日本庭園の奥深く、高い技術を生かし
「自然が人に寄り添った庭」を

和泉智樹氏 株式会社いずみガーデン副会長
(1995年農獣医学部農学科〔現・生物資源科学部生命農学科〕卒)

卒業生
2022年11月11日

北海道旭川市で株式会社いずみガーデンの副会長として造園業に従事する和泉智樹氏が、妻・玲実さんと共に設計施工した庭園が、2021年度の「花・緑・庭コンテスト」(プロフェッショナル部門)でグランプリを受賞した。同コンテストは一般社団法人日本ガーデンセラピー協会が主催し、2部門計68件の応募の中から選ばれた。

和泉氏らが設計施工した美術館の庭。

和泉氏らが設計施工した美術館の庭

いずみガーデンは1971年に和泉氏の父・政義さんが創業、和泉氏にとって造園は家業である。いろいろな経験をしたくて北海道から島根県の高校に進んだという和泉氏は、家業を継ぐと決めていたわけではなかったが、特に他にやりたいこともなく、本学農獣医学部農学科(現・生物資源科学部生命農学科)に入学し造園を専攻した。

大学では造園を基本から本格的に学んだ。造園製図の実習では、最初は木の描き方から始まり、個人庭園、街区公園などの設計へと進む。実際に造る公園のアイデア募集のコンペに、チームをつくって応募したこともあった。大学で学んだことで和泉氏の造園に対する見方が変わったという。

和泉氏らが設計施工した美術館の庭を造る作業中の様子

和泉氏らが設計施工した美術館の庭を造る作業中の様子

「家にいた時はどちらかというと家業が好きではなかったのですが、大学で、造園の世界はとても広いものであることを学びました。環境の開発や造成だけではなく、まるで逆の環境の保護や保全も造園の範囲である、と教えられ、すごいなと思いました。もっと誇りを持ってもいいのではないかと感じました」

卒業後は農業研修生という制度を見つけて応募し、2年間アメリカで実習経験を積んだ。半年ほどは学校に通い、残りの期間は数人ずつに分かれて会社や農場で働く。和泉氏の研修先は、日本人の栗栖宝一氏が経営するKurisu International, Inc.(現・Kurisu LLC)。栗栖氏は日本庭園デザイナーとしてオレゴン州ポートランドに会社を設立し、アメリカ各地で日本庭園を築いていた。その会社で実際に穴を掘り、木を植えるなど、庭造りを現場で学んだ。

「栗栖さんの造る庭は、例えばジョンベリーの株立ちの枝の間から苔むした石で組まれた滝が見え、園路の脇には小川が流れ、広い芝生の近くには木陰をつくり、そこにベンチがあったりする緑の似合う日本庭園なのですが、それを見て『あっ、きれいだな』と思いました。それまで例えば京都の寺院の庭を見ても、きれいというより『気を付け』して見なければいけないようなイメージを持っていたのですが、それとは違っていた。どうきれいなのか、その素晴らしさを言葉ではうまく説明できませんが、栗栖さんの造る庭にいるととても優しい気持ちになれます。その印象は今でも残っていて、大事にしています」

40歳を前にして「このままではいけない」と心機一転

研修を終えて北海道に戻り、実家のいずみガーデンに入社。公園造りなどの公共工事や、個人宅の庭造りに従事する。

10数年が経ち、40歳になろうとする頃、ふと迷いが生じた。

「当時は雑誌で紹介されているような庭を、あちこちから切り抜いてつなぎ合わせて図面を書いているようなところがありました。こんな感じになりますよとお客さんに見せて、よければ庭を造り、それでお客さんも喜んでくれます。でもそれは物まねだから、そこに自分がない。これではいけないと思いました」

そんなふうに悩んでいる頃に栗栖氏に連絡を取ると、遊びに来るようにと声を掛けられ、仕事が少ない冬の間にアメリカに行った。そして栗栖氏の「庭は、病気の人も治すんだよ」といった言葉にも触れて、さらに勉強しなければいけないという思いを強くした。

受賞作となった「エールこども園」の園庭「エンジェル・フィールド」1

受賞作となった「エールこども園」の園庭「エンジェル・フィールド」

その機会が訪れた。栗栖氏がミシガン州で日本庭園を造ることになった時に、「手伝ってくれないか」と声を掛けてくれたのである。再び渡米し、「マイヤーガーデン日本庭園」を造る仕事に従事する。その庭は3年で完成したがその後も留まり、計5年間、栗栖氏の下で仕事を続けて帰国した。

「このアメリカでの経験は大きかったです。その間に自分の方向性が決まりました。今目指しているのは、『自然が人に寄り添った庭』です。当たり前ですが庭の主人公はあくまで人なので、そんな庭を作ろうと思って今少しずつ頑張っています」

受賞作となった「エールこども園」の園庭「エンジェル・フィールド」2

受賞作となった「エールこども園」の園庭「エンジェル・フィールド」

今回受賞作となったのは、まさにその方向とマッチした庭だ。旭川市の認定こども園「エールこども園」の園庭「エンジェル・フィールド」。遊具を一切置かず、広い芝生の「のっぱら」や泥遊びができる「つちのひろば」、木登りができる木や草花などを配し、子どもが虫を捕ったりして自然と触れ合いながら、日々小さな発見ができ、働く大人たちも癒やされるような園庭となっている。

最初は遊具を備えた庭も検討したが、子どもは自然に近いところで教育したいという和泉氏たちの思いと、こども園側の思いが一致した。審査でもその点が評価され、外で遊ぶことで命や自然を学ぶことができる教育環境づくりの先進事例であるとの講評が寄せられている。

造った庭と10年、20年後も付き合いたい

現在、いずみガーデンは父・政義さんが会長を務め、母柳子さんが経理、弟の裕則さんが社長、妻の玲実さんは設計部長と、家族中心に経営している。玲実さんはもともと他社で同じ仕事をしており20年以上のキャリアを持つ。社員は17名ほどで、設計、施工、メンテナンスまで行う。

和泉氏が特に手掛けたいのは施設関係だという。それは、より多くの人に自分たちの庭に触れてもらいたいから。美術館や病院、あるいは住宅展示場の庭などを多く造ってきた。また、現在はコロナ禍で中断しているが、オーストラリアで日本庭園を造る依頼も受けている。

和泉氏のベースには大学や、栗栖氏に学んだ日本庭園の哲学がある。

妻・玲実さんと。「エンジェル・フィールド」は設計部長である玲実さんと二人で設計した

妻・玲実さんと。「エンジェル・フィールド」は設計部長である玲実さんと二人で設計した

「限られた空間の中に自然を表現する日本庭園は、世界的に見ると非常にレベルが高いんです。複雑で、奥が深く、高い技術がたくさんあるので、それをもっと広くアピールしていきたいと思っています。これは大学で学んだことですが、一例を挙げれば、飛び石はぬかるんだ道に置かれた世界最古の舗装材と言われ、現代社会では全面アスファルトに比べ舗装面積がとても少ないことから、環境に優しい舗装材です。この飛び石は足元に注意して歩かなければならないため歩行速度が遅くなり、目線が下に向くことから、日本人は飛び石とその周りが一つの美しい景色となるよう、苔を張ったり小さな植物を植えるという工夫をします。そして歩きやすさと美しさのバランスを考えたりします。とても当たり前のようですが、他国ではここまでこだわることはないと思います。そういうことを肩肘張らずに少しずつやっていけたら、新しい日本庭園の形になるのかなと思っています」

「肩肘張らずに」とはこういうことだ。庭造りに従事する人たちは職人であり、技術を一生懸命習得する。すると、自分の技を見てほしいという気持ちが前に出てしまい、行き過ぎると我を押し付ける庭になってしまうことがある。そういう庭はできた瞬間はいいと思うかもしれない。しかし庭造りは完成したら終わりではない。できた後の管理も和泉氏たちの仕事であり、何年も後のことまで考えて庭を造っていきたいのだという。

「庭には四季の変化があり、さらに1年、2年……10年、20年というスパンで考えていくべきものです。だから石とか木とか水という物ではなく、その間の何もない空間を見せるような、全体の空間構成が大事だと思っています。完成したら終わりに見えますが、それが始まりでもある。そこから管理が始まって、四季で木や植物の姿が変わったり、年々成長していったりする。『少し剪定しないといけないね』などとお客さんと会話しながら、庭の成長を楽しむ。ずっと関わることが大事だと思っています。それによってその空間にいる人が癒やされれば、とてもうれしいですね」

<プロフィール>
和泉智樹(いずみ・ともき)
1973年、北海道生まれ。1995年本学農獣医学部(現・生物資源科学部)卒業。

卒業後、農業実習生としてアメリカに渡り、日本庭園デザイナー栗栖宝一氏の下で研修を積んだ後、父が経営する株式会社いずみガーデンに入社、現在は副会長を務める。
上川地方造園業組合理事長を務め、一級土木施工管理技士、一級造園施工管理技士、一級造園技能士などの国家資格を持つ。過去にも全国フラワー&ガーデン選手権最高賞金賞、全国RIK CADパースコンテスト和風大賞などの受賞歴がある。2022年2月には「2023年ドーハ国際園芸博覧会日本政府屋外出展に係るアイデアコンペ」優秀賞を受賞した。