危機管理学部 小谷賢ゼミナール
インテリジェンスの世界が大きく変わろうとしている。きっかけはロシアによるウクライナ侵攻だ。米国のCIA(中央情報局)や英国のMI6(秘密情報部)などに匹敵するインテリジェンス機関を持たない日本は、研究そのものも欧米の後塵を拝していたが、ようやくアカデミアによる本格的研究が黎明期を迎えようとしている。牽引するのは危機管理学部の小谷賢教授だ。
危機管理学部教授 小谷 賢(こたに・けん)
1996年立命館大国際関係学部卒。英ロンドン大キングスカレッジ修士課程修了。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。2004年防衛省防衛研究所教官。08年10月から1年間、英国王立防衛安全保障研究所(RUSI)客員研究員。防衛大学校講師などを経て16年から現職。19年早稲田大非常勤講師。14年から青山学院大非常勤講師を兼任。京都府出身
「インテリジェンスとはただの情報ではなく、分析・評価された、国家の意思決定や危機管理のための情報です」
どちらかというと機密や諜報の語感に近い。ウクライナでの戦争は情報戦を交えたハイブリッド戦争の色彩を強めているが、米国の圧倒的なインテリジェンスがウクライナを有利に導いているという。
「当初ロシアは20人の司令官を送り込みましたが、うち12人が戦死したと報道されています。もしこの数が本当であれば、相当な損耗率だといえます。現地で米国の情報機関はロシア軍の電波通信や、個人のスマートフォンをモニターしていると考えられますが、これによって米国はロシア軍の部隊や司令官の位置を特定しているようです。そうやって得られた位置情報は、米国からウクライナ側に提供され、ウクライナ軍がピンポイントでミサイル攻撃するわけです。昨年4月のロシア黒海艦隊の旗艦『モスクワ』の沈没も米国が位置を特定、そこをウクライナがたたきました」
インテリジェンスから見た場合、ウクライナ戦争では興味深い現象が二つあるという。
「機密情報は機密ゆえに価値がありますが、米英は自らの機密をあえて公開し、ロシアの偽情報にぶつけてこれを駆逐。ロシアの偽情報工作はことごとく失敗しています。さらに同盟国でもないウクライナに機密を提供している。いずれも歴史上例がなく、特筆すべき現象ですが、この傾向は元には戻らないでしょう」
ウクライナ情勢の論文執筆やテレビ解説、2013年から続くNHK-BS「英雄たちの選択」への出演など活動は幅広いが、研究の基盤は聞き取り調査や資料解析などの地道な作業だ。
長らく、中心に行っている研究テーマが「戦後日本のインテリジェンス」。「この分野の研究はほとんど進んでいないのが現状です。外交文書以外、各省庁は機微に関わる面倒な資料は基本、全部捨てます。資料がないので手の付けようがない」
左:膨大なインタビューの集大成となる新著『日本インテリジェンス史ー旧日本軍から公安、内調、NSCまで』(中央公論新社/2022年刊行)
右:翻訳を手掛けた『特務ー日本のインテリジェンス・コミュニティの歴史』(日本経済新聞出版/2020年刊行)
小谷教授が手探りで進めてきたのが国会の議事録や当時の新聞・雑誌に丹念に当たり、元政府職員やジャーナリストなど関係者の証言を数多く集めることだった。2005年に開始した聞き取り調査の人数は数えきれない。長年、足で集めた証言の成果を2022年8月、1冊の本にまとめた。それが『日本インテリジェンス史』(中公新書)だ。
戦後日本のインテリジェンス・コミュニティー(情報を扱う行政組織や機関)を俯瞰する通史ともなるもので、他に類を見ない。門外不出の話やこれまで全く明らかにされていなかった事実が多く盛り込まれている。
その一つが、防衛事務次官クラスでも「アンタッチャブルの世界」とされた陸上自衛隊幕僚監部第二部別室(通称・別室)の秘史だ。当初は日本版CIAを目指したものの実現せず、旧軍関係者を集めて作られたのが同室だ。自衛隊の通信部隊として内閣調査室(内調)とつながり、別室傘下の通信所が各地にあったという。
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1973年の金大中氏の東京・ホテルグランドパレスからの拉致事件に際し、実行犯たちの会話を傍受したのは内調外郭団体からの別室への出向者だったという。
1977年の東京都三鷹市の警備員・久米裕さんが石川県の海岸で拉致された時にも、数日前から電波を傍受。石川県警は旅館などに不審者通報を依頼したという。
このほかKGB(ソ連国家保安委員会)が日本人の戸籍を乗っ取る、いわゆる「背乗り」で、福島県の歯科技工士・黒羽一郎さんが1965年に行方不明となり、KGB工作員が黒羽を名乗って東京で諜報活動を行っていた事案。この事件は30年後の95年、CIAからの情報提供で発覚した。朝鮮系ロシア人が演じていたとされるが、本物の黒羽の行方は依然不明だ。
「冷戦期にスパイ天国だった日本にはロシアのスパイが数多くいましたが、いまだ事件化されていないものも多い。最近ロシア側が表彰することによって実は日本で活動していたという事実が分かってきています」
段ボール箱に詰められた当時の原資料
10数年来の聞き取り調査が「動」とすれば、今回の著書を節目に資料解析などの「静」の研究に入る。その資料の一部が流れ、松本清張の小説「深層海流」の題材になったジャーナリスト、吉原公一郎氏が残した文献や、内調創設に関わった元職員、志垣民郎氏の家に残されていた資料など研究室の傍らにはダンボール箱が積み上げられている。
「証言は十分取れたので今年度から資料集めに着手しています。このほかにもまだ何箱かあり、3年かけてこれらをデジタル化、他の研究者が閲覧できるようネット上に公開します」。書籍化も視野に入っている。
世界で最も伝統あるシンクタンク、英国RUSIでのクリスマスパーティー
ロンドン時代、丸1年、朝から晩まで資料館にこもって資料を手で写す作業に没頭した。「誰も読んだことのない資料を今見ていると思うとモチベーションが上がって。昆虫、アニメ、プラモデル。子どもの頃から熱中しだすと止まらない性格。研究職に向いているのかもしれません」
『日本インテリジェンス史』を他に類を見ないとしたが、正確にはもう1冊ある。
米国の日本研究の第一人者、リチャード・サミュエルズMIT(マサチューセッツ工科大)教授が著した『特務』だ。
同書は防衛省・自衛隊と日米同盟を主軸にしているが、小谷版は戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーが警察や内調を中心に運用されてきたことを描いた。この『特務』の翻訳を行ったのも実は小谷教授。
防衛省の一員として米国防総省を訪問
翻訳も研究の大きな柱の一つで、現在は戦後日本のインテリジェンスを検証したブラッド・ウィリアムズ氏の「Japanese Foreign Intelligence and Grand Strategy」を手掛けており、年内の脱稿を目指す。
「少し欲張りすぎかも」と自嘲気味に言及する次なるテーマが、「戦争の歴史」研究・出版構想だ。「有史以来の人類の戦争を追っていくことによって何かが見えてくるのではないかと」
答えはおぼろげに出ている。
「家族、友人、国家、自由、民主主義。人間は自分の命より大事なものを守るために戦うんじゃないでしょうか。つまり人間が社会的動物である限り戦争はなくならないのかもしれません」
- COLUMN -
大学院
危機管理学研究科修士課程(2023年4月開設)
2023年4月、大学院危機管理学研究科修士課程が新設される。災害、テロ、国際紛争など、複雑化した現代のさまざまな危機に、法学を中核とし、政治学、国際関係学等の社会科学の知見を統合した危機管理学の学識を適用して的確に対処し、翻ってレジリエントな社会の創造に貢献する指導的人材および高度専門職業人を養成する。
想定される進路として、本研究科専任教員はもちろんのこと、中央官庁、地方自治体の危機管理部門専門的職員、BCPなど危機管理の諸分野についての高いニーズを有する民間企業の総合職職員のような危機管理の実践にかかる高度専門職業人を想定している。