Vol.17 松井龍哉 氏【前編】
デザイナー/美術家(1991年芸術学部デザイン学科卒)
松井氏がトータルデザインを手掛けたシェアオフィス・コワーキングスペース「axle御茶ノ水」にて
新進気鋭のロボットデザイナーとして名高い松井龍哉氏。これまでに手掛けた作品でGood Design賞、ACCブロンズ賞、iFデザイン賞、Red Dot Design賞を受賞するなど、国内外で高い評価を得ている。さらに第6回日藝賞を受賞し、本学芸術学部客員教授に就任。他にも成安造形大、早稲田大、東京理科大で教壇に立ち、航空会社「スターフライヤー」やシェアオフィス・コワーキングスペース「axle御茶ノ水」ではトータルデザインを手掛けるなど、幅広く活躍している。前編では平等院奉納プロジェクトの『œuf ho-oh(鳳凰の卵)』、幼少期から高校時代までについて語ってもらった。
京都府宇治市にある世界遺産 平等院。
時の関白・藤原頼通が父である道長より譲り受けた別業を仏寺に改め、創建したのは1052年。翌1053年に建立されたのが池の中島にある阿弥陀堂で、まるで極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、水面に美しい姿を映している。
華やかな藤原摂関時代をしのぶことができる貴重な御堂が「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは江戸時代初期のことで、正面から見た姿が翼を広げた鳥のように見えること、屋根上に一対の鳳凰が据えられていることが由来と言われる。
その平等院に新型コロナウイルス感染症終息を祈念して実施される奉納プロジェクトの申し出があった。奉納されるのは本藍染ガラスアート作品「œuf ho-oh(鳳凰の卵)」で、そのデザインとコンセプトは松井龍哉氏によるものだ。
œuf ho-oh(鳳凰の卵)のイメージ図
松井氏は平等院の上空を1000年飛んでいる鳳凰が池に卵を落としたというストーリーを想像した。『œuf ho-oh(鳳凰の卵)』はその瞬間をガラスの中に収めた作品である。
「鳳凰の卵はコロナ禍の世を鎮め、次の世を担う為に平等院の鳳凰が産み、2052年に開創1000年を迎えるまでの30年間で孵化するというイメージです。これまでの1000年とこれからの1000年をつなぐのが現在のコロナ禍であると僕は捉えていて、この作品は、今日の闇から次に向かう意思を示した歴史の証であり、僕たちが懸命に生きている現在を未来につなぐ碑でもあります」
平等院を映す水面は日本の伝統色である「藍」で表現した。国選定の阿波藍製造技術無形文化財保持者・佐藤昭人氏による「蒅藍(すくもあい)」を用い、本藍染雅織工房の藍染師・中西秀典氏が製作した本藍染布を使用。それを高透明ガラスと光学ガラスを使用した組ガラスで挟んだ。
「ガラスの中に2方向からレーザー光線を当てると光が重なった箇所に微小なヒビ(クラック)発生するので、それを利用してガラスの中に3Dで卵を形作りました。ですから最高級の素材と最先端の技術で作られた彫刻作品になります」
『œuf ho-oh(鳳凰の卵)』は2021年7月5日から3カ月間、平等院ミュージアム凰翔館で展示される予定だ。歴史に残るこの素晴らしい作品を是非多くの方に見ていただきたい。
そして、この作品を生み出した松井氏のこれまでの歩みについて、本記事で紹介させていただきたい。
松井氏は1969年に東京都で生まれた。
幼少期から物を作ることが好きで、将来は何か物を作る仕事に就きたいと考えていた。小学校1年から中学3年まで絵画教室に通い、絵を描くことも好きだった。
「僕が幼い頃は、ロボットが登場する漫画やアニメが多かったのですが、ロボットを操縦するヒーローよりも、それを作る博士に憧れるという少年でした。作風も悪と戦い地球を守る『マジンガーZ』も良いのですが、実際の家庭の中に溶け込んだ『がんばれロボコン』にある妙なリアリティが好きでした。しかし9歳の時に「スターウォーズ」を観てからはR2D2に恋焦がれましたね。クオリティの高いリアリティに魅せられました」
建設会社に勤めていた父からは、平等院、奈良の大仏、法隆寺など、いろいろな建築に触れる機会を与えてもらった。その中でも印象に残っているのは、フランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルが移築された明治村と赤坂プリンスホテルだ。
「赤坂プリンスホテルで、エーロ・サーリネンという建築家の椅子を初めて見たんです。『カッコいい!』と思わず声に出してしまった椅子は、それが初めてでした。それからほどなくして自分で椅子を作りましたね」
愛用する椅子はル・コルビュジエの代表作「LC7」
小学生の時に自宅改修のためにいつも大工が家にいて、家の建て方や図面の読み方などを教えてもらった。中学に入り椅子の作り方を習い自作した。次第に凝った椅子を作るようになる。父の靴磨き用に作った椅子は足を置くための台が出てくる展開椅子で、自画自賛の出来だった。
「他にも当時使用していた学習机が恰好悪くて好きじゃなかったので、机も作りましたし、6畳の自室も作らせてもらいました。6畳の感覚というのは今でも自分の空間認識の基本になっていますし、椅子にはデザインに大切な要素が全て詰まっていると思いますね。デザイナーという仕事があるのを知ったのもこの頃だったと思います」
デザインに興味を持ったまま中学に進学した松井氏は、進路を考えていたときに、日藝の美術学科にデザイン科があることを知る。近所に住む大学生が日藝生だったこともあり、大学は日藝へ行くことしか考えられなくなった。
「日藝に行くために高校は付属校に入った方がいいと考えました。当時、鶴ヶ丘高には美術科がありましたし、鶴高卒の生徒は日藝へ進む人が多かったので、進路は自ずと決まりましたね」
日大鶴ヶ丘高へ進学を果たした松井氏は、ここからデザイン漬けの高校生活を送ることになる。
印象に残っているのは毎日1匹のにぼしをデッサンするという課題だ。テレビや映画のような甘酸っぱい青春というよりはやりたいことが明確だったので芸術を基礎から学ぶ充実した高校時代だったそうだ。
そして何より自由な美術科にはいい思い出がたくさんある。
鶴ヶ丘高時代について語る松井氏
「普通科の生徒が修学旅行で沖縄へ行くなか、僕らは京都、広島へ行きました。美術科の先生はユニークな方が多く、『人生は短い、自由に生きろ』みたいなことを言われて、泊まる場所だけ決まっていて、自由に行きたいところを見て回るなどルールに縛られない方針が性に合っていた。学校帰りはのちに皆デザイナーになる美術科の友人達と渋谷や下北沢に行き、映画や海外のデザインの本を読むなどとても楽しかったですよ」
高校時代のアイドルはアンディ・ウォーホールだった。文化祭で映画を製作したりPOP ARTに興味を持つなど、彼が松井氏に与えた影響は大きい。
「将来はMoMA(ニューヨーク近代美術館)で展覧会を行い、ウォーホールに肖像画を描いてもらうというのが当時の大きな目標でした。ですから高校卒業間際に死んでしまったのはショックでしたし、うちのクラスにとっては大事件でしたね」
デザイナー松井龍哉にとって、その基礎を作り、感性が磨かれた高校時代はかけがえのないものだ。現在、鶴ヶ丘高に美術科はなくなってしまったが、松井氏はその復活を望んでいる。
「これからの時代はクリエイティブな人材を育てなきゃいけないと僕は考えていて、その意味で高校3年までの時間に本物を見る・知るということは、創造的に生きる全ての人に、とても大切なことです。ですから、日大には小学校や幼稚園もあるのでその頃から美術の教育にもっと力を入れてもらいたいですし、全ての付属校にデザインの授業を入れて欲しい。これまでのような”ルールを厳守する人材教育”では劇的に変化する世界にあっという間に飲み込まれてしまう。自らがルールを作り出せるような能力はやはり芸術やデザインを学ぶことでしっかり身についていきます。具体的には高校卒業時にクリエイティブな表現ツールとしてAdobeのソフトのフォトショップとイラストレーターが使えて、プログラミングができるようになれば、将来絶対に役立ちますよ。英語が喋れなくても海外で自活だって出来ます。」
<プロフィール>
松井龍哉(まつい・たつや)
1969年1月2日 東京都生まれ。1991年芸術学部デザイン学科卒。
本学卒業後に丹下健三・都市・建築設計研究所を経て渡仏。帰国後に科学技術振興事業団ERATO北野共生システム研究員。2001年にフラワー・ロボティクス社を設立。自社ロボットの研究開発からトータルデザインまで幅広く手掛けている。
ニューヨーク近代美術館、ベネチアビエンナーレ、ルーヴル美術館内パリ装飾美術館 ヴィトラデザインミュージアム等でオリジナルロボットの展示を実施。また近年は美術家として現代美術作品を制作/発表し収集されている。2006年 個展:松井龍哉展(水戸芸術館) 2011年 個展:花鳥間(POLA MUSEUM ANNEX)