我、プロとして

Vol.15 古竹孝一 氏【後編】いすみ鉄道株式会社代表取締役
(1997年日本大学大学院理工学研究科交通土木工学専攻〔現・交通システム工学専攻〕修士課程修了)

卒業生
2021年06月04日

日大出身者の助けが僕の力になる

新たなステージを欲していた日新グループの会長・古竹孝一氏は、いすみ鉄道の社長公募に応募し、2018年に代表取締役に就任した。かつて青春時代を過ごした千葉県で、経営者として新たな一歩を歩み始めるのだが、その先には台風、豪雨災害、コロナウイルスなど、さまざまな困難が待ち構えているのだった。

地域の街づくり

40歳になった古竹孝一氏は、代表取締役会長になった。若くて有望な人材に社長業を身につけさせるために両代表制度を採用したのだ。

「田舎の会社社長は平均年齢が高く、60代の方が多いのですが、その原因のほとんどは引き継ぐタイミングを逸しているんです。幸運にも僕は若くして社長になり、いいことも悪いことも経験できたことが財産になった。だから、みんな社長をやればいいと思ったのです」

両代表制度ではまず、権限を新米社長に渡した。古竹氏はサポート役に徹し、新社長がやりたいことをやりたいようにやらせたそうだ。

次第にサポートは必要なくなり、時間に余裕ができた古竹氏は、地域の街づくりイベントを積極的に企画し、開催していった。

「うどんと音楽を掛け合わせた『UDON楽』ではジルベスターコンサートを行いました。他にも香川に三つの路線を持つ、ことでん(高松琴平電気鉄道)ともイベントをしましたし、街づくりイベントをきっかけに、歌手のさだまさし氏が設立した、公益財団法人風に立つライオン基金の四国支部も任されました」

ことでんの社長をきっかけにいすみ鉄道の社長公募を知るなど、街づくりイベントに参画したことは、いすみ鉄道の社長になる上でも好影響を与えてくれた。なお、風に立つライオン基金で現在は理事長を務め、災害に苦しむ人への支援、ささやかで偉大な活動を行う人の応援など、「いのち」や「平和」のための活動を行っている。

日大卒が財産に

人気の高い、国鉄型ディーゼルカー「キハ52」にて

人気の高い、国鉄型ディーゼルカー「キハ52」にて

若くして社長に就任したことで得た経験、街づくりイベントで得たアイデアを形にする実行力が買われ、2018年11月に古竹孝一氏はいすみ鉄道の社長に就任した。

しかし、その船出は順風満帆とは言えなかった。

「パートさんが責任者だったり、BCPがなかったり、そもそもそのようなスキームがなかった。組織図にできない状態ですから、これは会社とは呼べません。第三セクターというのは不思議な世界で、足りなければもらえればいいという考えが染みついている。もちろん社員は仕事を頑張ってはいましたが、『このままではいけない』という危機感を持った人は少なかったです」

1円でも足りなければ会社存続の危機となる民間会社とは異質の空間がそこにはあった。そのような状況から奮闘することになった古竹氏に手を差し伸べてくれたのは、日大出身者たちだった。

古竹氏が始めた事業の一つに「い鉄ブックス」がある。

いすみ鉄道に寄付された本をオンライン上で販売し、その収益の一部をいすみ鉄道支援のために活用するというプロジェクトで、現在まで6000冊を超える本が集まっている。

「い鉄ブックス」事業を始める段階で問題となったのが、本の保管場所だ。その倉庫を日大卒業生が貸してくれることになった。

「支店長制度という事業では、理工学部の研究室にも協力していただきました。他にも千葉県の交通計画課の方、大多喜町の商工会会長、上総中野にある建設会社の社長など、日大出身者の方々が助けてくれました。校友会にも講演する機会をいただきましたし、千葉に来てから日大出身でよかったと思うことがたくさんありました。これは僕の財産ですよ」

大きな鉄道会社では大金を使って大きな事業を起こすことができる。しかし、赤字続きのいすみ鉄道には、金銭的な余裕がない。だからこそ小さな事業をコツコツと積み上げることが大切で、その際には近隣住民や支援者の協力が欠かせないのだ。

「共通点が一つでもあると、その人に親近感を持てますし、うれしいですよね。日大出身者というのは本当にたくさんいて、四国に比べて関東は多い。『応援してるよ』という声だけでもいい。それが僕の力になります。在校生でも卒業生でも、いすみ鉄道と何かしたい、協力したい、してほしいという方がいれば、是非ご連絡をいただきたいですね」

チーム千葉を目指して

周囲の協力もあって、少しずつではあるが、着実に古竹氏といすみ鉄道は前進していくのだが、この2年半で直面した困難は数え切れない。

台風、豪雨、コロナウイルスと3年連続でいすみ鉄道は大きな被害に見舞われた。

特にコロナ禍での2020年の緊急事態宣言では乗客が全くいなくなり、絶望的な状況だった。そして古竹氏はその光景を、神様からのお告げと捉えた。

「誰も乗車していない車両を見て、何もしなかったら10年後にはこうなると教えてもらえた気がしたのです。だから先にこの光景を見ることができたのはチャンスで、何とかこの逆境を跳ね返さなければいけないと思いました」

古竹氏が常に考えを巡らせているのは、千葉県のために何ができるかということだ。

いすみ鉄道と言えば、菜の花や観光列車としてのイメージを持つ方が多いことだろう。もちろん観光客や鉄道ファンの需要は大事にしていかなければならないが、それと平行して沿線住民の増加にも貢献したいと古竹氏は言う。

「この地域の人口は約8000人で、過疎化が止まらない状況です。今はリモートワークが推奨されていますが、その意味ではいすみ市や大多喜町はとても良い環境だと考えます。大多喜町は都心に出るのも車なら1時間ほどですし、房総半島のほぼ中心にあるので、勝浦、大原、木更津や鴨川も30分ほどで行くことができる。ですから我々が千葉県のハブとなれるように、地域の街づくりを頑張りたいのです」

街づくりのアイデアの一つとして、国吉駅近くにあるシャッター商店街をブックロードにするという案を練っている。

い鉄ブックスの所有する本を商店街に広く置き、商店街を本で埋め尽くす。そして読み聞かせや批評会などのイベントを行い、地域活性化に役立てたいというのだ。

「僕は一流の社長ではないですし、小さなことしかできません。ただ、その小さな一つ一つを積み上げて、その中で地域と地域を繋げる役割を担えたらと考えています。就任の際にチーム千葉、チームいすみ鉄道を目指すと言いましたが、その思いは今も変わりません」

古竹氏のこれまでの経営者人生は波乱万丈だった。だからこそ多くを学び、さまざまな場面で喜怒哀楽を感じ、糧とすることができたのだ。

インタビューの最後に将来は再び本学で学び、後輩のために教壇に立ちたいと語った古竹氏。有言実行の男だ。きっとこの目標も達成させるに違いない。

そしてその日までに、新たに何かおもしろいことをいすみ鉄道でやってのけてくれるはずだ。

<プロフィール>
古竹孝一(ふるたけ・こういち)

1971年7月27日生まれ。1997年、日本大学大学院理工学研究科交通土木工学専攻(現・交通システム工学専攻)修士課程修了。香川県出身。
大学院修了後に香川へ戻り、高松市の日新グループのために尽力。さまざまな経験を経て、人を辞めさせない会社づくりをモットーに、35歳で日新グループ全体の社長に就任。40歳で取締役会長。
2018年11月に社長公募により、いすみ鉄道株式会社の代表取締役に就任。