って行ったのに京都大学派が、有職故実から法制史に入って行ったのに國學院派がある。そして日本大学派っていうものはない。その時代時代の、宗教や思想が法の背景になっているものだから、日本の法思想を大成して日本大学派というのをこしらえよう」

本学の前身である日本法律学校の設立主意書には、設立の目的の一つとして「日本法学なるものを振起」することがうたわれています。これは、欧米諸国の法律を学ぶ法学教育だけではなく、日本法律学校創立以後は、日本法学という学問分野を体系化していくという宣言でもありました。日本法律学校に学び、母校で法制史を担当することとなった會田は、本学の設立目的を強く意識していたことがわかります。

終戦後の昭和22年には専門部法文師科長に就任し、昭和24年新制大学移行により法学部教授に任命されます。同年、「先秦学派の法思想」で法学博士号を授与されました。

学外では、日本学術会議の会員にも3回選出されています。第2回学術会議法律部門で委員長が数度の投票でも決定しなかった際、議長であった會田は「かくなる上はトウセン(投銭)法でいこう、人生は運だよ」と提議します。満場拍手のうちに永田菊四郎(日本大学第5代総長)が金貨を空に放り上げて無事に委員長が決定しました。緊張した場が一瞬のうちに和んだというこのエピソードは、會田の人間性をよく現しているといえるでしょう。

通信教育部長として

戦後の日本における教育改革では、教育の機会均等が打ち出され、大学における通信教育制度が整備されていきます。終戦間もないこの時期、学校施設の不足や経済状況により高等教育を受けることができなかった多数の成人・勤労青年が教育機会を求めていました。本学内でも通信教育を整備すべきという声が高まり、昭和23年11月に法・文・経3学部の通信教育が文部省に認定されました。初代通信教育部長には経済学部長で本部教務部長であった松葉栄重教授が就任し、會田は通信教育運営委員として創設当初の通信教育部に関与しました。

本部地下スクーリング宿泊風景(昭和27年頃)

本部地下スクーリング宿泊風景(昭和27年頃)

昭和24年度から通信教育部として授業を開始しますが、昭和25年度に會田が第2代通信教育部長に就任し、以後15年もの間、通信教育部長として教育、指導にあたりました。會田は、通信教育で必須ともいえるテキストの作成に力を入れます。昭和25年頃はテキストの用紙も配給制で印刷事情も悪いという状況下で、さらには新システムの教材製作ということもあって担当教授の執筆も思うようにはかどりませんでした。會田は、自ら「論理学」テキストを執筆する一方、執筆者に原稿督促などをして、昭和28年の初めには卒業資格に必要なテキスト101科目296分冊の完成にこぎ着け、第1回卒業生375名を無事に送り出すことができました。

通信の学生を語る座談会(中央が會田、昭和28年頃)

通信の学生を語る座談会(中央が會田、昭和28年頃)

會田の人柄について、高梨公之日本大学第7代総長は、次のように語っています。「一言にしていえば温かく、ざっくばらんで、天衣無縫ともいうべきものだったと思います。先生にずけずけと悪口をいわれた人は無数だと思いますが、みんな悦んでこれを聴き、それが機縁となってかえって温かい親近感さえ持ってしまう、それが先生独特の持ち味でした」

昭和40年(1965年)、會田は84歳で日本大学教授、通信教育部長を辞任します。その後は本学名誉教授、日本大学通信教育部顧問に就任し、昭和49年、92歳で死去するまで通信教育部に関わり続けました。

會田が通信教育部草創期に執筆した「論理学」のテキストは、約70年を経た現在でも通信教育部で使用され続けています。

昭和26年から通信教育部が使用した桜門ビル

昭和26年から通信教育部が使用した桜門ビル

Back to top