サッカーの2025シーズン、日本大学サッカー部からはJリーグ3チームとJFL1チーム、地域リーグ4チームに計8名の選手が加入する*。そのうち合同加入会見に参加した4名の選手 − 熊倉弘貴選手(法学部・4年、横浜FC内定)、熊倉弘達選手(法学部・4年、ヴァンフォーレ甲府内定)、木村凌也選手(スポーツ科学部・3年、横浜F・マリノス内定)、猪野毛日南太選手(文理学部・4年、クリアソン新宿内定)に、新たなステージに挑む今の思いを聞いた。
*宮坂拓海選手(法学部)がSHIBUYA CITY FC、宇宿響世選手(文理学部)がCOEDO KAWAGOE F.C、永田亮輔選手(経済学部)がFC BASARA HYOGO、堀越拓馬選手(経済学部)がVELAGO生駒に、それぞれ内定。
サッカーだけではない、人間的な成長を得られた4年間
横浜FC #28 MF 熊倉弘貴選手/ヴァンフォーレ甲府 #11 FW 熊倉弘達選手
新潟県五泉市に生まれ、2人の兄たちの影響でサッカーを始めた双子の兄弟。小学校・中学と地元のクラブチームでともにサッカーに打ち込み、高校も群馬県の強豪・前橋育英高校に揃って進学、 やがて“熊倉ツインズ”として全国にその名を馳せた。
コロナ禍の影響もあって高卒でのプロ入りは叶わず、「4年後には必ずプロサッカー選手になる」という強い思いを胸に大学サッカーでの成長を誓った2人。だが、その進学先を相談しあったわけではなく、「それぞれが考えて選んだ先が、たまたまお互い日本大学でした」(弘貴選手)。
入学当時、チームは関東リーグ2部で戦っていたが、熊倉ツインズの活躍もあって2年生の時に関東2部で準優勝して2005年以来の1部復帰を決める。3年生になってからは「大学日本一」をめざしてチームを牽引するとともに、幼い頃からの夢を実現すべく、ひたむきにサッカーと向き合ってきた。
4年生になり兄・弘貴選手は主将を任され、持ち前のリーダーシップをいかんなく発揮して勝利へ向けチームを鼓舞し続けた。「歴代の主将の中でも一番熱かった」と話す髙森望学生幹事(生物資源科学部・3年)は、その存在の大きさを語った。「熊倉主将がチームに対する意識、一体感を求め、部員たちがそれについていったことが今季の好成績につながったと思います」
一方、弟の弘達選手は、1年生時のリーグ戦の開幕戦で先発して以降、3年生時に1試合欠場した以外、すべてのリーグ戦に出場。4年間で87試合、23ゴール・19アシストを記録し、その攻撃力に自信を深めていった。
やがて、かねてより熱視線を送られていたJ2リーグのヴァンフォーレ甲府(以下V甲府)からオファーを受け、4年生になって早々の昨年4月に、2025シーズンからの加入が内定。同時にJリーグ特別指定選手として承認され、試合出場はなかったものの、プロの世界の一端に触れることができた。
また、弘貴選手も、2度ほど練習参加をしていた横浜FCから声が掛かった。豊富な運動量と左足からの正確なキックはもちろん、そのキャプテンシーも評価されてのオファーであり、7月に入り2025シーズンからの加入内定が発表された。
サッカー一筋といっても過言ではない4年の日々を経て、熊倉ツインズは、幼い頃からの夢であり、大学入学時からの目標であった「プロサッカー選手」の肩書きを手にした。そして2人は、人生初となる別々のサッカーの道を歩んでいく。
横浜FC加入内定の兄・熊倉弘貴選手
― プロサッカー選手となった今の気持ちを聞かせてください。
弘貴 小さい頃から夢に見ていたプロサッカーの世界に飛び込むことになりましたが、プロになるのが目的じゃなくて、その世界で活躍しなければ意味がない。もう横浜FCでの練習も始まっていますし、キャンプインも迫っていますが、そこで自分の長所をしっかりアピールして、開幕スタメンを獲れるように頑張りたいと思います。
弘達 高校を卒業する時に叶えることができなかったプロサッカー選手になりたくて、1年生の頃からずっと練習や実戦も含めて自分と戦ってきた大学生活だったので、4年生になってすぐ加入内定をいただき、特別指定選手にもなって― 試合に絡むことができなかったので悔しい思いもありましたけど ― まずはプロサッカー選手になれたことで安心と喜びがあります。と同時に、弘貴も言ったように、プロサッカー選手になっても活躍しないと全く意味がないと思うので、これからまた1人のサッカー選手として頑張っていこうと思っています。
― 練習参加などを通じてプロのレベルをどう感じましたか?
弘貴 当然レベルは高いですが、その中で戦っていかないといけないので、在学中からレベルの基準を常に高く置いて大学サッカーをやっていたので、さほど驚きというのはありませんでした。
弘達 夏の間、2週間ほどV甲府のチームに帯同していましたが、その中で感じたのは、選手それぞれに自分の“武器”というのがはっきりしていたなということ。レベル的にも、大学サッカーならば少しくらい苦手な部分でも何とかできてしまうところもありましたが、プロではそれが全く通用しないし、良い悪いっていうのがはっきりしているという印象でした。
ヴァンフォーレ甲府加入内定の弟・熊倉弘達選手
― そうした中でのアピールポイントは?
弘達 まずはゴールだったりアシストだったり、分かりやすい形で数字を残すところですね。まだプロになったばかりの新卒1年目みたいな感じで見られるかもしれませんが、1年目からレギュラーを張って、ヴァンフォーレを引っ張っていくような選手になるつもりでやらないと、選手としての成長もないと思うので積極的にやっていきたいと思います。
今季のチームは、昨年から大きく選手が入れ替わったので、コミュニケーションがまだ全然取れていませんが、早く自分を認めてもらって、かつ他の選手たちのプレースタイルをしっかりと捉えて、そこに関わっていけたらなと思っています。
弘貴 僕の武器としては、左足のキックとリーダーシップだと思っています。まだ、ポジションとしてサイドになるのか真ん中でプレーするのかはわかりませんが、サイドをやるのであれば、しっかり自分のサイドを一人でも攻略しないといけないですし、真ん中だったら左足のキックを活かしながら、ゲームにテンポを作っていきたいなと思います。できればボランチの方がやりたいですね。
― 進学にあたって、日本大学を選択した理由は?
弘貴 日大のスタッフ陣が「人間性」のところを大事にしているという部分です。自分たちも高校の時からそこを大事にしてきましたし、よくサッカーだけやっていればいいという大学や選手もいますけど、自分はそうは思わない。学生主体のトレーニングだったり、サッカー以外のところでの活動だったり、当事者意識を持ちながらチームに関わっていけるところが、ほかの大学にはないなと思って選択しました。
弘達 高卒でのプロ入りを考えていて、Jリーグのクラブの練習にも呼ばれていたんですが、コロナの影響で参加できなくなり、急遽、進学する大学を選ばなきゃいけないとなった時、あまり選択肢がなかった中で日本大学が受け入れてくれるという話をいただき、高校の先輩の近藤友喜さん(2023年・法学部卒)も在籍していたので、そこは迷わずに決めました。
― 日大での4年間を振り返ってどんなことを思っていますか?
弘貴 4年間、本気でサッカーをやってきたので、サッカーの技術的なところで伸びたというのは当たり前のようにありますが、サッカー以外のところで考えると、周りを見る目というか価値観というのはだいぶ変わったなと感じています。
歴代の先輩たちがチームのために動いていく姿を間近で見ていて、「組織に属する以上、こういう行動が必要だよな」っていうように、自分の中で1つの正解を形としてはっきり得られたところもあるし、3年生の時に4年生の主将をサポートしていこうと思った時からは、自分にフォーカスする時間よりも、チームのことを考える時間の方が圧倒的に長かったなと思います。
自分が主将となってからは、個人の結果よりも、チームの結果や中身の成長という部分を重視しながら1年間取り組んできましたが、それでも部員全員が全員、真面目ってわけでもないので、いろんな考えの人がいる中でチームが1つとして動くっていうのは本当に難しいなあっていうこと改めて実感しました。
弘達 何が何でもプロサッカー選手になってやろうという覚悟を持って日本大学に来た中で、ミーティングで川津監督がおっしゃっていた通り、みんなで練習するのは2時間程度で、あとの22時間をどう自分でデザインして生活していくのかっていうところは、本当にその通りだと思いました。周りの学生を見れば、いろいろ遊んだりしている人もいて、多少は羨ましいと思う部分もありましたが、自分はそこまで遊ぶことに興味がなかったし、サッカー選手であるとういうことが自分の中で一番輝いていたものでした。
振り返れば、楽しい大学生活ではありませんでしたが、プロサッカー選手になることができた今、4年間やってきたことは正しかったんだなと、改めて思います。
― この4年間、お互いのことをどのように見ていましたか?
弘貴 僕から見ると弘達は本当に“サッカーバカ”という感じですね(笑)。遊ぶというような考えは全くないですし、プロサッカー選手になるための4年間だったと思います。僕にはできないような突き詰め方をして、24時間、サッカーが終わってもサッカーのことを考えているようなそんな感じでしたね。
弘達 弘貴は、みんなが思い描く通りのリーダー像だったかなと思っています。みんながやりたくない仕事も進んでやるということも、本当は弘貴自身もやりたくないだろうけどリーダーだからやらないといけないっていう部分もあったと思うし、そういうところで4年生で主将になることになった時でもみんなから応援され、支えてもらえるような存在になっていました。僕も副主将ではあったものの、それらしいことは全然できませんでしたが、弘貴はチームの状況がどうなんだってなった時に、真っ先に動いたり発言したりして、チームがいい方向に向かえるように常に考えていたなと思います。
サッカーに関しては、子どもの頃からずっと左利きのキックを武器にしていたので、それが横浜FCのスカウトの方にも評価されたんだと思いますし、もともと良いものがあったんだなって…。
弘貴 (弘達選手に向かって)上からだね(笑)。でも、弘達の方が先にプロ入りが決まりましたし、デンソーカップチャレンジサッカーにも弘達は関東選抜で選ばれているので、今は何も言えませんが、プロサッカーの世界に行って、立場を変えられるようにするしかないと思います。
― 4年間の中で何か影響を受けた人や刺激を受けたことなどはいますか?
弘貴 1年生の時に同部屋で、主将を務めていた坪谷直樹さん(2021年度・文理学部卒、現サッカー部コーチ)。「こんな大人な大学生がいるんだ」というのが最初の印象で、周りの大学生が子供に見えるっていうぐらい自分の中ではインパクトがありました。振り返えれば、坪谷さんと出会って、一緒の部屋で生活できて良かったなって思います。
あとは、前橋育英高の同期の存在はやっぱり大きかったですね。彼らが各大学でチームの主力になっていくというのは、間違いなく自分にとっての危機感だったり、刺激になりましたし、同じポジションだった櫻井辰徳選手が高卒でプロの世界に入っていく(ヴィッセル神戸)ということ自体が刺激的でした。
弘達 僕は自分中心っていうのを常に思っていて、周りを特に気にしていなかったので、特別これっていうのはないですね。1年生から4年生まで、ちょっとずつ積み重ねてきた中で、毎日が刺激的でしたから。ただ、香川真司選手は大好きです。小学生の頃のアイドル的存在なので、この先、プロの世界で対戦できたらいいなと思います。
― プロとしてやっていく上で大事にしたいことは?
弘貴 応援してくれる人たちの期待は裏切らないっていうのは当然のことだと思います。今までは全力で本気でやればOKでしたが、プロではそれだけじゃだめで、結果も残さないといけない。加えて、自分が小さい頃にプロ選手たちに憧れてサッカーを始めたように、プロサッカー選手の立場になったからには、将来、子供たちから憧れられる存在にならないといけないと思っています。
弘達 僕も同じで、応援してくれる人たちに応えること、子どもたちに夢を与えることっていうのは常に意識していきたい。僕らが育った新潟県五泉市は、練習環境が決して良いとは言えなかったですし、そういうところからJリーガーが出るっていうのは夢のようなことで、先日、新潟のメディアに取材してもらった時も、「五泉市からJリーガー出るのはすごいよね」と言われるぐらいで、自分たちでもよくなれたなって思います。
僕らがサッカーに打ち込んだ地元のクラブも、今はだんだん子どもの人数が減ってきていますが、そうしたところからプロ選手になれたということで、環境に恵まれてない他の地域でも「サッカーが好き」っていう気持ちと熱量、そして周りで応援してくれる人たちの気持ちに応えようっていう思いがあれば、きつくても自然と体は動くと思うし、可能性も広がると思うので、そういうところを子供たちに見せたいし、伝えていきたいと思います。
― サッカーにおいて初めて別々の道を歩むことになり、不安はありますか?
弘貴 僕は全くないですね(笑)。
弘達 どこの世代に行っても、自分のプレースタイルを知っている選手が1人いて、自分が動けばボールをこう出してくれるというのがわかっていたという部分は確かに大きかったし、やりやすかったですが、それがなくなったから自分のプレーが出せませんというのは、海外や日本代表でプレーしたいという選手が言っていい発言ではないと思います。不安もないですし、一人なんか減ったぐらいの感じですね(笑)。
弘貴 寂しい?
弘達 いや、全然。
― 近い将来、ピッチ上でマッチアップするかもしれませんね?
弘貴 今やることになっても特には意識しないですし、単に相手の1選手としてつぶさないといけないところはつぶしにいきますけれど、相手の特長をわかっているだけに良くも悪くも対応しやすいし、しにくいしみたいな感じなのかな。
弘達 攻める側としては、そこが弱点で穴を見つけたみたいな感じで、そこを攻めれば勝てます(笑)。
― 最後に、プロになるという夢が叶った今、これから先の夢を教えてください
弘貴 直近で言えば、横浜FCで開幕スタメンというところですが、これからJリーグの中でしっかり活躍して、もし機会があれば、海外に挑戦したいなと思っています。
弘達 自分もまずはヴァンフォーレ甲府をJ1昇格に導きたいですし、そのために主力の1人にならなきゃいけないと思っています。2026年からJリーグのシーズンも変わって海外に行きやすくなると聞いているので、チャンスがあれば海外に行きたいと思いますし、いずれは子どもの頃からずっと思い描いていた「日本代表になる」という夢もかなえたいなと思います。
― ありがとうございました。
兄弟として、同志として、ライバルとして、サッカーへの情熱を力に切磋琢磨してきた熊倉ツインズ。それぞれの道でさらに成長を遂げ、いつの日かJリーグや海外でのマッチアップ、日本代表でのホットラインを見せてくれることだろう。

Profile
熊倉 弘貴[くまくら・こうき]
2002年生まれ。新潟県出身。前橋育英高卒。法学部・4年。小学校・中学校時代は地元・五泉市のFCステラで活躍。高校時代から熊倉ツインズ(双子の兄)として注目され、そのリーダーシップで3年の時に主将を務める。日大進学後も豊富な運動量と精度の高いキックが持ち味のレフティとして活躍し、4年生で主将。2年連続インカレ出場へチームをまとめあげた。’24年7月に、’25シーズンからの横浜FC加入が内定。

熊倉 弘達[くまくら・こうたつ]
2002年生まれ。新潟県出身。前橋育英高卒。法学部・4年。小学校、中学校、高校と、兄の弘貴と同じチームで活躍し、高校2年の時には全国高校選手権にレギュラーとして出場。日大進学後も1年次からレギュラーを張り、屈強な肉体とパワーを武器に4年間でリーグ戦88試合中87試合に出場し、攻撃陣の要として活躍。’24年のデンソーチャレンジカップで関東大学選抜のメンバーにも選出された。その直後の4月に、’25シーズンからのヴァンフォーレ甲府への加入内定が発表された。
日大の守護神から、F・マリノスの絶対的守護神へ
横浜F・マリノス #31 GK 木村凌也選手
小学3年生の頃、横浜F・マリノスの下部組織に加入した時はフィールド・プレーヤーだった木村選手。5年生の時にゴールキーパーに専念し、その才能を開花させると、2019年のU16日本代表を皮切りに各世代で代表および代表候補に選出され、世界を相手に戦ってきた。
高校卒業時に、マリノスユースからのトップ昇格は果たせなかったが、「昇格しても試合には出られないし、活躍できないだろうと思っていた」という木村選手は、日本大学スポーツ科学部に進学。1年生の時から日大のゴールマウスを守り、サッカー部の1部リーグ昇格、20年ぶりのインカレ出場に貢献してきた。
2023年のU-20W杯(アルゼンチン)でも日本代表の守護神を務めるなど実績を積み、「今ならやっていける」と自信を持った木村選手は、「やるならば早い方がいい」と決断。昨年12月の2度目のインカレを最後に、1年前倒しで大学サッカーから卒業して、古巣の横浜F・マリノスへ加入し、大学生Jリーガーとしてプロの世界に挑んでいく。
― プロサッカー選手となった今の気持ちを聞かせてください
まず、覚悟をもって1年早く決めましたし、F・マリノスの練習が明日から始まるので、今はすごい楽しみだなあっていうのが一番強いですね。これからは人に見られる機会が増えるので、プロ選手としての立ち振る舞いも意識しながらやっていきたいなと思います。
― F・マリノスへふたたび加入することになりましたが?
自分としてはF・マリノスだけで考えるということはあまりしたくなかったので、昨年は北海道コンサドーレ札幌のキャンプに参加したり、そのほかのチームで練習参加もして、いろいろと見ながら選択してきました。最終的にF・マリノスになったのは、もちろんチームに対する思い入れというのもありましたし、F・マリノスに入れば自分がより成長できるなと感じたのでお世話になることにしました。
― チームでのレギュラー争いでは、何をアピールしていきますか
F・マリノスのスタイルでもある、キーパーが攻撃に関わっていくビルドアップというのは、自分の特長としている部分でもあるので、そこを最大限引き出していきたいですし、シュートを止めるというのも、持てる力を発揮できればやっていけると思っています。ただ、もっとプレーの質を上げていかないと、ほかのキーパーには勝てないので、全体的にレベルアップしていきたいと思っています。J1の舞台、プロの舞台で自分がどれだけできるのか、楽しみですね。
サッカー部は退部したが、スポーツ科学部での学びは継続し、時間が許す限り三軒茶屋キャンパスにも通うつもりだという木村選手。「スポーツ科学部には五輪に出た人も身近にいるし、そこはすごいなと思うと同時に、自分もそういうレベルになりたいと思っています」
高校3年生の時に、サッカーへの熱が薄れて、プロになりたいとも思わなくなった時期があったのですが、それでも日大に入れてもらって、1年生の時から試合に出させてもらいました。そして世代別で選ばれるたびに、サッカーへの情熱、プロへの思いが少しずつ高まっていき、1年生の6月にU-19日本代表でフランス遠征をしたあとには、「プロになりたいな、なれるな」という自信が湧いてきました。もちろん、そのためには試合に出続けないといけないですし、その中で得られることがたくさんあると思うので、練習や試合を通じて自分がどう成長して行くか、どう行動していくかっていうことを考えながら、1試合1試合戦っていました。
― 成長を感じるところは?
監督やコーチには、コーチングの部分が良くなったと言われますし、技術面や質の部分も上がっていったかなと思います。振り返れば、人としてもプレーヤーとしても、とても成長できた3年間だったなと感じています。
― これまでの中で刺激を受けたような選手はいますか?
以前、F・マリノスで練習参加した時に一緒にやらせてもらった高丘陽平選手ですね。今はアメリカのリーグでずっとスタメンで出ていますけど、ビルドアップも上手くて、シュートも止められるし、この人すごいなと思いました。確かにみんな上手いんですが、高岡選手だけはちょっと違って、なんだか心にくるものがあったというか、印象に残っています。
― どういう選手になりたいと思っていますか?
見ていて面白い、すごいな、上手いなと思ってもらえる選手になりたいですし、子どもたちに目標とされる選手になりたいと思います。どちらかというとコミュニケーションはあまり得意じゃないんですが、プロ選手としてこれからはやっていかないといけないですし、サポーターから好かれる選手、認めてもらえる存在になっていきたいと思います。
― 海外挑戦など、将来的な目標は?
まだ具体的に、何年後にこうしたいというような目標はないんですが、U-20のW杯に出場したことは、サッカーキャリアの中でも大きな経験だったので、A代表でもW杯に出るというのが新たな目標ですね。
― 世界での戦いを経験して感じたことってありますか?
海外の代表選手たちは、勝つことへの執着がすごかったです。もちろん、日本の選手も全員勝ちたいと思っていますが、球際の部分だったりゴールへの執念だったり、そういうのはすごい強いなって思いました。また他国のサポーターの人たちも、その声援というのは凄まじいものがありましたね。代表活動が終わってから大学で活動する時は、そうした世界で経験したことを周りに伝えていくっていうことを意識しながらやっていました。
― 最後に改めて抱負をお願いします
1年目から試合に出ること、絡んでいくことはもちろんですし、その後はF・マリノスで絶対的な存在になっていきたいなって思っています。
― いつかJリーグの舞台で熊倉弘達選手のPKに相対する機会があるかもしれません
そうですね、その時は絶対に決めさせないですね(笑)
― ありがとうございました
Profile
木村 凌也[きむら・りょうや]
2003年生まれ。神奈川県出身。横浜高卒。スポーツ科学部・3年。小学生時代から横浜F・マリノスのジュニアユース、ユースチームに所属。’19年のU-16日本代表に選ばれて以降、U-19、U-20、U-22でも日本代表に選出され、’23年のU-20W杯では正GKを務めるなど国際舞台を経験。高校3年の時には横浜F・マリノスのトップチームに2種登録選手として登録される。日大でも1年次から正GKとなり、関東大学2部リーグの新人王を獲得するなど活躍。昨年11月、1年前倒しで’25シーズンから横浜F・マリノスへ加入することが発表された。
新宿を“J”の舞台へ導く原動力となる
クリアソン新宿 MF 猪野毛 日南太選手
町田ゼルビアのジュニアユース、ユースで培った技術を武器に、プロサッカー選手へと続く道を歩むために、猪野毛選手は勢い込んで日本大学の門を叩いた。だが、その道は想像以上に険しく、入学以来3年間はトップチームでの戦いに加わることはできなかった。
早朝の練習、向かうのは学生寮に隣接したBチームの練習場所である日本大学アスレティックパーク稲城内のラグビー場。数百メートル先にある専用サッカー場は遠く、ラグビー場を横切っていくトップチームの同期や後輩の選手たちを羨望した。心穏やかではいられない日々もあったが、「関東リーグに出る」という入学時の目標をあきらめず、全力で練習に打ち込こんでい
くうち、いつしか肉体的にも技術的にも成長していることを実感できるようになった。
3年生の夏、ポジションを右サイドから左サイドに変えて起用された試合で結果を出したことが転機となり、サッカー場で行うトップチームの練習に参加が許された。さらに、「4年生全員にチャンスを与える」(川津監督)というサバイバルを勝ち抜いて、ついにトップチームのメンバー入りを果たす。目標だった関東リーグにも開幕戦からスタメン出場を果たし、天皇杯予選準決勝では途中出場で値千金の決勝ゴールを決めるなど、存在感を示した。
しかし、願っていたJチームからのオファーは届くことはなかった。プロになる夢をあきらめ、一般企業へ就職することも考えたというが、熟考の末に、プロをめざせる可能性を求めて、リーグ戦時から熱心に勧誘してくれたJFL所属のクリアソン新宿への加入を決断した。
今はチームのJFL優勝に貢献し、J3昇格を実現する原動力となるため全力を尽くそうと心に誓う猪野毛選手。東京23区初のJリーグクラブの誕生、その時こそ「プロサッカー選手になる」という夢が大きく近づくことになる。
― 日本大学への進学を決めた理由は?
コロナ禍にあって、どれくらい練習参加できるかわからない中で、日大に練習参加させていただいたらすぐに合格をいただいたのと、ユースの時から尊敬していた2学年上の先輩から、「日大は良くも悪くも自分次第なんだ」という話を聞いて、そういうところもいいなと思って選びました。
― 3年生までBチームでの活動でしたが?
悔しかったですね。入学前は、1年目から関東リーグに出るという目標があったし、プロになりたいという夢を持って日大に来たので、3年生まではずっと苦しい時期を過ごしていましたが、そこは単に自分の実力不足。特に1年生の頃はBチームでも何かすごいものを残せたわけではないし、自分の存在感を見せられたこともなかったので、自分の力不足を痛感しました。同時に、ここからはい上がらなきゃいけないという思いは最初からあったので、その気持ちをブラさずにずっと努力し続けてきました。
― 日大サッカー部での4年間はどういうものでしたか?
今振り返れば、本当に刺激的な毎日だったなと思います。約2時間の練習をする以外は自分たちで考えて時間を活用していくという方針の中で、いろんな形でサッカーに対するアプローチをしている仲間がいましたし、それを見て自分に採り入れるもの、そうじゃないものを見極めていくというような毎日だったので、とても刺激的でした。
― 4年間の中での印象的な出来事や誰かの言葉などはありますか?
一番は、天皇杯予選準決勝での決勝ゴールです。3年間、自分がチームの勝利に貢献する姿をイメージしながら、トップチームの試合を応援したり、ラグビー場での練習に取り組んできたので、それが実現したという点でも印象に残っています。
言葉ではありませんが、先日、サッカー部のブログ(note)に熊倉弘達選手が書いていた文章を読んで、彼はなるべくしてプロになったんだなと思いましたし、あれほどの覚悟がないとそこに到達できないんだと感じました。あのnoteは絶対忘れないようにしたいと思っています。
― 就活にも取り組んだそうですが、その時の気持ちは?
将来はサッカーで食べていこうとずっと思っていたので、就活をやるということは、サッカー選手を諦めたという “負けた感”のような気持ちになって、本当にこれでいいのかという葛藤がありました。それでも朝になれば練習があるので、その気持ちの切り替えというのは本当に難しかったです。
精度の高い左足と、相手を翻弄するボールタッチでチャンスメイクする猪野毛選手。「生まれ育った東京で、23区から初のJリーグクラブ誕生というチャレンジに加われることに、ワクワクしています」
就活した一般企業から内定をいただきましたが、子どもの頃からの夢もあきらめきれずにいました。両親からは「迷いがあるならサッカーをやめたほうがいい」と言われましたし、周囲の方からもいろいろ言われましたが、大学4年間でサッカーに対するいろんな形のアプローチを見つけることができたことを糧として、自分が少しでも可能性を感じられるのであれば、そこに本気で打ち込めば道が開けると信じて、サッカーの道に進むことを決めました。ここでやめたらきっと後悔するだろうと思ったし、自分がこの先どこまでいけるんだろうっていう期待感、わくわく感というのに賭けたいという気持ちが大きかったですね。
― クリアソン新宿から声をかけていただいた時は?
関東リーグの会場で初めて強化部の方に声をかけていただきましたが、率直にうれしかったです。左サイドで抜き切らずに当てるクロス、それが自分の武器でもありますが、そういうプレースタイルを評価していただきました。
― クリアソン新宿への加入を決めた理由は?
試合や朝練に何度も足を運んでくださり、面談を重ねる中でチームのビジョンに共感しましたし、練習参加した際には、選手・スタッフ全員が人のつながりを大切にしながら、本気でビジョンの体現に取り組んでいる姿を見て「このチームでプレーしたい」という想いが強くなりました。
プロではなく、会社員として入社するので、クラブチームの広報活動や、新宿の街を活性化するための地域活動などの事業に携わりながら、プレーすることになりますが、ここで皆さんと一緒にサッカーができる、一緒に働けるというのがすごく楽しみです。
― サッカーを続けていく上で大切にしたいことは何ですか?
やっぱり“覚悟”ですね。サッカーをやめて安定の道を歩むという選択肢もあった中で、あえてサッカーを続けていくという意味を常に考え続けて取り組んでいきたい。その気持ちが自分の活力にもなっているので、そこは絶対にブラさずにやっていきたいと思います。
― 今後の目標、将来の夢を聞かせてください
まずはクリアソン新宿で絶対的な立ち位置の選手になること。チームを勝たせられる選手となって、2025シーズンのJFL優勝とJ3昇格に向けて貢献したいと思います。その先に、個人としてもJリーガーをめざしたいとを考えていますが、まずは同期の熊倉兄弟や僕の幼稚園からのライバルである日野翔太選手(サガン鳥栖)に追いつき追い越せるように頑張ります。
― ありがとうございました
Profile
猪野毛 日南太[いのけ・ひなた]
2002年生まれ。東京都出身。文理学部・4年。3歳からサッカーを始め、高尾SC、FC町田ゼルビアジュニアユース、FC町田ゼルビアユースを経て日本大学に入学。3年間はBチームで社会人リーグを主戦場としたが、4年生になりトップチームに昇格し、関東リーグなどで活躍。今年1月、’25シーズンからのJFL・クリアソン新宿加入内定が発表された。