スポーツを支える人々
ネクスト・キャリア・フロンティア

Vol.1 井上純一 氏【後編】
西武ライオンズ事業部長(文理学部体育学科卒)
1992年アルベールビルオリンピック
男子スピードスケート500m銅メダリスト

卒業生
2020年07月22日

野球って大きく言えば、国力をつける、国力を上げられる、それぐらいのものだと思っています

ライオンズに関わるまでは、実は野球よりサッカーの方が好きだった。地元埼玉の雄・浦和レッズだ。しかし、関わっていくうちに気持ちは変わり、今では野球のとりこになった。ライオンズ命名70周年だった今年、新型コロナの影響で決まっていたイベントも中止を余儀なくされた。「『withコロナ』から『ニューノーマル』、そして『アフターコロナ』。完全に元に戻るとは思っていません」。来年3月に竣工予定の「ボールパーク化」は順調に進んでいる。「諦めない」男は、今日もゆく。

8年間の人事部配属の先に

井上純一 氏(文理学部体育学科卒)。スラッと高い身長は180cm

スラッと高い身長は180cm。しかし、あの太かった太腿の面影はない。落ち着いた語り口はまさにインテリそのもの

1994年に大学を卒業すると同時に入社した西武グループでは、冬季五輪競技の施設が完備され、恵まれた環境下で競技を続けた。

オリンピックと現役へのこだわりは、1998年の長野大会までと決めていた。自身が26歳なったその年、3大会連続出場は成し遂げたものの、大会で滑ることは叶わず、2年後の2000年、スケート靴を脱いだ。入社から7年後のことだった。

仕事では、関連会社の人事部に配属された。

「最初は人事の仕事が『スケートしかやって来なかった自分ができるのか』と不安もありました。業務内容は福利厚生的な仕事でした。そのうち社会保険や雇用保険など固いことをやって。例えば、『給料からどうやって社会保険事務所へのお金を納付するか』やグループ内にいた大勢の離職者の方の手続きをしたり、社会保険労務士の真似事みたいなことをやっていました」

当時はまだ一人に一台パソコンがあるような時代ではなかった。座っているより動いて覚えた。競技生活と並行して「諦めず」に目の前の業務に打ち込んだ。

「キャリアを積んでいく中で、そのうち処遇や制度系のこともやらせてもらいました」

こうした人事・労務面の経験と知識は、今の事業の礎になっている。

競技引退後も、仕事は変わらず人事・労務、管理部門のスペシャリストとして10年を経た2013年のある日、辞令が出た。

グループが持つプロ野球チーム、西武ライオンズ事業部長のポストだった。

「『スポーツビジネス』が盛んになっていた時期だった。正直、自分は全く勉強していなかったので『ついていけるのか?』と不安の方が大きかったし、実際、(ここまでくるのに)時間もかかりました」

ビジネスチャンスと社会貢献

2021年3月完成予定の「メットライフドーム」の「ボールパーク化」計画予想図

2021年3月完成予定の「メットライフドーム」の「ボールパーク化」計画予想図 ©SEIBU Lions

最初の4年間は、勉強の毎日だった。

「そもそも『ライオンズがどうやってファンを作ってきて、どうやって収益を上げて、どうやってチームに還元して』という体型的な流れをキャッチアップするのに、相当時間がかかりました」

独学で本を読み、歩いては他球団やメジャーのチームを視察して、自分の目と耳と勘で覚えた。

「そうして勉強していくうちに、野球の深さ、力がとても大きいものだと感じるようになりました」

一つはビジネスチャンスとして。もう一つは、社会貢献活動として、だ。

「例えば、スポンサーを得るに当たっては、野球は攻守がハッキリしていて、休憩時間がある。それを1試合平均2万5000人の観客にPR活動できる。これだけでも大きなビジネスチャンス」

一方、社会貢献活動はスケールが大きい。

「野球って大きく言えば、国力をつける、国力を上げられる。それぐらいのものだと思っています」

例えるなら、かつて第1回WBC(2006年)の決勝戦の対キューバ戦は、瞬間最高視聴率56.0%(関東地区)を記録し、王貞治監督の胴上げに日本中が熱狂した。

昨年のプロ野球の全公式戦観客動員数は2650万人(史上最多)で、日本の全人口の5分の1以上に当たる数字。

確かに、野球の持つ力は甚大だ。

「先ずは、埼玉県民を全員ライオンズファンにしたい。そして、ホームゲームでスタジアムを全試合満員にしたい。そのために、やれること、できることはどんどんやっていきたい」

より地域に根差した連携を、と県内の50自治体と協定を結んだ。県と組んで2018年にはライオンズのキャップを全域の小学生約30万人に配布した。

「子どもたちにも最終的にはライオンズファンになってもらいたいですが、先ずは帽子をかぶって外遊びに出て欲しい、と。野球以外でも良いから運動して欲しい、そう思って配布させてもらいました」

先の見えない新型コロナの影響

子どもの遊戯施設や選手が練習する「練習場」にもファンが入れるエリアを開放

子どもの遊戯施設や選手が練習する「練習場」にもファンが入れるエリアを作り、試合だけでない楽しみ方を提案する ©SEIBU Lions

県内のプロ野球チーム、ソフトボールチーム(埼玉西武ライオンズ、埼玉アストライア=女子プロ野球、埼玉武蔵ヒートベアーズ=BCリーグ、戸田中央総合病院メディックス=ソフトボール)と組んで立ち上げた「PLAY-BALL! 埼玉」も、野球・ソフトボールをする子どもが減っていたことへの危機感が、プロジェクトへと繋がった。活動としては、野球・ソフトボールの競技の楽しさ・魅力を体験できるプログラムを実施している。

井上さんが管轄する事業部では、対消費者向けの「チケット」「グッズ」「ファンクラブ」などの事業を担っており、売上は球団収入の約半分を占める。

「チケット」では、“試合の価値の違い”に着目し、平日と休日、対戦カードや季節など、需給バランスを反映した結果、一律でなく料金に差をつける「フレックス制」を導入してから、収益が上がってきた。

「グッズ」では、試合日に偏っていた売上を、試合日以外に販売を強化していくか、に注力し、ECサイトの作り込みも常に変化・改善してきた。

「ファンクラブ」では、元々あったライオンズ「友の会」を引き継ぎ、CRM(顧客管理)を使って、しっかりとコントロール。現在、会員数11万人を超えるなど年々、増加傾向にある。

ほかにも「スタジアムグルメ」なども含め、少しずつ時間をかけて、全体を上手く整えてきた結果が、全て数字に表れてきていた。

それが、今年はほとんどが無くなった。

7月21日から有観客で始まる本拠地「メットライフドーム」での興行も、まだ不確定要素が山積している。

「これまでライオンズファンになって頂いて、メットライフドームに足を運んで下さっていたファンの方々が遠くなる。球場に来なくてもライオンズを応援して下さる方々をいかに作っていけるか」

プリンスホテルとコラボレーション

川越プリンスホテルにある1室限定の「ライオンズコラボレーションルーム」

川越プリンスホテルにある1室限定の「ライオンズコラボレーションルーム(ノベルティグッズ付き)」

打開策が必要なのは、球団ばかりではない。系列会社のプリンスホテルから提案があった。

「川越プリンスホテルには『ライオンズコラボルーム』を作り、まるで球場さながらの部屋の中で、試合日にテレビの前で応援していただき、同じ観戦プランを利用しているファンの方同士をオンラインで繋いで一緒に観戦して頂いた」

オンラインではMCも付けて応援を盛り上げるほか、この企画のために撮影した選手メッセージも届けるなどコラボレーション施策は大当たり。企画は継続予定だ。

「私のいる事業部でも、チケットやグッズ、ファンクラブとそれぞれ担当者がいます。改めて会社って人でできていて、その人とどう向き合うか、だと思う。適材適所の人材に上手く動いてもらいながら、成長させることができるか。スケートや会社の人事部で教わったことは、すごく勉強になりました」

高校時代、たった6人の部員と恩師に後押しされ、大学へ。その大学でも指導者に恵まれ、仲間と切磋琢磨し、国内の頂点に立って、世界でも3本の指にも入った。西武グループ入社後も、不慣れな事務方の仕事で、組織と社員両方に向き合い、学んできた。

学んだことを見直し、一度手放して、新たに独自のものを作る。教訓とする「守・破・離」そのもののように、井上さんは、師と仲間から教わり、自ら学び・研究し、新たな形を作ってきた。

ライオンズが新たに描く「ボールパーク化」(2021年3月竣工予定)構想にも、井上さんの存在は欠かせない。

「とにかく一人でも多くの方にライオンズファンになってもらって、野球の力でもっともっと社会に貢献していきたい」

そのためにも「まだまだ諦めない」。そんな井上さんの声が聞こえた気がした。

<プロフィール>
井上純一(いのうえ・じゅんいち)
1971年(昭和46年)12月26日、埼玉県秩父郡荒川生まれ。
中学1年からスピードスケートを本格的にはじめ、県立秩父農工高校3年時にインターハイ3位となり、本学文理学部体育学科に進学。在籍した4年間、国内ではインカレ4連覇を飾り、1992年冬季オリンピック・アルベールビル大会では500mで銅メダル獲得。続く、リレハンメル大会では、500mで6位、1,000mで8位と2大会連続入賞を果たした。3大会連続出場となった長野大会では、代表入りも本戦出場なし。ワールドカップ通算3勝。2000年に現役を引退し、西武グループ入社。関連会社で人事部門などを経て、2013年に現職。