2023年12月のフィギュアスケートグランプリ(GP)シリーズ日本大会(NHK杯)で、初出場ながら日本勢最上位の5位に入り脚光を浴びた青木祐奈選手(2024年スポーツ科学部卒)。
卒業後も現役を続けるかどうか悩み抜いた末に、「今しかできないこと」を追求していく覚悟を決めた。
「スケートが好き」という気持ちを原動力に、表現者としてさらなる進化をめざしていく。

(2024年3月取材)

自分を変えるために 勇気ある決断

卒業式まであと1週間となった3月18日、青木祐奈選手はまだ迷っていた。5歳から始めて17年間、フィギュアスケート一筋に歩んできた“競技者”としてのキャリアに区切りをつけるか否かを。

6歳の頃、羽生結弦選手らを指導した名伯楽・都築章一郎コーチ(1964年法学部卒)に師事し、メキメキと頭角を現した。ノービス時代は、3回転ルッツ-3回転ループの高難度の連続ジャンプを武器に国内外の大会で活躍し、天才少女として名を馳せた。しかし、ジュニアに上がると怪我の影響により不振が続いた。さらに高校3年の夏には左足首を骨折し、2019-20シーズンは全休となった。
「最初はショックが大きかったのですが、入院している間に『来シーズン、一から頑張ろう』と切り替えられました。将来もスポーツに関わっていきたいので、骨折前からスポーツに関する様々なことが学べるスポーツ科学部に入ることは決めていて、病室で願書などを書いてました(笑)」

2020年4月に日大入学。戦いの舞台をシニアに移してからも、青木選手は思うような演技ができずにいた。そして2021年、全日本選手権でフリーに進めず最下位に終わると、自ら大きな決断をする。
「慣れや甘えが出ていると自分でも分かっていた」と、10年以上指導を受けてきた都築コーチの下を離れ、MFアカデミーへ移籍する道を選んだ。
「移籍は数年前から考えていましたが、都築先生の下でいい結果を出したい、恩返しをしたいという気持ちが大きかったので迷っていました。母やいろんな方の意見を聞いて考え、今後いい結果を出したいのであれば決断すべきだと思いました。いつも一緒に練習している選手仲間にも相談して、『そういうのもあるんじゃない』と背中を押してもらい、迷いに迷ってやっと決めたという感じです」

都築コーチはその決心を尊重し、優しく送り出してくれた。
「先生が『応援しているし、ずっと見守っている』と言ってくださり、うれしかったです。今でも試合後に連絡を取り合ったりして、いい関係は続いています」

「ずっとやってきたことを一度リセットするのはとても勇気が必要でしたし、全く新しい環境でやることにすごい不安も感じていました」という心境を語る青木選手。だが、決断は間違っていなかった。新たな環境で、新たな指導者と、新たな気持ちでスケートに向き合っていく中で、青木選手はそのポテンシャルを本格的に開花させていった。

私の研究が、女子選手の手助けにつながればいい

「学校の授業はさほど欠席することもなく、ちゃんと出られました」と笑った青木選手。スケーターとしての成長においては、スポーツ科学部での学びが役立つこともあったと話す。
「元々、スポーツ心理学に興味があったのですが、授業で深呼吸の仕方を教えていただき、それを次の試合で実践してみたら、何となくリラックスできたんです。それまで深呼吸を意識することはなかったので、そこを意識するだけでも違うんだなって」

さらに「ルーティンがあることも心理的に効果があると教わり、試合を重ねながら『これが合うかな』というのを探していって見つけることができました。競技にもいい影響があったかなと思います」

コロナ禍が明け対面授業が始まると、「学校に行くのがこんなに楽しいのかと思いながら通っていました」と笑顔を見せた。授業やディスカッションを通じて他の競技の選手たちと交流して刺激を受け、友だちも増えたという。
「陸上部や水泳部、ゴルフ部の方とはいつも仲良くさせてもらっていて、試合前に声を掛けてくださったり、互いに励まし合ったりしていました。福岡でのアイスショーに友だちが見に来てくれたことも。お互いスポーツをやっているからこそ通じあえるところもあるし、みんなで散歩しながら話をするだけでも楽しかったですね」

また、青木選手はスポーツ医学のゼミに所属して、女性アスリートの三主徴をテーマに卒業研究に取り組んだ。
「フィギュアスケートは審美系の競技なので、厳しい食事制限だったり、無月経とかで悩んでいる選手が自分の周りにもいます。そうした課題の改善に役立てることができないだろうかと考えました」

フィギュアスケーターのデータが少ないため、全国にいる友だちや、ナショナルトレーニングセンターに集まった選手たちにアンケートを依頼。さらに「海外の選手たちの状況がどうなのかを知りたかった」と、アメリカにいるスケーターたちにもSNSで連絡して、データを集めた。
「食事制限自体は仕方ないけれど、選手の意思だけでなく、指導者や家族のサポートがもう少し必要だと思います。ピルに対しても、特に中学生の子たちは知識が不足しているとわかったので、栄養指導や産婦人科の先生の講習などによって知識と理解を深めてもらい、問題改善と選手の助けにつながればいいなと思っています」

あの景色を、もう一度見てみたい

2023-24年シーズン、青木選手は3年ぶりに指定強化選手Aに復帰し、グランプリシリーズ・NHK杯への初出場も決まった。しかし、心の中では「振付師になる」という目標に向かっていくため、アイスイスショーに出演して経験を積んだり、コンテンポラリーダンスなど“陸で学ぶ”ことをしていきたいという思いが強まり、今季を競技者としての集大成と位置付け、現役引退を考えていた。

迎えたNHK杯、ショートプログラムは自ら考えた振付けで伸び伸びと滑り切り、8位。翌日のフリーでは、波瀾万丈な自分のスケート人生を、曲調が変化する音楽に乗せて表現した。フィニッシュして万感の表情を見せる青木選手を、会場中に響き渡る喝采が包み込む。

自己ベストを大きく更新する得点で、日本勢3人の中で最上位の5位入賞。自分自身で考えたプログラムが評価されたことも自信になった。そして、「大会前が一番引退に傾いていた」という心が揺れ始めた。

 

 

初優勝で有終の美を飾ったインカレでのフリーの演技【共同通信社】

初優勝で有終の美を飾ったインカレでのフリーの演技【共同通信社】

「こんなにたくさんの日の丸を掲げていただき、私のためだけにスタンディングオベーションで拍手してくださった。あの光景に鳥肌が立ちましたし、今まで感じたことのない感動でした。そして、この景色をまた見てみたいなという気持ちが湧いてきて、どうしようかなって…」

年末の全日本選手権を9位で終えた時点では、現役の継続か引退かは「半々だった」というが、年明けにインカレ初優勝を遂げ、国スポで8位となった頃には「6対4ぐらいで引退しようと思っていました」。

 

だが、その後に高橋大輔さんがプロデュースするアイスショー「滑走屋」に出演すると、これまでにない達成感を味わえた。
「ずっとアイスショーに出たかったので、オファーをいただいた時は「こちらこそお願いします」という感じでした(笑)。今回は現役のスケーターが集まってアンサンブルのナンバーをやるという今までにない形のショーだったので、完成形が見えず大変でしたが、リハーサルからみんなで協力して作り上げていったのでとても楽しかった。競技ではジャンプ・ジャンプになってしまい、表現がおろそかになってしまうこともありますが、アイスショーは観客を魅了することが大切だと思っているので、観客の方とコンタクトしながら滑ることが必要ですし、それが自分でもやりたかったことなので充実感がありました」

 

さらにオランダでの国際競技会では、小さな頃から仲の良い坂本花織選手とともに表彰台に昇り、彼女の戦う姿勢に感銘を受けた。
「オランダでかおちゃん(坂本選手)と、たくさん話をして、世界のトップで戦っていながら、さらに上をめざしていこうとするところが格好いいなって。私も常に向上心を持って、上をめざしていきたいと思いました」と語り、「それでまたフィフティ・フィフティに戻りました」と笑った。

3月中に去就を決め、引退なら4月に地元・横浜で開催される「リリーカップ」で最後の姿を見てもらいたいと話した青木選手。
「もし現役を続行することになったら」という仮定で今後について聞くと、「結果も大事ですが、それよりも見ていて感動する演技を届けられるスケーターになりたい」と目を輝かせ、「ジャンプが注目されがちですが、それだけじゃないフィギュアの魅力をもっと多くの方に知ってもらいたい」と続けた。

振り返れば、長く辛い時期を経験して「スケートを辞めようと考えたことは何回もありました」。だが、ここまで続けてこられたのは、「たくさんの方々に支えていただいたことと、『スケートが好き』という気持ちがずっとあったから」と話し、「フィギュアスケートは、なくてはならない私の一部。私が一番自信を持っていられるのが氷の上です」と胸を張った。

インタビューから1週間後、卒業式を終えた青木選手は、自身のSNSに「自分がやり切ったと思えるように、スケートに向き合っていきたいと思います」と、“現役続行”の決断と決意を綴った。

振付師として活躍する夢を少し先延ばしにして、今しかできないことに挑んでいく青木選手。「曲に乗せて滑る美しさを一番重視しています」という彼女の華麗な舞いを、多くのファンが待ち望んでいる。

Profile

青木 祐奈[あおき・ゆな]

2002年生まれ。神奈川県出身。横浜清風高卒。’24年3月スポーツ科学部卒業。名伯楽・都築章一郎氏に師事して頭角を現し、ノービス時代は3つの国際大会で優勝。’23年にGPシリーズNHK杯で5位入賞、’ 24年は最後のインカレで初優勝、チャレンジカップ2024(オランダ)で2位。

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