我、プロとして

Vol.12 樋口 純一 氏【前編】
日本橋弁松総本店八代目当主(1994年法学部法律学科卒)

卒業生
2021年04月23日

「何事もなんとかなる」

2021年で弁松総本店は創業171年を迎えた。長きに渡り人々に愛されている伝統の味を守るが八代目の樋口純一氏だ。前編では日本最古の弁当屋・弁松総本店の歴史、26歳という若さで社長に就任した樋口氏の半生を紹介しよう。

日本最古の折詰弁当専門店

弁松総本店近くにある三浦按針屋敷跡の史蹟

弁松総本店近くにある三浦按針屋敷跡の史蹟

江戸幕府が徳川家康によって開かれた1603年、日本橋は五街道の起点となり、城下町として急成長を遂げた。全国から商人、職人が集まっただけでなく、水運にも恵まれたこの地にはさまざまな物質が集結・流通するようになる。

開府から200年以上が経過した現在でも日本橋は華やかだ。
うなぎ、寿司、そば、天ぷら、すき焼きなど、創業100年を越える老舗店が点在し、街に彩りをもたらしている。その中でも日本に現存する最古の折詰弁当専門店、弁松総本店は異彩を放つ。

弁松の前身となる樋口屋の創業は1810年。
越後生まれの樋口与一が、当時日本橋のたもとにあった魚河岸の場内に食事処を開いた。

盛りのよさが評判を呼び、店は繁盛したが、得意客である魚河岸で働く人々は食事途中に席を立つことがしばしばあった。冷蔵庫も冷凍庫もない時代では、朝仕入れた魚を昼までに売り切る必要があり、のんびりと食事をする時間を取れなかったのだ。

そこで与一は残った料理を経木や竹の皮に包んで持ち帰ってもらった。これが好評を呼び、そのうち初めから持ち帰りを希望する客が増えたそうだ。

「弁松のルーツは魚河岸で働く人々への心遣いにあります。二代目の竹次郎もイートインとテイクアウトの両方を行っていましたが、三代目の松次郎の頃には弁当の方が売れていて、『弁当屋の松次郎』という愛称で親しまれていたそうです。そこで1850年(嘉永3年)に樋口屋を閉め、折詰弁当専門店として新たな一歩を踏み出します。店名は三代目の愛称を略して『弁松』となりました」

洋食文化が世間に広がった明治時代、関東大震災と東京大空襲で2度店が焼失した大正、昭和時代など、困難な場面は数多くあったが、弁松は171年もの長きに渡り、人々から愛され、戦後は現在と同じ場所(三浦按針屋敷跡)で暖簾を守ってきた。
 

旅から学んだこと

1人旅について語る樋口純一氏

1人旅について語る樋口純一氏

昭和40年代半ば、弁松で初めての婿養子として徹郎氏が七代目に就任。それからほどなくして、純一氏が生まれる。

幼いころ純一氏は門前仲町に住んでいたが、日本橋にある幼稚園、小学校に通っており、学校が終わると店へ行き、営業終了後に家族で自宅へ帰るという生活を送っていた。

「親の仕事を毎日のように見ていたので、いつかは自分もここで働くのだろうと考えていました。初めて店の手伝いをしたのは中学生のときです。うちではおせち料理を販売しているのですが、年末の繁忙期に簡単な作業をして小遣い稼ぎをしていました」

高校は日大豊山に進学。他にも合格した学校はあったが、当時から日本大学は弁松の得意先の一つで、純一氏に馴染みがあったというのも決め手となったようだ。

「学校から近い池袋で友人と遊んだり、教室で漫画について盛り上がったり、たわいもない日常が楽しかったです。今でもふと当時を思い出すことがよくありますよ」

その後、本学法学部に進学した純一氏は多目的サークルに所属し、テニス、スキー、BBQに興じるなど、充実した大学生活を送った。バックパックで旅に出かけたのも大学時代のことだ。大学3年のときに一つ上の先輩の卒業旅行に誘われたのがきっかけだった。

「家族で海外旅行をしたことはありましたが、帰国する日と場所以外に何も決まっていない旅行に出かけたのは初めてのことでした。ガイドブックを頼りにヨーロッパを巡ったのですが、冒険をしているようでとても興奮しましたね」

大学4年の卒業旅行ではサークル仲間とアメリカを巡った。大学卒業後、2年間、修行として新潟県の栃尾にある親戚の料理屋に勤める。退職して弁松に入るまでの7カ月間、1人で旅行へ出かけた。

「そのときにはアメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカ、アジアを巡りました。この一人旅では言葉や食事など、いろいろと大変なことがありましたが、この旅を通じて『何事もなんとかなる』と考えるようになりました」

一人旅から帰国したのは年末のことで、翌年、純一氏は弁松に就職する。社長に就任したのは、それからわずか半年後のことだった。

若くして八代目に

弁松総本店のロゴ

弁松総本店のロゴ

純一氏が弁松に入ったとき、七代目であり父である徹郎氏の体調は優れなかった。

「父は酒とたばこのやり過ぎで、肝硬変から入退院を繰り返していて、最後は大量の血を吐いて亡くなりました。体が万全ではないと思っていましたが、まだ56歳でしたし、まさか亡くなるとは本人も家族も思っていませんでした」

こうして、当時26歳だった純一氏が八代目として社長に就任することになる。経験の浅い青年が社長に就任するとなると、さぞ不安が大きかったと考えてしまうが、本人も周囲の人間もあまり心配をしなかったようだ。

「財務状況、決算書の読み方、社員の能力の判断基準など、何もかもわからない状況でした。それでもベテランの職人さんが多くいましたし、祖母、母、叔母がいて経理も心配なかったので、『なんとかなる』と考えていました。もちろん代替わりしたときは、とにかく一生懸命に働きましたけど」

就業規則から弁当の詰め方まで、この20年ほどで大小さまざまな改革を施した。その中でも特に印象に残っているのは限定弁当の販売だ。

「社長に就任して数年後に今の日本橋が架橋88周年を迎え、デパートから依頼もあり、888円の限定弁当を出したんです。それがすぐに完売して、いつもと違うことをするとお客さんは喜んでくれると知りました」

季節やイベントごとに限定弁当は現在も販売されており、客からも好評だ。

それでも伝統を守り、変えていないことがある。それは弁松の味だ。

<プロフィール>
樋口純一(ひぐち・じゅんいち)

1971年12月22日生まれ。1994年法学部法律学科卒。東京都出身。日本に現存する最古の折詰弁当専門店、弁松総本店の長男として生まれる。97年に急死した父・徹郎氏の跡を継ぎ、26歳で八代目に就任。2011年には江東区永代に新工場、13年に新本社を建設。先代・先々代のような販路拡大路線ではなく、これからの時代に合った本店回帰を目指し、従業員と共に新たな弁当の可能性と弁松のこれからの在り方を模索している。