Vol.15 古竹孝一 氏【前編】いすみ鉄道株式会社代表取締役
(1997年日本大学大学院理工学研究科交通土木工学専攻〔現・交通システム工学専攻〕修士課程修了)
大多喜駅構内にて
千葉県いすみ市と大多喜町をまたぐ、全長26.8kmのいすみ鉄道。大原駅から上総中野駅までの14駅で構成され、小湊鉄道と接続することで、房総半島を横断することが可能だ。現在、いすみ鉄道の代表取締役を務めるのが本学出身の古竹孝一氏である。香川県高松市で若くして社長に就任した古竹氏に、その波乱万丈な経営者人生を語ってもらった。
社長公募について語る古竹氏
「菜の花鉄道」「国鉄時代の車両を活かしたキハレストラン列車」として、多くの鉄道ファンや近隣住民から親しまれている、いすみ鉄道株式会社。
その歴史は古く、大原駅から大多喜駅間が開通したのは大正元年のことで、国鉄、JR東日本時代を経て、昭和63年3月24日より、いすみ鉄道が運営を開始した。
県や沿線自治体が出資する第三セクターのいすみ鉄道は、これまでに三度の社長公募をしており、その三代目社長として就任したのが古竹孝一氏になる。
彼が社長公募を知ったのは平成30年7月27日。この日は古竹氏の誕生日で、いすみ鉄道に運命的なものを感じたそうだ。
「当時はタクシー会社の会長職に就いていて、時間もあり、その年の春に子どもが大学進学で家を出ていたので、何か新しいチャレンジをしたいと考えていました。そうしたらかつて勉強をしていた千葉県にある鉄道会社の社長公募でしょ? しかも僕は大学・大学院で交通を学んでいて、それを知ったのが誕生日ですよ。絶対に適任だと思いました」
一次選考通過後、大学時代の仲間の計らいもあり、多摩モノレールで鉄道について学ぶ機会を得た。鉄道会社とタクシー会社の経営に大きな違いを感じたが、鉄道会社に勤める大学時代の仲間が多いことも後押しとなり、自信を持って最終面談を受けることができた。
「千葉県のそうそうたる方々が面接官を務める前で『僕を採った方がいいですよ』と言い切りましたよ。鉄道の知識がほとんどないのに、生意気ですよね(笑)」
いすみ鉄道の社長に就任してから2年半。今になってやっと「スタートラインに立てた」と古竹氏は語る。この短い期間に、台風や豪雨災害、コロナウイルスなど、さまざまな困難が降りかかるのだが、古竹氏のいすみ鉄道での奮闘については後編で語ることにしよう。
いすみ鉄道本社のある大多喜駅
古竹氏は四国初のタクシー会社として設立された日新タクシー株式会社の三代目として香川県高松市に生まれた。幼い頃から野球が好きだったが、その才能には恵まれず、高校時代は応援部に入部した。
「応援団長を務めていたのですが、この経験から人の頑張るところを応援するのが好きな性格になっていきました」
大学受験の際に将来について考え、真っ先に思いついたのが「道」で、道路を気持ちよく走ることができれば、きっと素晴らしい社会になると考えた。この考えに至ったのはタクシー会社の息子ということが影響しているのだろう。
「高校は母の母校、高松第一高に進学したので、大学は父の母校である日本大学に行きたいと考えました。大きな大学に行きたいとも思っていたので、その意味でも日大は理想的でしたね」
そして、一年の浪人を経て本学の理工学部交通土木工学科(現・交通システム工学科)に合格する。
「大学時代はシェアハウスをするなど、楽しい思い出がたくさんあります。父から『交通博士になれ』と言われて、大学院も日大にお世話になりました。先生や職員さんにもかわいがっていただき、充実した時間を過ごせましたね」
結局、大学院で博士号を取得することはなかったが、父と話し合った結果、関東で就職することを決意する。しかし、ある企業の面接前日に父から帰郷命令が下った。
「ついこの間まで関東で頑張れと言っていたのに、突然『帰って来い』ですからね。僕もすっかりその気になっていたので、悔しくて大泣きしましたよ。あのときに関東で就職できなかったショックも、社長公募に応募した動機の一つです」
それでも心機一転、与えられた環境で頑張ることを誓った古竹氏だったが、高松に帰って驚愕の事実を知る。父の経営する会社は借金まみれだったのだ。
26歳で故郷へ戻った古竹氏が、最初に行った仕事は個人保証の紙に判を押すことだった。
「銀行が持ってきた紙に『限度額7億円』『無期限』と書かされましたよ。これはどうにかしなければいけないと焦りましたね」
個人保証とは、会社が金融機関から融資を受ける際に、経営者や株主だけでなく、その家族なども含めた個人が会社の融資保証をすることだ。人が会社の債務弁済を保証するため、別名「人的担保」と呼ばれる。
いきなり追い詰められた古竹氏は、そこから大量のリストラを敢行。しばらくすると「首切りカッターマン」というあだ名が付けられていた。
「目が合ったらクビ宣告をしていました。ドライバーも中間管理職も見境なかったですね。人を駒のように扱っていましたし、当時はそれで間違っていないと考えていたのです」
32歳で社長に就任した株式会社日新について語る古竹氏
たくさんあったグループ会社が二つになったころ、父からその一つの社長に任命された。気持ちを新たに仕事に取り組むが、思うように会社を経営することはできなかった。古竹氏から人が離れていったのだ。
「あるとき海外の工場見学から帰ったら、10人ちょっとの全社員と父がいて、僕を指差して『この人についていけません』って言うんですよ。そこで初めて、今まで自分がやってきたことは間違っていたとわかりました」
それまでは父の後ろ盾があったため、何を言っても、何をやっても問題が表面化することはなかった。しかし、自分がトップに立ったことで社長業には人望が不可欠であると気づき、人がいて初めて成立するのが会社だということを思い知らされた。
「社長が大事にするのは『人、物、金』の順だけど、僕は『金、物、人』になっていると父から説教をされ、納得しました。それまで父とはケンカが絶えなかったのですが、僕が社長に就いてからは、いい関係を築けましたね。まぁ、その前にこの借金を作ったのは誰だよと、言い返したくもなりましたけど(笑)」
それから3年後、父は他界した。時を同じくして、古竹氏は日新グループ全体の代表に就任する。35歳のことだ。
そのとき日新グループには、従業員を大切にし、安全経営のために必死でもがく、若き経営者の姿があった。
(後編に続く)
<プロフィール>
古竹孝一(ふるたけ・こういち)
1971年7月27日生まれ。1997年、日本大学大学院理工学研究科交通土木工学専攻(現・交通システム工学専攻)修士課程修了。香川県出身。
大学院修了後に香川へ戻り、高松市の日新グループのために尽力。さまざまな経験を経て、人を辞めさせない会社づくりをモットーに、35歳で日新グループ全体の社長に就任。40歳で取締役会長。
2018年11月に社長公募により、いすみ鉄道株式会社の代表取締役に就任。