我、プロとして

Vol.16 伊田寿光 氏【前編】
へら竿師(1999年通信教育部文理学部史学専攻卒)

卒業生
2021年06月15日

お客さんからの「最高だったよ」の言葉こそ竿師としての生きがい

1年という長い歳月をかけて職人の手によって作られる、紀州へら竿。古くは大正の時代から親しまれてきたへら鮒釣り専用の竹竿だ。伝統工芸品としても注目される美しさを持つ竿を作るへら竿師として活動するのは、伊田釣具店の伊田寿光氏。化学素材が主流になる釣り具において、未だ人の手で1本1本作り上げるへら竿の魅力とは。伊田氏にお話を伺った。

亡き祖父を追いかけて職人の道へ

「親方は、作る竿の核心に迫る部分は教えてくれません。でもそれで良いんです。そこは自分が独立して竿を作っていく課程で探求して見つけ出すもの。それがその竿師が作るへら竿の味になるわけです」

この言葉こそが、へら竿のすべてと言っても過言ではなかった。

大正時代に関西の釣り堀で始まったと言われるへら鮒釣り。昭和初期から爆発的に広まりを見せた和のスポーツフィッシングと言われるほど親しまれている、日本ではポピュラーな釣りのひとつだ。そのへら鮒釣りに欠かせないのが、竹で作られるへら竿である。

へら竿の創始者は竿正と呼ばれる竿師。竿正が1882年の大阪で作り上げたのが始まりと言われている。

当時から紀伊山地に生息する高野竹が中心に原材料として使われていた。そのため、産地に近い和歌山県橋本市に竿師が集まり、文化として根付いたことで発展し、今に至る。

今では伝統工芸品としての美術的な価値も高い紀州へら竿。火入れをした竹を使うこと、漆を使うこと、握りの作り方なども含めたその製造方法は、竿正の時代から変わらずに伝承され続け、今も同じやり方で作り続けられている。

そんな伝統工芸の世界に27歳で飛び込んだのが、伊田寿光氏だ。今は寿仙の銘でへら竿師として活躍している。

伊田氏は埼玉県にある伊田釣具店の四代目。初代である祖父がへら竿師だったことが、伊田釣具店の始まりだ。

「へら竿師だった祖父が作った竿を、父が売る。そういうスタイルでやってきました。で、祖父が亡くなり、へら竿を作る人がいなくなったところで、私が竿師になることを決めたんです」

祖父の伊田勇亀氏もへら竿師として活躍していた

祖父の伊田勇亀氏もへら竿師として活躍していた

釣りは幼少期から親しんでいたし、職人として竿を作る祖父の姿も見続けてきた。家が釣具店ということも理解していたし、そういう背景もあっていつかは、自分も家を継ぐんだろうと思っていた。

ただ、両親も社会を知らないまま業界に入れるつもりもなかった。伊田氏は日大卒業後、東京日産自動車販売株式会社に入社する。

「そこで2年半、営業をやっていました。そこで、年に1回、会社が設定した業績をしっかりと上げた社員に贈られる、優秀社員表彰というのがあったんです。それを入社して2年半で取ることができたんです。ちょうど良い区切りだな、と思って退職して、職人になる道に進むことを決意しました」

自分が作る竿を待ってくれる人がいるから頑張れる

『寿仙』というのが、伊田氏のへら竿師としての銘だ

『寿仙』というのが、伊田氏のへら竿師としての銘だ

伊田釣具店でも取り扱っていたへら竿を作っていた竿師、魚心観という親方のもとで修行することが決まった。それが2002年3月のことだった。

「今じゃ考えられないくらい、厳しいです。肉体的にではなく、精神的に、ですね」

その洗礼は、弟子入りした直後に訪れた。

「うちの親方は年に2回竿を作るんですけど、そのうちの1回の全工程を見せながら教えてくれるんです。竹をこうするんだぞ、こうやって火入れしてこうやるんだぞ、と。6年間親方のもとで修行をしていたんですけど、結局教えてくれたのは最初の1回だけでした」

2回目は、なかった。当時は理不尽にも思えたが、自分が独立して職人としてへら竿を作っていくと、親方のやり方にも納得できた。

この世に1本しかないへら竿は130を超える行程を経てできあがる

この世に1本しかないへら竿は130を超える行程を経てできあがる

「結局職人芸なので、全部自分次第なんです。どういう調整をして竹を真っすぐにするか。何を持って真っすぐであると判断するか。それらすべて職人の感性でしかないんですよね。だから、今なら親方が教えないという理由も良く分かります」

だが、やはり失敗はある。伊田氏も大きな失敗を1年目にしたという。

「親方のところに竿の修理の依頼があったんです。それを私が担当したのですが、最後の最後にポキッと竿を折ってしまって。親方も自分の竿ではなく、お客さまの竿でしたから、もうカンカンでした」

しかもその竿の納品は翌月に迫っていた。といっても折ってしまったら、同じ竿は作れない。はじめて客に頭を下げた瞬間でもあった。

「へら竿は1本作るのに1年かかる。つまり、その方は1年待たないといけないんです。謝りに行ったら、その方は『良いですよ、待ちますよ』って言ってくれたんです。申し訳ない気持ちと同時に、うれしい気持ちもありました。こうやって自分が作る竿を待ってくれている人がいるんだ、だからもっと頑張ろう、と思えたのです」

客からの挑戦に職人として受けて立つ面白さ

1本のへら竿を作る工程は、なんと130を超える。しかも、1工程といっても単純作業の工程ではない。慎重に慎重を重ねて調整し、細かく作り上げていく。

たとえば火入れという作業がある。竹を火であぶり、ため木という道具を使って少しずつ竹の曲がりを修正し、真っすぐにする。これは何度も行う工程のひとつだが、竹は火であぶることによって伸びて軽くなり、強度が増していく。つまり、この火入れこそがへら竿師のキモと言っても過言ではない。

へら竿にとって、真っすぐであるかどうか、そして強度があるかどうか、軽いかどうかは非常に重要なポイントになる。

「へら竿師には、ホソカルピン、という言葉があります。細くて、軽くて、ぴんっと真っすぐに伸びた竿、という意味です。やっぱり良い竿は何度釣っても、しなるけど、曲がらない。粘りのある強さのある竿なんです」

もちろん、素材の竹によっても大きくできあがりが変わってくる。季節によっても、竹の調子は変化する。つまり、へら竿師が作る竹竿は、この世にたった1本しか存在しないのである。

「へら竿は、1本作ったから終わり、じゃない。お客さんからの要望を聞きながら、修正したり調整したりを繰り返します。中には、クレームと言ってもいいくらいのことを言われることもありますよ(笑)。でも、へら竿師としたら、それはもう挑戦状を突きつけられたようなものですから、『じゃあやってやろうじゃないか』って燃えるわけです」

最高の竿だった、と絶対に言わせたい。その一心で作り上げる行程こそが、この仕事の面白さであり、魅力であると伊田氏は言う。

大変なことも多いが、その分だけ面白さや楽しさも多いと言う伊田氏

大変なことも多いが、その分だけ面白さや楽しさも多いと言う

2008年に親方のもとを独立し、唯一無二のへら竿を作り続けて13年目になる伊田氏。へら竿師として、最もうれしい瞬間はいつですか、という質問に、腕を組みながら、少し照れたようにこう話した。

「やっぱり、お客さんからの言葉がいちばんですよ。1本作るのに時間がかかるし、作ったからといって何本も売れるわけじゃない。苦しいことのほうが多い業界ですけど、お客さんから『この竿、最高だったよ』なんて言われたら、本当にうれしいですよね」

<プロフィール>
伊田寿光(いだ・としみつ)

1974年12月28日生まれ。1999年、通信教育部文理学部史学専攻卒。埼玉県出身。
大学時代はバレー部で活躍し、卒業後は東京日産自動車販売株式会社に入社。2年半で優秀社員表彰を受賞し退社。
2002年3月に魚心観親方に弟子入りし、6年間の修行期間を経て2008年3月に『寿仙』の銘をもらい独立。伊田釣具店のへら竿師として活動を開始した。