2024年シーズン、26年ぶりの日本一に輝き、今季は「横浜奪首」をスローガンに、1998年以来となるセ・リーグ優勝をめざしているプロ野球・横浜DeNAベイスターズ。実はチーム内に4人の日大野球部OBが在籍し、それぞれの立場と役割で、躍動する若いチームの勝利と成長を支えている。

 

そのうちの1人が、14年ぶりに古巣に復帰した「男・村田」こと、村田修一コーチ(経済学部卒)。横浜ベイスターズ時代に2度の本塁打王に輝き、通算360本塁打を記録した稀代のスラッガーは、現役引退後、指導者となって若手育成に努めてきた。それから6年の歳月を経て、満を持しての横浜帰還。ベイスターズのために何をすべきか、何ができるのか、人材育成というフィールドに立つ村田コーチの、熱く、真摯な思いを聞いた。

 

 (取材:3月13日/横浜DeNAベイスターズ ファーム本拠地「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」) 

* 桑原義行2軍監督、村田修一野手コーチ、堤内健打撃投手、京田陽太内野手

自分が経験してきたことすべてを、
若い選手に伝えてあげたい

「優勝」という未知の体験を求めて、9年間プレーした当時の横浜ベイスターズから読売ジャイアンツへFA移籍したのが2011年のオフ。それから13年後の昨年オフ、リーグ3位からの下剋上で日本一に昇り詰めた横浜DeNAベイスターズは、27年ぶりのセ・リーグ制覇を果たすための“補強”として、かつての「ハマの4番」を新設した野手コーチとして招聘した。

 

「日大から自由獲得枠で横浜に入団し、ここでプロ野球選手としてのスタートを切らせてもらってから9年間、本塁打のタイトルも獲らせてもらったし、FA移籍するまでいろんな方にお世話になりました。野球人として育てていただいた球団ですから、次は僕が誰かを育てるっていうことでね。いつかは指導者として横浜に帰りたいと思っていたところ、いいタイミングで今回のお話をいただいて、とても光栄ですし有り難いと思っています」

2018年秋、BCリーグの栃木ゴールデンブレーブスで現役を引退した村田。翌年から巨人の1・2軍コーチを4年間務め、さらに千葉ロッテマリーンズの1軍打撃コーチとして初めてのパ・リーグも2年間経験した。

「選手として横浜・巨人、コーチとして巨人・千葉ロッテと、自分が経験してきたことを、今度は横浜の後輩たちに伝えてあげたいなという気持ちでやっています」

 

プロ野球の世界で22年間培ってきたものを若い選手たちに還元していく。その指導方法のベースは、「入団以来、本当によく面倒を見てもらいました」と、師と仰ぐ田代富雄コーチだという。ベイスターズの前身、大洋ホエールズ一筋16年で278本塁打を放ったホームランアーティストで、引退後は横浜・巨人ほか日韓4球団で長年打撃コーチを務め、村田をはじめ、内川聖一(横浜-福岡ソフトバンク)や多村仁志(横浜-福岡ソフトバンク-中日)、金城龍彦(横浜-巨人)、銀次(東北楽天)らの好打者や、現役では筒香嘉智(横浜)や岡本和真(巨人)を育てた名伯楽だ。

 

「僕が新人の頃、田代さんには夜間練習の相手もしてもらって、いろんなアドバイスをいただきました。巨人に選手としていた頃もいっしょにやる機会がありましたが、基本的には選手を見守るスタイルなんです。ずっと寡黙に見守っていて、ふとした瞬間にぼそぼそっと話をされるので、その一言を聞き逃さないように、いつも聞き耳を立てていました。今でも同じ形で指導されていますが、伝統として打撃のいいベイスターズの中で、田代さんの役割を僕が受け継いで、また次の世代のコーチや選手たちに伝えていくための架け橋になりたいと思っています」

 

今は常に田代コーチのそばにいて、「横浜スタジアムのロッカーも隣りですし、可能な限り食事などもいっしょに行かせてもらっています」と、指導者としてのあり方をその姿に学んでいる。「常に見守っていて、選手が欲しい時にアドバイスをちょこっと言えるコーチになってほしい」と言われているそうで、「僕もそういう気持ちでやっています」と、選手たち自身に考えさせることに重きを置いているという。

 

「バッティングにおいて打ち方、構え方、ボールの捉え方というのは十人十色で、どうやって打ちたいのかっていうのも選手個々で違うと思いますから、今やっている練習は何のためにやっているのか、その辺も自分でしっかり考えていてほしいですし、それを考えることによって個々の成長にもつながると思います。自分でやっていかないといけない時代に来ている中で、そのサポート役として選手に寄り添い、同じ方向を向いていければいいなと思いますね」

野球人としての2つのターニングポイント

2011年のシーズンオフ、村田は前年に取得した国内フリーエージェント(FA)の権利を行使して巨人へ移籍。前年のオフは「もう一度自分のバットで球団に恩返ししたい」とFA宣言せずに横浜に残留したが、翌年も再びセ・リーグ最下位に沈むと「優勝したいという目標を捨てきれない」と、チームを出ることを決断。それがプレーヤーとしてのターニングポイントになった。

「巨人に移籍したことで、優勝するチーム、勝つチームというのはどういう野球観で、どういうスタイルでやっているのか、肌で感じることができました。それは現役時代の横浜では経験できなかったものです。WBC(2009 WORLD BASEBALL CLASSIC)でも怪我で途中離脱して優勝の瞬間を味わうことができなかったので、そこを味わいたい。それはどんなものなのか、せっかくプロ野球に入ってきたのだから経験したいっていうのがあって出て行ったわけです。横浜が今シーズンをスタートするにあたって、昨年は日本一になったけれど、シーズンは3位だったよねっていう思いをみんな持っているはずですし、僕が感じ取った143試合通して優勝するチームの肌感、経験といったものが今のチームには必要です。それを伝えていくことも、僕の仕事だと思っています。ターニングポイントでの自分の選択は間違いじゃなかったと思うし、自分が得たことをこれからに活かしていく機会をいただいたという感じですね」

 

もうひとつのターニングポイントは、2018年の1シーズン、BCリーグの栃木ゴールデンブレーブスでプレーしたこと。実は指導者の道を考えるようになったのは栃木に来てからであり、ここで過ごした時間が今の指導者としての原点になっているという。

 

「NPBでプレーしていた当時は、将来指導者の道に進むなんてことは全く考えていませんでした。しかし、現役最後の1年を栃木でやらせてもらって、20代前半の若い選手たちと一緒に野球をやって汗を流し、ティーバッティングではビニールテープを巻いたボールを打つというような経験もする中で、次第に指導者になりたいと思うようになりました。そういう厳しい環境のところからプロ野球を目指し、1軍に這い上がっていこうとする選手たちに、僕の経験したことをすべて伝えてあげたい、そして彼らの人生がより良いものになればいいし、その手助けをしたいなっていう気持ちが芽生えてきたんです」

 

指導者になることを決めた後は、「話術を身につけたほうがいいんじゃないか」などと考え、いろいろな本を読むようになり、さまざまなことを考えるようになったという。

「初めての一人暮らしでしたし、暇だったので、考える時間は結構あった。栃木に行かないまま指導者になっていたとしたら、そういうふうに本を読んだり、いろんなことを考えたりはしていなかったかもしれません。今思えば、栃木での日々は重要な時間だったなと感じますね」

間違いを止められる指導者になりたい

2019年からは巨人と千葉ロッテで6年間コーチを務め、厳しいサバイバルに身を置く選手たちと接してきた。その中で、感じ得たことも多くある。

「プロの世界は競争の世界ですし、指導者の力だけでみんなをしっかり育てられる環境ではありません。やはり、自分で考える選手、自分でこうやっていくんだというのを持っている選手が伸びていくんだなというのをつくづく感じます」

 

選手を指導する時に、村田がよくする話がある。「偶然のヒットを打つのではなく、自分で狙ったボールを狙ったところに必然的に打てる選手になろうよ」と。

 

「この投手のこの球を狙って、絶対に捉えるんだっていうものを身につけることが大事なんだと言っています。それでも狙った球を捉えられなければ、室内練習場にこもったり、素振りをしたり、自分から練習することで成長につながっていく。こちらからあれやれ、これやれというのではなく、『この選手、自分で練習やるようになったな』というのが見える選手は伸びていくように思います。もちろん、そういう形にもっていくために、『先輩たちもやっているし、そういう習慣を身につけていく方がいい』って、話術を駆使してうまく誘導して引っ張り込むようにしています(笑)」

 

さらに、「投手は、打者が打ちたい球を投げたりしない」という、かつて投手出身の監督に自身が言われたエピソードも選手たちに語って聞かせる。

「自分が打ちたい球を相手が投げてくるわけがないというのはその通りなんですが、それでも打者は好きな球を打ちたいですから、考え方を切り替えるのがなかなか難しい。待ち球が、自分の好きな球ではなく、相手が投げる球に切り替わる時が、選手個人としては成長する瞬間ですから、僕らも見極めていかないといけない。この選手はまだ好きな球を待ったほうがいいのか、もう1段階上がって相手投手との対戦を考えなきゃいけない選手なのか、そこはうまく見極めながら育成しているつもりですし、していきたいと思っています」

 

それがうまくできた選手は褒め、それがどういう感覚だったかを聞き、自身で書き記すようにさせる。

「コーチ陣は年々シャッフルがあるので、『いつまでもお前の横に俺はいられないぞ』って言って、自分のものにして自分のスタイルにするには書き留めておいた方がいいよって言っていますし、実際、それを実行して良くなっていった選手も多くいます。僕らも選手個々に記録を取っているので振り返りも一緒にしますが、選手自身の口でしっかりと状況を話せるようになってくると、成長しているのがわかりますね」

ベイスターズのファームと日大野球部のオープン戦の試合を見守る村田。

ベイスターズのファームと日大野球部のオープン戦の試合を見守る村田。

田代流の指導を実践しながらも、指導者として自らのスタンスも考えている村田。

「今の若い選手たちは昔と環境も違いますし、与えられるものも違います。良くも悪くも厳しく指導されることがなくなってきているぶん、自分で考えて行動することが求められるようになっていますが、そのすべてが正しいとは限らない。選手が自分のやりたいようにやって、それが間違っていた時には止められるような指導者になりたいと思っています」

後輩たちをいつも気にかけている

大学4年間の一番の思い出を聞くと、「やっぱり3年の春に優勝したこと」と即答した村田。チームメイトと喜びを分かち合えたことが一番うれしかったと話し、「練習拠点が桜上水から習志野に移転してすぐだったので、“何くそ魂”で優勝できたというところで喜びもひとしおでした」。

東福岡高のエースとして甲子園にも出場したが、日大入学後は打撃力を生かすために野手に転向。3年秋のリーグ戦ではシーズン8本塁打を放った。

東福岡高のエースとして甲子園にも出場したが、日大入学後は打撃力を生かすために野手に転向。3年秋のリーグ戦ではシーズン8本塁打を放った。

また、ウェイトトレーニングは当時からまったくしないと言い、大学時代は2kgぐらいの重いロングバットを使ってのロングティーをずっと行っていた。

「技術練習というよりもフィジカル強化になるんでしょうけど、重いバットでしっかり逆方向に飛ばすのはなかなか難しいので、それをずっとやっている間にいい感覚を身につけられたと思います。大学3年生の後半ぐらいから、逆方向の打球がホームランになるようになり、そこで僕の評価がバッと上がりましたからね。そういう意味で、大学に入ってから野手一本で勝負しようという僕の考えと、当時の鈴木博識監督の考えが一致したっていうのは有り難かったですし、大きかったかなと思います」

 

日大野球部の動向は今でも気にかけている。

「リーグ戦の勝ち負けは見ていますし、なかなか青山学院大に勝てないなあっていうのは知ってますけどね(笑)。ちゃんと情報をチェックして、頑張れって言いながら祈っています。一昨年、優勝に王手をかけてたところで、優勝したらお祝いを贈ろうかと準備していたんですが、青学に連敗して優勝できなかったので、回収しました(笑)」

この日は、隣接する横須賀スタジアムでベイスターズのファームと日本大学野球部のオープン戦が行われ、村田コーチは日大チームの打撃練習をチェックしていた。

「谷端(将吾)君はコンタクトが上手でシュアなバッティングをしていましたし、下級生にも結構いい打者がいたので楽しみです。また、日大の後輩たちがプロに入ってきて高いレベルで野球をやっているのを見るとうれしいですね。京田(陽太)選手も中日から横浜に移って来て頑張っていますし、巨人の赤星(優志)投手も活躍している。これからもっと増えてきてほしいと思います」

求められる人間になって いつの日か

最後に、指導者としての今後の目標や夢をたずねると、「めざすところとかは、あまり考えてないな」と思案した後に、チーム愛あふれる言葉で答えてくれた村田。

 

「僕が経験したことをみんなに伝えていきたいし、1年でも長くみんなに野球をやってほしい。目標はないけれど、目的はそこだけです。伝えたい。あとはいい流れに乗るだけでいいし、ベイスターズはもう優勝できるチームになっていますから、いかにそこに貢献していけるかだと思います。本当に優勝するチームになりつつあるのかというのを、中に入って自分の目で確かめるチャンスをもらったし、チームが強くなっていくのを肌で感じられるっていうのはとてもうれしいこと。このチームで、みんなとともに上をめざしていきたいと思います」

 

期待を込めて、一歩踏み込んでたずねてみたーーー「将来的には監督とか…」

すると、終始変わらないまっすぐな視線で、力強い言葉が帰ってきた。

 

「そこは自分でやりたいと言っても、なかなかたどり着けないところ。まずは『村田だったら大丈夫』と言われるような人間になることが大事だと思っています。そうなれたら、いつかチャンスが巡って来るかもしませんし、来ないかもしれない。それでも、そこに値するだけの人としての考え方や器だったりというのは、自分が勉強して成長しないといけない。だから、『あいつにやらせてみたい』と思われるような人間になりたい。個人的にはそこが目標ですかね。あとはチームが常に上に向かえるような環境を、僕らが作っていければいいかなと思います」

 

現役時代、「横浜」で味わいたかったリーグ優勝と日本一を、今は指導者として選手たちに味合わせたい。「男・村田」の心意気と指導力が、横浜DeNAベイスターズの強さをさらに高めていく。

Profile

村田修一[むらた・しゅういち]

1980年生れ。福岡県出身。東福岡高卒。経済学部卒。高校時代は投手として3年の春夏に甲子園出場。日大では野手に転向し、3年次の春季リーグは主砲として21度目の優勝に貢献。2002年秋のドラフト会議において自由獲得枠で横浜ベイスターズ(当時)に入団。07年・08年は2年連続セ・リーグ本塁打王に輝き、08年の北京五輪、09年の第2回WBCの日本代表に選出。12年に巨人へFA移籍。BCリーグ・栃木ゴールデンブレーブスでプレーした18年を最後に現役引退。NPB通算で出場1953試合、1865安打、360本塁打、1123打点、打率.269。巨人、千葉ロッテで打撃コーチなどを務めた後、今シーズンから横浜DeNAベイスターズに野手コーチとして復帰した。

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